第3話

魔法学都市ロウェンの中央区──そこに、ひっそりと沈み込むように建つひとつの塔がある。

 それこそが、王立魔法学会が管理する《深層書庫セファル》だった。


 外観は地味だ。飾り気のない灰白の壁と、狭い窓、重厚すぎる鉄扉。

 だが入口に立つだけで、肌の下を魔力がざわ……と逆立つ。

 まるで何百、何千の魔術式が、塔全体を網のように覆っているかのようだった。


「相変わらず、ここは空気がピリピリしてるわね……。初めて来た時は鼻血出たもの」


 リシアがさらりと言う。

 本人はケロッとしているが、普通そんな場所を訪れること自体が異常だ。


「わしが鍛えた金属検査魔導具は、ここの魔力圧だけで三つ壊れたんじゃ。あれはもうトラウマじゃな……」


 グランツは肩をすくめる。

 ドワーフの中でも一流の職人がそう言うのだから、この塔の内部がどれほど危険か想像がつく。


 エリオはというと、緊張で口を固く結んでいた。


「……カイン、大丈夫か? こういう場所って、お前……その、少し苦手だったような……」


 エリオは記憶喪失の“後遺症”を気にしているのだろう。

 心配はありがたいが……正直、俺自身も大丈夫かどうか分からない。


 この塔に足を踏み入れた瞬間から、胸の奥のどこかが、不気味にざわめいていた。

 理由は分からない。

 ただ、身体が拒絶している。


(……やっぱり、俺じゃなくて“カイン殿下”の記憶が反応しているんだろうか?)


 そう考えたとき、胸の奥で何かがひどく軋んだ。

 カイン殿下はもういない。

 残っているのは、この身体の形だけだ。


 その罪悪感が、また首の後ろをちりつかせた。


「入るわよ、みんな。ここからは真剣だから、ふざけたら怒るからね」


 リシアが胸に手を当て、鉄扉に刻まれた魔導式を読み取る。

 次の瞬間、空中に六枚の環状陣が展開し、重々しい鉄扉が押し開かれた。


 俺たちは、静かにその中へと足を踏み入れた。



 書庫内部は、外観からは想像できないほど広かった。

 螺旋状に伸びる通路、天井まではるかに積み上がる本棚、無窮灯の淡い光──

 静謐で、息を呑むほど美しい空間だ。


 だが、同時に息が詰まるような圧迫感もある。


 まるでここだけ、世界がひっくり返ったかのような……そんな違和感。


「すご……。書庫っていうより、遺跡じゃないか……」


 エリオが小声でつぶやく。

 その感想は正しい。この空間は、ただの保存庫ではない。

 塔そのものが巨大な魔術式となり、過去の知識を封じ込めるための装置として機能している。


 リシアは早くも興奮した様子で本棚へと駆け寄り、分厚い巻物や古文書を次々に引き出していく。


「やっぱり! ここにあるのは、歴史書じゃなく“術式の変遷”を記した禁書群……! 探している“時間系魔術の原典”も、この層のどこかにあるはず!」


 文字通り目を輝かせている。

 本当にこの人は、魔法学が好きで好きで仕方ないんだな……。


 一方グランツは、棚の構造を指先でなぞりながらつぶやいた。


「この棚、魔術式で重力の流れを変えとるな……。古代式じゃが、理論が狂気じみとる。おもしろいのう」


 それぞれの専門が活きる光景──

 だが、俺はというと……胸の奥に、妙な違和感がくすぶり続けていた。


 嫌な汗が滲み、視界がじり…と揺れる。


(……なんだ? 息が、うまく入らない……)


 俺は隠すように深呼吸を繰り返したが、違和感は消えなかった。



 二時間ほどの捜索が経過したころだった。


 リシアが、ひときわ古びた巻物を慎重に開いた。


「みんな、これ見て……!」


 その声に俺たちは集まった。


 古代語でびっしりと書かれた巻物。

 だが、その端にあった奇妙な図形に、俺の視界が吸い寄せられた。


 見覚えが……ある。


 いや、見覚えなどあるはずがない。

 俺は記憶を失っているのだから。


(なのに……なんで、こんな……)


 図形に触れた瞬間だった。


 キィィィィィ……ッ!


 耳の奥で金属を擦るような音が響いた。


 視界の端が黒く染まり、胃が捻れてひっくり返るような吐き気が襲う。


 ぐらり、と身体が揺れた。


「カイン!? おい、大丈夫か!」


 エリオの声が遠い。


 頭の中心──脳ではなく魂の核みたいなところが、きしむように痛んだ。


 これは……

 この感覚は……知っている。


 “魔力ノイズの残響”。


 時間から剥離した瞬間、周囲に撒き散らされる“存在の残響”。


 かつて、俺が主君とともにいた未来で──

 ヴィクターが消えた瞬間に感じたものと同じだ。


(なんで……? こんな場所に……残響が……?)


 吐き気が押し寄せ、視界が滲む。


「カイン、座れ! ほら、ここ!」


 エリオが肩を支え、俺を椅子に座らせた。

 その手が震えている。


「カイン……。なんで、そんなに焦ってるんだ? ここに来てからずっと無理してるみたいで……。なにか、思い出したのか?」


「……っ、いや……分からない……。ただ……」


 言葉が続かない。

 本当のことを言えば、エリオは絶対に俺を心配させる。

 いや、それ以上に──


(“クロウ”であることが、ばれる)


 それだけは、言えない。


「……ごめん。大丈夫だ。ただ、少し気持ちが悪いだけだ」


 俺がそう言うと、エリオの表情に、今までにない影が落ちた。


「……カイン。本当に“大丈夫”って言葉、信じていいのか?」


 胸が、刺さるように痛んだ。



 リシアとグランツも駆け寄ってくる。


「急に顔色が……! 魔力酔い? でも、今のは……?」


 リシアは巻物を見つめ、眉をひそめた。


「この図形……どこかで……あ、いや、違う。これは“儀式の陣”じゃない。もっと……理論的な……」


 グランツも腕を組む。


「坊主があそこまで反応したのは初めてじゃな。何に反応したんじゃ……?」


 その問いに、俺は答えられなかった。


 ただ──

 その図形の中心から、まだじりじりと“ノイズ”が滲み出しているのを感じる。


 ヴィクターの……残響。


 奴は、この時代にも何かを仕込んでいたのか。


 嫌な予感が、背骨を冷たくなぞった。


リシアの白い指先が、古い羊皮紙の上を滑る。淡い光が文字列を浮かび上がらせ、彼女の真剣な横顔を照らしていた。


「この文献……やっぱりただの封印式じゃない。魔力の波形が“時間軸”に干渉してる。普通の魔法じゃありえない。これ、まさか……」


 リシアの声が震えている。

 純粋な驚きと、学者としての得も言えぬ高揚。それは俺には眩しいほど明確だった。


 一方で、グランツは隣の机に何本も魔力ペンや計測器を並べ、顔をしかめながら札を調整していた。


「こっちの詠唱式は補助具が前提になっとるな……。妙な刻印があってよ、触ると“魔力反応”が逆流する。これ、扱い間違えたら腕の一本は飛ぶぜ」


「文献に罠を仕込むってどんな変態よ……」


「古代人はたいてい変態じゃろうが」


 そんな軽口の応酬を聞きながら、俺は息を整えようと壁にもたれる。

 喉の奥にまだ“残響”が燻っていた。脳の奥を焼くような痛みは引いてきたが、微弱な波として残っている。


 ――あれは、一体なんだったのか。


 わからない。

 けれど、ヴィクターという男の意図だけは確信に近い形で伝わってきた。


 あれは、“呼び声”に近い。


 俺たちに気づいたか、あるいは……俺の中にいる“カインの魂”の気配を辿ったのか。


 嫌な予感が喉元に張りつく。だが、言葉にはできない。


「……カイン?」


 エリオの声だ。気づけば俺のすぐ近くに立っていた。

 眉尻を下げ、けれど真面目な瞳を向けている。


「また顔色悪くなってる。さっきの頭痛……まだ引いてないんだろ?」


 隠せているつもりだったのだが、やはりエリオには通じない。


「大丈夫だ。少し、疲れただけだ」


「少し……って感じじゃなかったよ。俺、怖かった。だって、おまえ……立ってるのがやっとだった」


 その声音は、怒りでも疑いでもなく、“心底の心配”だけでできていた。


 胸が痛む。

 罪悪感がまた、重たい石のように沈む。


「カイン……なあ、どうしてそんなに焦ってるんだ?」


 ――来た。


 核心に近い問い。

俺には答えられない問い。


 すべて話すわけにはいかない。

 そもそも俺自身、何をどこまで覚えているのか曖昧だ。


 だがエリオは待っている。逃げ道を与えてくれない。ただ、友達として真正面から、俺の言葉を欲しがっている。


「……焦ってなんかいない。ただ、やらなきゃいけないことがある気がして、“感覚”が急かしてくるだけだ」


「感覚?」


「ああ……記憶はない。でも、俺の奥で誰かが『時間がない』って言ってる。そんな感じだ」


 本当はもっと違うが、それが限界だった。

 俺の言葉に、エリオは苦しげに口を噤む。


「……そっか。思い出せないことを責めるつもりはないよ。でも……無茶だけはしないでくれ。俺は……また“失う”なんてイヤなんだ」


 静かな空気が書庫に落ちた。

 リシアとグランツも作業の手を止め、こちらを見る。

 だが、エリオの想いはまっすぐすぎて、俺には目を合わせられない。


「すまない」


 その言葉しか出なかった。


 エリオは首を振り、力なく笑った。


「謝らなくていいよ。でも……頼むから、一緒に歩いてくれ。俺たちは仲間だろ?」


 胸が締めつけられる。

 本当は――俺は仲間なんて名乗ってはいけない人間だった。

俺は、彼らが愛し尊敬した“カイン”本人ではない。

彼の身体を借り、魂を燃料に変えてまで過去へ来た、ただの従者だ。


 その事実を、この優しい人間に告げられる日は……来ないのだろう。


「……ああ。もちろんだ」


 それだけ返すと、エリオは安心したように息を吐き、再び仲間の輪に戻っていった。


 俺はその背を見つめながら、胸の奥に重く沈むものを感じ続けていた。


 ――今はこの嘘を守る。

 その先で、もう一度、仲間として歩けるのなら……。


 そう願ってしまう自分が、情けなくもあった。


 *


「みんな、ちょっと来て! これ、たぶん……決定的に重要な部分!」


 リシアの声が書庫に響き、俺たちは一斉に彼女の机へ集まった。


 羊皮紙の中央――淡い銀光が脈打つように浮かび上がっている。


「“時流制御式(じりゅうせいぎょしき)”……?」


 俺が思わず声に出すと、リシアはびっくりしたように目を丸くした。


「カイン、知ってるの? これ、現代じゃ理論だけしか語られてない禁術なんだけど」


「……いや、どこかで聞いたような気がしただけだ」


「そっか。まあいいや。でも、これってつまり――」


 リシアは深呼吸し、


「この文献、ヴィクターが発動した“時間剥離魔法”の原型に極めて近いものよ」


 書庫の空気が凍りつく。


 エリオが呟く。


「じゃあ……俺たちが探してた材料って、もうここに?」


「全部じゃない。でも“決定的な入口”は掴んだわ」


 リシアの瞳は、興奮と恐れで揺れている。


「ただし、この魔法式には……“使用者の魂に刻印する回路”が組み込まれてる。外部の魔導具だけじゃ再現できない」


「魂に刻む……? 古代人は正気か」


「正気じゃない人が作った理論って、妙に強いのよね……」


 そこでグランツが腕を組み、言った。


「魂刻みなら、魔導具で“代替回路”作れんこともない。だが相当の精度がいるぞ。ワシの腕でも、成功率は半分切るだろう」


「半分切ったら死ぬでしょ!? ダメに決まってるでしょグランツ!」


 ふたりがまたいつもの調子で言い合い始める。

 だが、俺の胸の奥は冷えていた。


 魂に刻む。

 その言葉が、どうにも“あの残響”と結びついて仕方ない。


 ――ヴィクターは、魂ごと時間から剥離した。


 ならばその残滓が、この身体の中の“俺”に反応したのは、何の不思議もない。


 脳裏に、一瞬だけ光の波が走り抜ける。

 あの耳鳴りのような、叫びのような――世界の裏側から押し寄せる奔流。


 やめろ、と本能が叫んだ。


 俺はこめかみを押さえる。


「おい、大丈夫か?」


 グランツに声をかけられ、無理に笑う。


「少し、疲労が溜まっているだけだ」


「嘘つけ。図体だけは立派でも、中身は繊細なんだなアンタ」


「図体言うなドワーフ!」


 エリオが割り込み、また余計に話がややこしくなる。


 それでも、少し空気が和らいだ。

 だが、書庫の中央に置かれた文献は静かに告げている。


 この先は、もっと深く危険だと。

 ヴィクターの残した“答え”に手が届くほどに。


 *


「今日は一旦ここまでにしましょう」


 リシアがペンを置いた時、窓の外はすっかり赤く染まっていた。

 魔法学都市ロウェンの空は、夕刻になると街全体の術式が反射し、光が層をなすように見える。


 その幻想的な光を眺めながら、グランツが大きく伸びをする。


「明日は本丸の“地下第三書庫”だな。ここより厳重な封印があるらしい」


「ええ。多分そこに“核心部”がある。ヴィクターがどこから式を引用したのか、突き止められるはず」


 二人の期待と興奮に満ちた顔。

 そして気遣わしげにこちらを見つめるエリオ。


「……なあ、カイン。今日はほんとに無理しすぎだ。宿で休んだら?」


「そうする……ありがとう」


 自然と出た言葉だった。

 エリオは少し驚き、それから柔らかく笑った。


「うん。じゃあ、帰ろう」


 帰ろう――

 その声に少し胸が痛む。


 俺には帰る家も、帰るべき時代もない。

 だが、その言葉を言ってくれた彼らと歩く道だけは……守りたかった。


 地下書庫で待つものが何であれ。

 たとえ、この身体にもっと強い“災厄の残響”が刻みつけられているのだとしても――。


 俺は、前に進むしかない。


 その奥から、誰かの声が響く。


 ――まだ終わらない。

 ――もっと先へ来い。


 ヴィクターの声に似ていた。


 だが振り返っても誰もいない。


 夕陽に染まった書庫の扉だけが、静かに軋んで閉まった。

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