第7話
扉は、風の止まった森のように沈黙していた。
私たちが辿り着いたのは、灰色の石壁に囲われた半地下の研究施設──ヴィクターが姿を消す前まで使用していたとされる場所だ。薄闇が廊下の先を飲み込み、その奥に何が潜むのかは読めなかった。だが、冷たい空気には確かに残響が漂っている。微かに、魔力の揺らぎが皮膚を刺す。
「入るぞ」グランツが低く唸るように言った。
「待って!」リシアがすぐ制した。「魔力反応、規則的……多分、結界式の残り香。無闇に進むべきじゃないわ」
「だろうな」私は反射的に答えていた。仲間を後ろに下げ、懐の短剣へと手を添える。護衛の動き──まるで、誰かを前に立たせたくないような。
その瞬間、エリオが私の肩に手を置いた。
「カイン、無理しなくていい。最近、ずっと顔色悪いし……俺たちで分担できるところはやるからさ」
胸の奥で、何かが軋む。
私は、心配そうな彼の目を直視できなかった。記憶を失くしたことを、彼は責めもしない。ただ、変わった私を疑うこともしない。ただただ、良い奴だ。
「大丈夫だ。行こう──俺が先に立つ」
扉が軋む音とともに開き、私たちは内部へ足を踏み入れた。
壁いっぱいに並ぶ魔導装置の残骸。砕けた水晶、焼け落ちた魔紋。だが一部にはまだ淡く青い光が脈打っているものもある。まるで今も誰かが研究を続けているかのように。
「これ……ヴィクターが本当にここで研究してたって証拠よ」
リシアが割れた魔導端末の破片を拾い上げ、浮かぶ文字を解析しようと魔力を流しこむ。
表示されたのは、文章の断片──
《世界はあまりにも歪で、人はあまりにも脆い。
未来を託すには、あまりに……》
声にならない震えが背中を這う。
孤独、怒り、諦念。それらが混ざりあった感情の濁流が、どっと脳内へ押し寄せてくる。
「カイン? 大丈夫?」
エリオの問いが微かに遠く聞こえた。
「ああ……ただ、少し頭が重いだけだ」
それは嘘ではなかった。本当に、重い。まるで過去の声が直接脳を叩きつけてくるようだ。この場所に残ったヴィクターの精神の残響──ノイズの源。
奥へ進むと、中央に巨大な魔力炉が据えられていた。
その前に、足を止める。
床一面に刻まれた複雑な紋様。無数の魔法回路が幾何学的に交差し、ところどころ破損している。罠──それも高位術式だ。
「ひとつ間違えば蒸発って類だろうな」グランツの声が低く落ちた。
「でも触らないと進めない。どうすれば……」
リシアが思案し始めるが、その眉は深く寄っていた。
私は無意識にしゃがみ込み、床の継ぎ目や欠損部分に触れる。
「魔法解除じゃねぇのか?」
「……違う。これは破壊じゃなく再接続だ」
言葉が、口をついて出た。自分でも驚くほど滑らかに。
私は祭壇の歪みに、手持ちの金属片と魔導繊維を組み合わせ、素早く接合を行う──まるで長年訓練してきた作業のように。
「ちょ、ちょっと!?カイン、それ魔術師のやり方じゃなくて──」
「職人の修復手順だろ、それ」グランツが目を見開いた。
動揺。ふたりの視線が刺さる。
だが私は視線を返さず、ただ回路の補強に集中する。攻撃魔法では突破できない。むしろ、地味で手間のかかる作業の方が正解だと身体が知っている。
カチリ──回路が音を立て、青い光が一斉に走った。
罠が解除された。
「は、はぁ……すげぇなカイン。まるで──」
「誰かを守るために、危険を先に摘み取る動き」
エリオが柔らかく言う。それは、従者のような……いや、盾役の本能だ。
「そんなの、あんたの性格からは考えにくいのにね?」
リシアが首を傾げ、無邪気な目で核心に踏み込む。
心臓が跳ねた。
知られてはならない。いや──自分でも理解できない。
なぜ私は攻撃でなく、守りの術式ばかり身体が覚えている?
その時だった。
奥の闇が揺れ、無数の光粒子が浮かぶ。
防衛機構──人影のホログラムが展開する。
「侵入者、排除対象……」
虚ろな声。だが姿形は間違いなくヴィクターだった。若い。まだ世界を諦める前の瞳。
だが、私は視界が歪み始めていることに気づく。
世界が二重に揺れ、意識が引き裂かれる。
──別の時間のヴィクターが、こちらを見ていた。
未来の残像。
私は剣を握りしめた。倒さねば──いや、救わなければ?
「カイン!」
声が遠い。
だが私は進む。視界は白く点滅し、時間がもつれ、呼吸がうまくできない。
目の前に幻影のヴィクター。
私は剣を振る。届かない。斬れない。──何度振っても触れられない。
無力感が胸を締めつける。
幻影は言葉を残して消えた。
《私を追うな。未来は救えない》
膝が崩れ、私は前のめりに倒れ──
「無理するな!立てなくてもいい、背負うから!」
エリオが抱き止めた。温かい。
視界が暗く沈むが、彼の腕が確かに支えてくれている。
「……進みたい。俺は、まだ……」
「だったら俺が支える。お前は歩ける分だけでいい」
疑わない。責めない。
ただ、信じてくれる。
私は息を整え、再び立ち上がる。
──奥にまだ、目的の素材がある。
ヴィクターの痕跡。
そして、きっと真実が。
足音は、暗い廊下に吸い込まれていく。
私はまだ呼吸の乱れを引きずっていたが、エリオの手が背中に添えられているおかげで、歩幅は安定していた。
「どんなに辛くても言えよ? お前は無茶して倒れるタイプだ。分かりやすいくらいにな」
エリオは笑ってそう言うが、その目の奥は本気だ。
もし私が倒れたら、迷いなく背負って歩くだろう。そういう男だ。
「……ありがとう」
短く返すだけで喉が熱くなる。
自分の過去が見えないのが怖い。だが、この優しさを失うのはもっと怖い。
進むと、石造りの廊下は研究区域へと繋がっていた。
天井には小さな魔石灯が点々と浮かび、青白い光が冷たく揺れる。
「──ここが本丸ってわけだな」
グランツが立ち止まった先には、一つの扉。
金属の重厚さに古びた魔法封印が絡みつき、触れただけで拒む気配を放つ。
そして扉の横には、もう一つの痕跡が残っていた。
埃をかぶった机、その上に置きっぱなしの日記帳。
「リシア、頼む」
「任されました!」
リシアは慎重に古文書を開き、劣化した紙を魔法で補強する。ページの端は焼け焦げ、一部の文字は失われていたが──読み取れる。
《私は知っている。人はいつか滅ぶ。
この世界は、希望を保つには脆すぎる》
《だから私は未来を切り離し、理想だけを残す。
そのために私は、時間さえ捨てるのだ》
息が止まる。
孤独の果てで辿り着いた結論。
正義かもしれないし、傲慢かもしれない。ただ一つ確かなのは、彼が誰にも理解されぬまま──歩いたこと。
「……ヴィクターは、この世界を守ろうとしたのかもしれないわ」
リシアの声は震えていた。
「守るために、全てを切り離すか」
グランツが吐き捨てるように言う。「英雄気取りの独りよがりかもしれん」
私は──言葉が出なかった。
あの幻影のヴィクターは、確かに迷っていた。
救いを求めるような目だった。
そして気づく。私の胸にも似た痛みがある。
記憶の破片か、それとも彼と同じ場所へ近づいているのか。
扉の封印は、解かなければ先へ進めない。
私は手のひらを当て、魔力を流す──だが拒まれる。鍵は別にあるようだ。
「ねぇ、カイン。床、見て」
リシアが指差す。
扉前の床一面に、盾の形を模した凹み。それは攻撃魔法の術式とは異質で──
防御陣だ。
私は膝をつき、手の甲をゆっくりと板面へ。
盾に似た意匠──守る者だけが起動できる式だ。
「攻撃じゃ開かねぇ。守りの魔力を流す必要がある」
口にした瞬間、全員が私を見た。
「やっぱり……カイン、君って」
「なにか隠しとるだろう」
グランツに問われ、喉が凍る。
私は答えられない。
知らない自分を説明できない。
沈黙。
しかしその沈黙をエリオが破った。
「問い詰めんなよ。カインが自分で思い出せるまで待てばいい」
「エリオ……」
「俺たちは仲間だろ? 理由が言えないなら、代わりに信じる」
言葉が胸に深く刺さる。
私は震える指で再び術式へ魔力を流した。
意識の奥底に灯るのは、敵を斃す力ではなく──仲間を守る願い。
光が走り、封印がほどける。
扉がゆっくりと開いた。
中にあったのは、黒く艶めいた鉱石の塊。
深緑に揺らめく魔力の脈動──時間循環核(クロノ・コア)。
魔導具完成のために必要な唯一の素材。
「これで……前へ進めるな」
エリオが微笑む。
しかし私は核に触れた瞬間、脳裏に稲妻のような映像が刺さった。
──未来。
無数の崩壊した都市。
そして中心で膝をつくヴィクター。
誰もいない世界で、ただ一人。
《救えなかった。君も、私も》
視界が暗転し、鼓動が乱れる。
私は崩れ落ちそうになったが、エリオが即座に支えた。
「ほらな。言っただろ、倒れる前に掴むって」
冗談めいて言うのに、声は震えている。
私は彼の腕にすがりながら──小さく息を吸った。
「まだ終わってない。
俺たちは、未来を切り離さずに救う方法を探す。
ヴィクターが見捨てた未来を、俺たちが繋ぐんだ」
仲間たちが頷く。
私は核を抱え、研究所の出口へ歩き出す。
ヴィクターの孤独は、理解できる気がする。
だが──彼と同じ結末には進まない。
希望は、まだここにある
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