第3話
魔法学都市ロウェンの中央区──そこに、ひっそりと沈み込むように建つひとつの塔がある。
それこそが、王立魔法学会が管理する《深層書庫セファル》だった。
外観は地味だ。飾り気のない灰白の壁と、狭い窓、重厚すぎる鉄扉。
だが入口に立つだけで、肌の下を魔力がざわ……と逆立つ。
まるで何百、何千の魔術式が、塔全体を網のように覆っているかのようだった。
「相変わらず、ここは空気がピリピリしてるわね……。初めて来た時は鼻血出たもの」
リシアがさらりと言う。
本人はケロッとしているが、普通そんな場所を訪れること自体が異常だ。
「わしが鍛えた金属検査魔導具は、ここの魔力圧だけで三つ壊れたんじゃ。あれはもうトラウマじゃな……」
グランツは肩をすくめる。
ドワーフの中でも一流の職人がそう言うのだから、この塔の内部がどれほど危険か想像がつく。
エリオはというと、緊張で口を固く結んでいた。
「……カイン、大丈夫か? こういう場所って、お前……その、少し苦手だったような……」
エリオは記憶喪失の“後遺症”を気にしているのだろう。
心配はありがたいが……正直、俺自身も大丈夫かどうか分からない。
この塔に足を踏み入れた瞬間から、胸の奥のどこかが、不気味にざわめいていた。
理由は分からない。
ただ、身体が拒絶している。
(……やっぱり、俺じゃなくて“カイン殿下”の記憶が反応しているんだろうか?)
そう考えたとき、胸の奥で何かがひどく軋んだ。
カイン殿下はもういない。
残っているのは、この身体の形だけだ。
その罪悪感が、また首の後ろをちりつかせた。
「入るわよ、みんな。ここからは真剣だから、ふざけたら怒るからね」
リシアが胸に手を当て、鉄扉に刻まれた魔導式を読み取る。
次の瞬間、空中に六枚の環状陣が展開し、重々しい鉄扉が押し開かれた。
俺たちは、静かにその中へと足を踏み入れた。
◆
書庫内部は、外観からは想像できないほど広かった。
螺旋状に伸びる通路、天井まではるかに積み上がる本棚、無窮灯の淡い光──
静謐で、息を呑むほど美しい空間だ。
だが、同時に息が詰まるような圧迫感もある。
まるでここだけ、世界がひっくり返ったかのような……そんな違和感。
「すご……。書庫っていうより、遺跡じゃないか……」
エリオが小声でつぶやく。
その感想は正しい。この空間は、ただの保存庫ではない。
塔そのものが巨大な魔術式となり、過去の知識を封じ込めるための装置として機能している。
リシアは早くも興奮した様子で本棚へと駆け寄り、分厚い巻物や古文書を次々に引き出していく。
「やっぱり! ここにあるのは、歴史書じゃなく“術式の変遷”を記した禁書群……! 探している“時間系魔術の原典”も、この層のどこかにあるはず!」
文字通り目を輝かせている。
本当にこの人は、魔法学が好きで好きで仕方ないんだな……。
一方グランツは、棚の構造を指先でなぞりながらつぶやいた。
「この棚、魔術式で重力の流れを変えとるな……。古代式じゃが、理論が狂気じみとる。おもしろいのう」
それぞれの専門が活きる光景──
だが、俺はというと……胸の奥に、妙な違和感がくすぶり続けていた。
嫌な汗が滲み、視界がじり…と揺れる。
(……なんだ? 息が、うまく入らない……)
俺は隠すように深呼吸を繰り返したが、違和感は消えなかった。
◆
二時間ほどの捜索が経過したころだった。
リシアが、ひときわ古びた巻物を慎重に開いた。
「みんな、これ見て……!」
その声に俺たちは集まった。
古代語でびっしりと書かれた巻物。
だが、その端にあった奇妙な図形に、俺の視界が吸い寄せられた。
見覚えが……ある。
いや、見覚えなどあるはずがない。
俺は記憶を失っているのだから。
(なのに……なんで、こんな……)
図形に触れた瞬間だった。
キィィィィィ……ッ!
耳の奥で金属を擦るような音が響いた。
視界の端が黒く染まり、胃が捻れてひっくり返るような吐き気が襲う。
ぐらり、と身体が揺れた。
「カイン!? おい、大丈夫か!」
エリオの声が遠い。
頭の中心──脳ではなく魂の核みたいなところが、きしむように痛んだ。
これは……
この感覚は……知っている。
“魔力ノイズの残響”。
時間から剥離した瞬間、周囲に撒き散らされる“存在の残響”。
かつて、俺が主君とともにいた未来で──
ヴィクターが消えた瞬間に感じたものと同じだ。
(なんで……? こんな場所に……残響が……?)
吐き気が押し寄せ、視界が滲む。
「カイン、座れ! ほら、ここ!」
エリオが肩を支え、俺を椅子に座らせた。
その手が震えている。
「カイン……。なんで、そんなに焦ってるんだ? ここに来てからずっと無理してるみたいで……。なにか、思い出したのか?」
「……っ、いや……分からない……。ただ……」
言葉が続かない。
本当のことを言えば、エリオは絶対に俺を心配させる。
いや、それ以上に──
(“クロウ”であることが、ばれる)
それだけは、言えない。
「……ごめん。大丈夫だ。ただ、少し気持ちが悪いだけだ」
俺がそう言うと、エリオの表情に、今までにない影が落ちた。
「……カイン。本当に“大丈夫”って言葉、信じていいのか?」
胸が、刺さるように痛んだ。
◆
リシアとグランツも駆け寄ってくる。
「急に顔色が……! 魔力酔い? でも、今のは……?」
リシアは巻物を見つめ、眉をひそめた。
「この図形……どこかで……あ、いや、違う。これは“儀式の陣”じゃない。もっと……理論的な……」
グランツも腕を組む。
「坊主があそこまで反応したのは初めてじゃな。何に反応したんじゃ……?」
その問いに、俺は答えられなかった。
ただ──
その図形の中心から、まだじりじりと“ノイズ”が滲み出しているのを感じる。
ヴィクターの……残響。
奴は、この時代にも何かを仕込んでいたのか。
嫌な予感が、背骨を冷たくなぞった。
リシアの白い指先が、古い羊皮紙の上を滑る。淡い光が文字列を浮かび上がらせ、彼女の真剣な横顔を照らしていた。
「この文献……やっぱりただの封印式じゃない。魔力の波形が“時間軸”に干渉してる。普通の魔法じゃありえない。これ、まさか……」
リシアの声が震えている。
純粋な驚きと、学者としての得も言えぬ高揚。それは俺には眩しいほど明確だった。
一方で、グランツは隣の机に何本も魔力ペンや計測器を並べ、顔をしかめながら札を調整していた。
「こっちの詠唱式は補助具が前提になっとるな……。妙な刻印があってよ、触ると“魔力反応”が逆流する。これ、扱い間違えたら腕の一本は飛ぶぜ」
「文献に罠を仕込むってどんな変態よ……」
「古代人はたいてい変態じゃろうが」
そんな軽口の応酬を聞きながら、俺は息を整えようと壁にもたれる。
喉の奥にまだ“残響”が燻っていた。脳の奥を焼くような痛みは引いてきたが、微弱な波として残っている。
――あれは、一体なんだったのか。
わからない。
けれど、ヴィクターという男の意図だけは確信に近い形で伝わってきた。
あれは、“呼び声”に近い。
俺たちに気づいたか、あるいは……俺の中にいる“カインの魂”の気配を辿ったのか。
嫌な予感が喉元に張りつく。だが、言葉にはできない。
「……カイン?」
エリオの声だ。気づけば俺のすぐ近くに立っていた。
眉尻を下げ、けれど真面目な瞳を向けている。
「また顔色悪くなってる。さっきの頭痛……まだ引いてないんだろ?」
隠せているつもりだったのだが、やはりエリオには通じない。
「大丈夫だ。少し、疲れただけだ」
「少し……って感じじゃなかったよ。俺、怖かった。だって、おまえ……立ってるのがやっとだった」
その声音は、怒りでも疑いでもなく、“心底の心配”だけでできていた。
胸が痛む。
罪悪感がまた、重たい石のように沈む。
「カイン……なあ、どうしてそんなに焦ってるんだ?」
――来た。
核心に近い問い。
俺には答えられない問い。
すべて話すわけにはいかない。
そもそも俺自身、何をどこまで覚えているのか曖昧だ。
だがエリオは待っている。逃げ道を与えてくれない。ただ、友達として真正面から、俺の言葉を欲しがっている。
「……焦ってなんかいない。ただ、やらなきゃいけないことがある気がして、“感覚”が急かしてくるだけだ」
「感覚?」
「ああ……記憶はない。でも、俺の奥で誰かが『時間がない』って言ってる。そんな感じだ」
本当はもっと違うが、それが限界だった。
俺の言葉に、エリオは苦しげに口を噤む。
「……そっか。思い出せないことを責めるつもりはないよ。でも……無茶だけはしないでくれ。俺は……また“失う”なんてイヤなんだ」
静かな空気が書庫に落ちた。
リシアとグランツも作業の手を止め、こちらを見る。
だが、エリオの想いはまっすぐすぎて、俺には目を合わせられない。
「すまない」
その言葉しか出なかった。
エリオは首を振り、力なく笑った。
「謝らなくていいよ。でも……頼むから、一緒に歩いてくれ。俺たちは仲間だろ?」
胸が締めつけられる。
本当は――俺は仲間なんて名乗ってはいけない人間だった。
俺は、彼らが愛し尊敬した“カイン”本人ではない。
彼の身体を借り、魂を燃料に変えてまで過去へ来た、ただの従者だ。
その事実を、この優しい人間に告げられる日は……来ないのだろう。
「……ああ。もちろんだ」
それだけ返すと、エリオは安心したように息を吐き、再び仲間の輪に戻っていった。
俺はその背を見つめながら、胸の奥に重く沈むものを感じ続けていた。
――今はこの嘘を守る。
その先で、もう一度、仲間として歩けるのなら……。
そう願ってしまう自分が、情けなくもあった。
*
「みんな、ちょっと来て! これ、たぶん……決定的に重要な部分!」
リシアの声が書庫に響き、俺たちは一斉に彼女の机へ集まった。
羊皮紙の中央――淡い銀光が脈打つように浮かび上がっている。
「“時流制御式(じりゅうせいぎょしき)”……?」
俺が思わず声に出すと、リシアはびっくりしたように目を丸くした。
「カイン、知ってるの? これ、現代じゃ理論だけしか語られてない禁術なんだけど」
「……いや、どこかで聞いたような気がしただけだ」
「そっか。まあいいや。でも、これってつまり――」
リシアは深呼吸し、
「この文献、ヴィクターが発動した“時間剥離魔法”の原型に極めて近いものよ」
書庫の空気が凍りつく。
エリオが呟く。
「じゃあ……俺たちが探してた材料って、もうここに?」
「全部じゃない。でも“決定的な入口”は掴んだわ」
リシアの瞳は、興奮と恐れで揺れている。
「ただし、この魔法式には……“使用者の魂に刻印する回路”が組み込まれてる。外部の魔導具だけじゃ再現できない」
「魂に刻む……? 古代人は正気か」
「正気じゃない人が作った理論って、妙に強いのよね……」
そこでグランツが腕を組み、言った。
「魂刻みなら、魔導具で“代替回路”作れんこともない。だが相当の精度がいるぞ。ワシの腕でも、成功率は半分切るだろう」
「半分切ったら死ぬでしょ!? ダメに決まってるでしょグランツ!」
ふたりがまたいつもの調子で言い合い始める。
だが、俺の胸の奥は冷えていた。
魂に刻む。
その言葉が、どうにも“あの残響”と結びついて仕方ない。
――ヴィクターは、魂ごと時間から剥離した。
ならばその残滓が、この身体の中の“俺”に反応したのは、何の不思議もない。
脳裏に、一瞬だけ光の波が走り抜ける。
あの耳鳴りのような、叫びのような――世界の裏側から押し寄せる奔流。
やめろ、と本能が叫んだ。
俺はこめかみを押さえる。
「おい、大丈夫か?」
グランツに声をかけられ、無理に笑う。
「少し、疲労が溜まっているだけだ」
「嘘つけ。図体だけは立派でも、中身は繊細なんだなアンタ」
「図体言うなドワーフ!」
エリオが割り込み、また余計に話がややこしくなる。
それでも、少し空気が和らいだ。
だが、書庫の中央に置かれた文献は静かに告げている。
この先は、もっと深く危険だと。
ヴィクターの残した“答え”に手が届くほどに。
*
「今日は一旦ここまでにしましょう」
リシアがペンを置いた時、窓の外はすっかり赤く染まっていた。
魔法学都市ロウェンの空は、夕刻になると街全体の術式が反射し、光が層をなすように見える。
その幻想的な光を眺めながら、グランツが大きく伸びをする。
「明日は本丸の“地下第三書庫”だな。ここより厳重な封印があるらしい」
「ええ。多分そこに“核心部”がある。ヴィクターがどこから式を引用したのか、突き止められるはず」
二人の期待と興奮に満ちた顔。
そして気遣わしげにこちらを見つめるエリオ。
「……なあ、カイン。今日はほんとに無理しすぎだ。宿で休んだら?」
「そうする……ありがとう」
自然と出た言葉だった。
エリオは少し驚き、それから柔らかく笑った。
「うん。じゃあ、帰ろう」
帰ろう――
その声に少し胸が痛む。
俺には帰る家も、帰るべき時代もない。
だが、その言葉を言ってくれた彼らと歩く道だけは……守りたかった。
地下書庫で待つものが何であれ。
たとえ、この身体にもっと強い“災厄の残響”が刻みつけられているのだとしても――。
俺は、前に進むしかない。
その奥から、誰かの声が響く。
――まだ終わらない。
――もっと先へ来い。
ヴィクターの声に似ていた。
だが振り返っても誰もいない。
夕陽に染まった書庫の扉だけが、静かに軋んで閉まった。
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