第2話

 魔法学都市ロウェンへ入った瞬間、俺は思わず歩みを止めた。街そのものが、巨大な魔法陣の内部に組み込まれているようだったからだ。建物の屋根ごとに描かれた計算式、空中をゆっくり回転する符号灯、そして道を照らす光球の軌道までが、魔法理論に基づいて統一されている。


 かつて……いや、いつかの未来で、俺はこの光景を確かに知っていた気がする。だが記憶の表面は霞がかかったように滑り、掴もうとしても霧のなかに手を伸ばしているだけの感覚しかない。


「カイン、身体は大丈夫か? 少し歩く速度落ちてたけど」


 隣でエリオが覗き込む。柔らかい眉の形が、誰よりも優しい男だと物語っている。


「ああ……少し、違和感があってな」


 自分の体の軽さ。腕の細さ。まるで、刃の重さを支える筋肉が欠落しているような感覚。それを口にしてしまうと、またエリオを心配させるだけだと分かっていたが、偽るのも難しかった。


「無理すんなよ。事故のあと、時々ふらつくって言ってただろ? 今日は移動が長かったし」


 エリオは全く疑っていない。俺が“カイン”であることを。この体に入っているのが別人だということなど、想像すらしていない。その純粋さが、胸に重い痛みとして沈む。


「……大丈夫だ。ありがとう、エリオ」


 この言葉すら“従者”の俺には馴染みすぎて、逆に苦しくなる。


 ◆


 まず向かったのは、都市の中央にある巨大な図書館だった。魔法学都市ロウェンの象徴ともいえる場所で、外壁には古代文字が格子状に走り、入口には時間魔法の証明式が彫られている。まるで、学問そのものが石になって形を成したかのようだ。


 扉を押し開けた瞬間、心地よい紙の匂いと、魔力封印剤の微かな刺激臭が鼻をくすぐった。


「おお、やっぱロウェンはすげぇな……見ただけで頭が痛くなる」


 エリオが小声でこぼしたその時だった。


「あなたたち、外来者? 見ない顔ね」


 振り返ると、淡い銀髪を後ろでまとめた少女が立っていた。白衣の袖をまくり上げ、両手には分厚い魔法学の資料が抱えられている。目が合った瞬間、その瞳がぱっと輝いた。


「あなた、魔力の揺らぎが珍しいわね。外部干渉の痕跡がある。しかも……古い魔法式が緩く残ってる?」


 俺の体を覗き込みながら、興味そのものを擬人化したような語り口で言った。


「えっと……君は?」


「リシア。ロウェン魔法学研究所の実験助手よ。あなたは?」


「カインだ。旅の途中で立ち寄っただけだが、古代文献を探していてな」


 無難に答えたつもりだ。だがリシアの目が細くなる。


「“古代文献”なんて曖昧な目的でロウェンに来る人はほとんどいないわ。しかもあなた……さっきの反応。魔法学を少し齧ってる人間の目だった」


 まずい。この少女、勘が鋭すぎる。


 俺はもっともらしい言葉を探し、口を開いた。


「……古代魔法構造論の補論第七項。あれが手がかりにならないかと思っているだけだ」


 口にした瞬間、自分でも驚いた。あれは俺が“未来”で学んだ理論の一部。記憶喪失のくせに、口が勝手に動いた。まるで身体の深層に、クロウとして吸収した膨大な知識が沈んでいて、それが勝手に浮かんできたように。


 リシアの目が、驚きの色にぱっと開く。


「……なんでその言葉を知ってるの?」


 やはり反応してしまったか。


「その項目名は、この時代ではまだ仮説段階なの。正式に論文化されるのは……最低でもあと十年先よ」


 息が止まる。


 十年先。


 やはり俺は“未来の知識”を持っているのだ。クロウとして生きた時間。カインの従者として聞いていた専門家たちの会話。英雄の身近にいたからこそ触れられた、最先端の魔法学の残滓。それらが、今の俺の言葉として溢れ出してしまったのだ。


「あ、あのリシアさん。カインは事故で記憶を失ってて、その……少し前後の出来事が曖昧なんだ。だから変なこと言ったら、本当にごめん!」


 エリオが慌てて頭を下げる。彼の耳まで赤くなっていて、完全に“親友の代わりに謝る善人”の姿そのものだった。


「記憶喪失……なるほど。それなら……」


 リシアは一拍置いて、すっと顔を近づけてきた。

 距離が近い。近すぎる。


「——もっと話して。あなたのその“ズレ”、とても興味深いわ」


 興味の炎が、彼女の瞳の奥で揺れている。疑いではなく、純然たる研究者の情熱。

 それがむしろ恐ろしかった。


 ◆


「……ほら、これが昨日の観測結果なんだけど!」


「その場の魔力密度を平均化してから解析すべきじゃないのか?」


「平均化? そんなの無駄よ! 局所変動まで含めてこそ新しい魔法式の発見につながるの!」


 図書館の一角に移動した俺たちを待っていたのは、リシアによる終わりの見えない魔法理論の語りだった。

 エリオは完全に疲れ切り、資料の山にもたれかかっている。


「なぁカイン……リシアさんって、こういうタイプなのか……?」


「……どういうタイプだ?」


「一言で言うなら、限界突破した“魔法おたく”だろ……?」


 その瞬間、図書館の奥から地響きのような声が響いた。


「おいリシア! また勝手に外部の奴に講釈垂れてんのか!」


 太い腕、丸太のような脚。胴体は岩のように分厚く、鼻先は赤く焼けた鉄の匂いがする。

 典型的なドワーフの職人だ。


 彼は手に持った魔導具の部品を突き出しながら、リシアを睨む。


「お前の理論で設計図いじったら、煙吹いて爆発しかけたんだぞ!」


「それはあなたが魔力の流量を正確に調整できないだけで——」


「うるせえ! 数字の上でしか動かねぇ脳みそじゃ、実際の魔導具は作れねぇんだよ!」


 二人が火花を散らした瞬間、図書館の空気が震えた。


 これは……やばい。


 そして俺は気づいた。

 彼らの議論は“理論家 vs 職人”という、いつか見た光景そのもの。だが、そのすれ違いの中心にある欠陥は、俺の知る未来の技術なら簡単に修正できる。


 つい、身体が動いた。


「——グランツ、と言ったか?」


「なんだ兄ちゃん。今はリシアと喧嘩してんだ。後で——」


「その部品、火力制御の符号が逆転してる。魔力供給の前に、導線の位相を半分反転させてやれ」


「はぁ?」


 俺は床に落ちていた紙とペンを拾い、自然な所作で簡略図を描いた。それは、未来でカインに仕えていた時に身につけた“裏方の修復術”だった。


「ここだ。この符号を——」


 俺は指先で素早く符号を塗り替える。


「——こうする」


 グランツは目を白黒させ、受け取った紙をまじまじと見た。


「なんだこれ……理論に従えば壊れるはずだが、実際には……いや、確かにこの方が安定する……!」


「そりゃあ、現場の処理だ。理論だけじゃ回らない。魔導具は誤差を吸収する余地を作らないと動かない」


 言った瞬間、エリオがこちらを振り向く。

 彼の目に、明らかに「カインなのに?」という驚きが浮かんだ。でも疑いではない。ただ心配だ。

 “記憶を失っても、どこでこんなの覚えたんだよ”という戸惑い。


「……カイン、その……前からそういう技術に詳しかったっけ?」


 エリオの声が震えていた。

 また心配させてしまった。


 俺は喉の奥が詰まるのを感じながら、曖昧に微笑んだ。


「……さあな。体が勝手に動いたというか……そんな感じだ」


「そっか……無理して思い出さなくていいからな。ほんとに。俺は……お前が無事ならそれでいい」


 エリオはまた深く頭を下げてくれた。

 リシアやグランツへ、俺の代わりに。

 胸に、重い沈殿物が落ちていく。


 リシアとグランツの言い争いは、火花を散らすどころか小規模な爆発に発展しかけていた。


「だから言ってるでしょ、グランツさん! 魔導核の同調率は理論的には九%までは引き上げられるの! 共鳴式の偏差を抑える式が――」


「理論理論うるさいわい。机の上で組んだ式と、実際に動く魔導具は別物じゃ! 九%なんぞに上げた瞬間、核が泣きながら逃げ出すわ!」


「核は泣きません!」


「例えじゃ!」


 二人の声は図書館の奥に響き、まわりの学者たちがそっと距離を取っていく。

 その真ん中に、俺とエリオが立たされていた。


 リシアは理論一辺倒。

 グランツは実用主義の塊。

 そりゃあ噛み合うはずがない。


 いや――本来なら俺はここで黙って見守るべき立場のはずだ。

 少なくとも「カイン」としての記憶が確かなら、二人の議論に割って入れるほどの知識は持っていない。


 だが、体のどこかが疼く。

 裏方として、火種を消し、作業を前に進めるための“段取り”が、勝手に頭の中で組み上がってくる。


 気づけば、口が勝手に動いていた。


「……魔導核の保持材、クールミナイトを二層にするのはどうだ? 外層は従来の熱遮断、内層は逆に薄くして、共鳴時の逃げ場を作る。核は暴れないし、同調率の負荷も分散される」


 リシアとグランツの動きが止まった。


 まるで図書館全体が凍りついたみたいに。


 ――やばい。


 言いながら内心で頭を抱えた。

 今の知識は、完全に“未来”の魔導具開発で使われていた工夫だ。

 この時代じゃ、まだ発見されていない。


 完全にボロを出した。


 だが、二人の反応は予想と違った。


「……クールミナイトの“二層使い”? そんな発想、論文にもどこにも……いや、できる、できるかもしれない……!」


 リシアの瞳は、まるで新しい玩具を見つけた子どものように輝き出す。


 一方で、グランツは腕を組んだまま、じろりと俺を見た。


「……にわか知識で言ったにしては、筋が通っとるのう。よくそんな裏方向けの工夫を知っとったな、坊主」


「い、いや、その……」


 裏方、という言葉が喉に引っかかった。

 そうだ、まさしくその通りなのだ。

 俺はいつだってカイン殿下の影として働いていた。

 目立つ知識じゃなく、実用的な裏技の方を覚え続けてきた。


 だが、それを今言うわけにはいかない。


 そのとき――


「カインは事故で記憶を飛ばしたんだ!!」


 エリオが叫んだ。


 まるで俺の失敗を上塗りするように、声を張り上げて。


「いろいろ忘れてるけど……でも、体が覚えてることもあるって、医師が……! だから、いきなり変なことを言うのは……その……そのせいで……!」


 震える声だった。

 必死さが伝わって、胸が締め付けられる。


「エリオ……」


「ごめんな! 本当は旅の最中にこんな状況を見せるつもりじゃなかった……!」


 リシアは目を丸くし、グランツは困ったように眉を寄せた。


 だが、二人とも俺を責めはしなかった。


「……記憶障害、か。なるほど、それで一部の専門用語を“知ってるのに忘れている”みたいな歪んだ反応をしていたのね」


 リシアは納得したように頷いたが、その瞳は好奇心だけは消えていなかった。


「でも……記憶を失っているからって、あんな発想がパッと出てくる? むしろ不思議さが増した気がするんだけど……!」


「おいリシア、追及しすぎるな。坊主が困っとるじゃろ」


「だって気になるの……!」


 リシアは俺の顔を覗き込むように身を乗り出してくる。


「ねぇカイン。あなた、本当に今の発想が“偶然”なの? 核の逃げ場を作るって、発想の根本から“今の魔導具理論”と違うのよ。本当に……記憶を失ってるの?」


 ズキ、と胸の内側が刺された。


 記憶を失っている――それは事実だ。

 だが同時に、俺がカイン本人ではないという重大な事実を隠す嘘でもある。


 何も言えなかった。

 言葉を探して、探して、それでも出てこない。


 その沈黙を破ったのは、またしてもエリオだった。


「や、やめてくれ……! カインの前で……それ以上は……!」


 リシアの肩がわずかに揺れた。


「……ごめんなさい。気になって、つい」


「……いえ。リシアさんの疑問は、ごもっともです」


 俺は絞り出すように言葉を返した。


「けど……思い出したくても、思い出せないんです。何が正しいのかも……全部、分からない」


 リシアは表情を緩めた。


「……そんな顔しないでよ。責める気なんてないの。ただ、気になっただけなのよ。だって、あなた……面白いんだもの」


「面白い、か……」


 苦笑が漏れた。

 彼女の興味は純粋で、悪意は一切ない。

 ただ、その“興味”は鋭すぎて、俺の隠された正体に触れかねない。


 その危うさに気づかぬまま、リシアは続ける。


「ねぇ。もしよかったら、一緒に来ない? あなたの発想、もっと見てみたい。魔導具の開発なんて、あなたみたいな“ズレた知識”を持つ人がいると絶対に面白いことになるから!」


「おいリシア、軽率に巻き込むなと言ったじゃろ……!」


 グランツが渋い顔をするが、リシアは聞いていない。


 エリオが俺を見る。


 俺は、ゆっくりと頷いた。


「……俺たち、旅の途中なんだ。古代文献を探してる。そのためにロウェンに来たんだが……協力してもらえるなら、ありがたい」


「古代文献?」


 リシアの眉が跳ね上がる。


「どの時代の? どこの系譜の? まさか……“時間魔術”に関する文献じゃないでしょうね?」


 刺された。


 図星すぎて、一瞬体が動かなかった。


 だが、俺が答えるより早く――


「そ、そうなんだっ……! 実は“時間から剥がれた友人”がいて、その……戻す方法を探してて!」


 エリオがまた先に答えてしまう。


 俺と目が合い、エリオはすぐにうつむいた。


「ごめん、また先に言っちゃった……」


 その姿が痛々しくて、胸が締め付けられた。


「いや、助かったよ」


 素直にそう言った。


 エリオの顔が少しだけ明るくなる。


 リシアは腕を組んで考え込んでいた。


「時間魔術……しかも剥離。なるほどねぇ……。それなら、あなたがあの奇妙な用語をぽろっと口にした理由にも、説明がつく……!」


「奇妙って言うな。実用的じゃろ」


「うるさい! 私は理論を褒めてるの!」


 また始まった。


 だが、その言い争いの裏で、俺の胸の奥では別の感情が渦巻いていた。


 ――“未来の知識”を使ってしまった。


 危険だ。

 この世界はまだ、学問的には未成熟だ。

 不用意に知識を出せば、歴史が歪むかもしれない。


 だが同時に、リシアとグランツの存在は――

 “ヴィクターを時間軸に戻す”

 という最終目的に、必要不可欠でもあった。


 その天秤の間で、心が裂けそうだった。


「……で? 君たちは旅をしてるんだよね?」


 リシアがこちらを見る。


「時間魔術関連の文献を探してるってことは、ロウェンの次も何カ所か回るつもりなんでしょう?」


「その予定だ」


 リシアはにこりと笑った。


「じゃあ、私も同行するわ。“あなたの知識”が気になるし、古代文献なら私の専門だもの」


「ワシも行く。どうせリシアが行くなら、誰かが止めんと大惨事になるしな」


「誰が大惨事よ!」


 口喧嘩が続く。

 だが、そのやりとりはどこか温かくて――

 俺の胸に僅かに灯をともした。


 仲間が増える。

 それは心強さでもあり、恐怖でもある。

 秘密を抱え続ける苦しみは、人数が増えるほど重くなる。


 しかし――


「カイン。俺たち、きっと大丈夫だよ」


 エリオの言葉が、不安をそっと押さえつけてくれた。


「お前のこと、ちゃんと支えるから。記憶がなくても、お前はお前だ」


 その言葉は、胸に突き刺さるほど優しくて。

 俺は思わず目を伏せた。


「……ありがとう、エリオ」


 それしか言えなかった。


 ロウェンの風が、静かに吹き抜ける。

 新たな旅が始まろうとしていた。

 俺の正体を隠したまま――

 脆く危うい均衡の上で。

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