第1話

風が、街道に積もる砂塵を静かに揺らしていた。


 季節は初夏。昼の熱は強いが、黄昏に差しかかる今はようやく風が肌を撫でる。旅人が少ない古い街道の脇に、崩れかけた石積みの遺構があった。旅の途中、休息を取るには十分な場所だ。


 カイン――いや、カインの肉体に入ったクロウは、その遺構に背を預けてゆっくりと息を吐いた。

 休息を取っているはずなのに、妙な疲れが抜けない。体が軽すぎるのだ。関節はしなやかに動き、筋肉は必要な分だけしか発達していない。盾役として鍛え続けた肉体とはまるで違う。


 ――俺は……いつからこんな細い体だった?


 そう思った瞬間、頭の奥に霧が降りたように、記憶がぼやけた。事故の後遺症といわれた記憶障害。それにしても、自分の肉体に対して「違和感」を覚えることが、はたして自然なことなのか。


「おーい、カイン。もう少し向こうに焚火の跡があったぞ。使えそうだ」


 明るい声が背後から飛んできた。振り向けばエリオが手を挙げている。軽装の鎧を着け、腰には愛用の剣。

 昔からの親友――と、カインの記憶は告げている。

 だが、感覚が追いつかない。彼の言葉を聞くたび、胸のどこかが妙に温かく、そして痛む。


「ああ……すまない。少しぼうっとしていた」


「無理ないよ。事故のこと、俺が言うのもあれだけど……本当にあの時、生きてただけ奇跡なんだから」


 エリオは全く疑っていない。

 事故と説明された“何か”によって、自分が記憶を失ったと信じ切っている。


 カインの肉体を借りたクロウはその視線から目をそらした。心配されるたび、胸の奥のどこかが軋む。


「それより、今日はもう移動しないんだろ? だったら――」


 言い終えるより早く、手が勝手に動いていた。

 足元に置いた荷物の中から、エリオの剣を取り上げる。


 自分の剣ではなく。


 抜いた刃を夕陽にかざす。どこにも傷はないが、砥石の擦り傷が浅く残っている。自然と手が布を取り、無意識に磨き始め――


「……あれ?」


 気づいた時には遅かった。

 エリオがこちらを見ている。驚きではない。困惑でもない。ただ――心配そのものの表情で。


「カイン。最近さ……前にも言ったけど、自分の剣より先に俺のを磨くの、ほんとにクセになってるよな」


「……悪い。つい……」


 クロウはそこで言葉を切った。

 つい、何だ?

 なぜ自分の武器より他人の武器を先に整えようとする?


 従者の癖。盾役として仕えた者の自然な動作。

 だが彼は“カイン”として生きているはずだった。


「いや、責めてるんじゃなくてさ」

 エリオがそっと近づいて、静かに座り込む。

 その声音は限りなく優しい。

「本当に、無理はするなよ。記憶のことも、事故の疲れも、俺たち誰も責めない。お前が一番しんどいだろうから」


 疑念は一切ない。

 ただ、親友が痛みを抱えていると思い、寄り添おうとしている。


 胸が強く痛んだ。

 理由は分からない。分からないが、その痛みがやけに鋭い。


「……大丈夫だ。少し、調子が悪かっただけだ」


「なら良かった。でも、本当に無理すんなよ? カイン、お前最近ちょっと細くなってないか? いや、もともと細身ではあったけど……軽くなったっていうかさ。動きも昔と違うってリシアも心配してたし」


「……そうか?」


「うん。俺さ、なんとなく思うんだ。事故のショックで、戦い方とか、体の使い方とか、そういうのがちょっとズレてるんじゃないかなって。だから焦らなくていい。俺は……」


 エリオは一度言葉を呑み、軽く息を吐いた。


「俺は、お前がどんな状態でも、昔と変わらず親友だからさ」


 その言葉は、槍のように胸へ突き刺さった。


 ――なぜ、お前はそんなふうに笑えるんだ。


 思わず俯く。刃を磨く手が震えた。エリオはその震えすら、体調のせいだと信じている。


「…エリオ。俺は……」


 何かを言いかけ、しかし言葉が出ない。

 違和感は雪のように積もり始め、思考をかすめるたびに胸の奥で鈍い音が響く。

 自分が誰なのか。

 自分が本当にカインなのか。

 問いを浮かべるたびに、霧が思考を覆い隠す。


 そのとき――。


 街道の向こう、森の影がざわりと揺れた。

 瞬間、クロウの体は反射で動いた。

 剣を抜き、エリオの前へ飛び出し、盾のように腕を構える。


 敵襲だ。


「うわっ、カイン!? お、お前……今の動き……」


 エリオの声が背後から聞こえる。

 驚きを含んでいるが、そこに疑念はなかった。ただ、あまりに心配そうで――痛い。


 茂みから魔獣が躍り出る。黒い狼のような魔生体。

 牙を剥き、一直線にカインを襲う。


 クロウの動きは完全に“盾”のものだった。

 斬りつけるのではなく、受け止めるのでもなく――

 まずエリオを守る位置に身を置く。


 魔獣の爪が腕に食い込み、鮮血が飛ぶ。

 だが痛みより先に、体が勝手に次の行動を選ぶ。

 押し返し、距離を作り、盾のポジションを維持する。


 ――これは、カインの戦い方ではない。


 魔獣が再び飛びかかる前に、エリオが横から斬りつけ、一息で仕留めた。


 血の匂いが街道に漂う。

 エリオは息を整えながら、心底心配そうに言った。


「カイン……大丈夫か? また俺を庇って……お前、昔から俺を大事にしてくれるけど、最近は特に……なんか、自分を犠牲にするみたいに動くよな」


「……すまない」


「謝るなって。心配すんだよ。事故のせいで体が鈍ってるんじゃないかって……俺も、力になるからさ」


 エリオは本当に、疑っていない。

 ただ、親友の異変を心の底から案じている。


 クロウは返す言葉を持たなかった。


 血が滴る腕を押さえながら、胸の奥にまたひとつ、重い石が落ちたような感覚がした。

 その石は罪悪感の形をしていて、落ちるたびに自分が遠ざかっていく。

 本当の自分から――そして、本来のカインからも。


 焚火の煙が風に流れる。

 その煙が世界のどこかで消えるように、クロウの中にある“自分”もまた、少しずつ輪郭を失っていく気がした。


 ――俺は、いったい誰なんだ。


 その問いには、まだ答えがなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る