第0章 第五話
清めの儀が終わり、屋敷内に戻った。
不思議と体の痛みも引き、候補者それぞれがチカラを蓄えていた。蓄える、と言ってもお菓子をつまみ、黙々と喰らうだけなのだがな。
盃を傾けていた野郎は。が茶を飲み始めた。風切り音が鳴るほど素早く立ち上がる者がいた。視界の端にいた、怜利だった。
「とぶ、」
その声が聞こえた、刹那。空気が爆ぜるのを感じる暇もなく、大きく真っ赤な渦が至る所を深い紅色に染めた。
しわがれた手が腕を握ってきた。次の瞬間には屋敷の広い庭に寝転がっていた。
酷い耳鳴りと、やけに身体全体が熱いのを感じた。
「坊ちゃん、生きとるか?」
婆が顔を覗き込んできた。そうだ。寝ている暇なんかはない。
ゆっくりと、痛む身体を起こして屋敷の方を見やる。中からゆっくりと三つの影がこっちに向かってくる。
「―疾風、『風障』助かった。」服を焦がしたガキ三人が業火の中から姿を現していく。茶髪の術式だろうか、三人の周りに火が寄ってこない。しかし、背中に背負っている他の候補者には火が付いていた。皆どこかしらを負傷していた。
紅が背後から足音を立てて近寄って来た。
「皆さん、これは何事でしょうか?」
少々怒りの宿る声で大きく歩幅を広げる。
怜利達が抱えた者どもを降ろす。皆動かないが果たして生きているのだろうか。茶髪が風圧で火を消した。
起き上がろうとした。同時に赤い光で影が出来た。二度目の渦が迫ってきたのだ。婆が腕を掴んできたが、俺はそれを振り払った。足を崩して胡坐を掻いた。
「見ろ、婆。」
落ち着き払ったガキども三人が皆の前に立つ。その後ろで、何やら紅が茶髪と巨躯の奴に耳打ちしている。
それに気づいた怜利は笑いながら受け答えしている。
「さて、二人共、任せたよ。」
そういった怜利は紅と共に五歩ほど下がりながら、詠唱を始める。この詠唱はある一点を中心に展開する『展式結界』だった。怜利の詠唱が終わり、俺たちの周りに結界が出来ていた。
「幸璃、これどうするん?」
頭をポリポリ掻きながら爆速で近づく渦に歩み寄る疾風。印を組み始める。
「関係ないな。とりあえず候補者守れればいいんじゃないか?」
肩を鳴らして準備運動かのように動く幸璃。それからズボンの右ポケットに手を入れる。
「まあ、いっか!!」
疾風は左手に風を纏わせて、重い切り振りかぶる。同時に幸璃は指輪を嵌めた右手で正拳突きをする。
迫っていた渦に風の流れがぶつかり、爆発するように消える。その後すぐに黒い影が何人も飛び掛かってくる。まるでリビングでテレビを眺めるぼんやりとした怜利。口元に笑みが溢れていた。
「紅さん、あれ見ました?」
「見ている。任せて大丈夫なのか?」
疾風が爆風で何人も吹き飛ばし、幸璃が巨体に似合わない俊敏さで近づく者どもを蹴散らし続ける。
「もちろんですよ。しかし、候補者の皆様があんな状態で儀式出来ますかね。」
視線を変えて山積みの候補者を見る。皆気絶しているのだ。
巨躯の幸璃に少しずつ敵が寄っていく。見ていられなくなり、立ち上がった。
「怜利、俺も出してくれねえか」
そう言うと紅がこっちをちらっと見た。
「玄斎殿、あなたは出せませんね。」怜利が答えた。
「守られてるんじゃ納得いかん。」そう言うと婆が喚き始める。
「坊ちゃん、行かせられんよ、」
断られるのは分かっていた。結界を割るなんてことは出来ないことを知っている。それでも拳に力が入る。
「玄斎様、あなたが行ってしまうと彼ら二人を呼んだ意味が無くなります。」
ストレッチをしながら、こっちに目を向ける怜利。
「それに、正当な儀式で彼を止めるのは貴方ですから。」
彼?なんとなく察しがついて候補者の山を見る。一人の姿が見えなかった。
そこで俺は思い出す。二週間前にここに来た時怜利と話した内容を。
「これか、怜利。お前が言ってたのは。」
「そうですね。備えてはいましたがまさか本当に動くとは思ってませんでしたがね。」
しばらく怜利は渋い顔をして、結界の外を眺めていた。
「流石に、多勢に無勢か……。紅さん、確認します。身体の酷使とは、どういった定義ですか?」
紅は少し考えた後呟いた。
「そういえば…ここ三百年程、誰も気に留めなかったものですね。」
怜利の視線が少しだけ泳ぐ。
「酷使、私の認識では一つ目に『肉体の酷使』があがりますね。動き回って身体が保たなくなるのは酷使でしょう。」
ふむ、と呟く紅。
「残念、怜利。約五百七十年前に同じことを問われた際、
酷使とは、肉・呪・気。それらの均衡を壊すことを言うのです。
肉を酷使すれば器が軋み、呪を酷使すれば魂が焦げ、気を酷使すれば理が崩れる。三つのいずれかが欠けても人は立てる。しかし、三つすべてが擦り切れたとき、人は『己』という存在を保てなくなる。
これを“酷使”と呼びます。」
紅が聞かれることが無かったのは多分、訊いてはいけないこととして長い間扱われていたのだろう。でもなければ、俺に教えてくれた者が同じことを言えるはずがないからな。そりゃ、八神の当主を決めるというのにルールが守れなきゃ残れない。
「なるほど。では、肉体の酷使とは、器、つまり身体を維持するために呪力を使わなければ良いということですね?」
「そのとおりだ。」
怜利はストレッチをやめ、踵で地面を蹴る。まるで猫のようなしなやかな動きで立ち上がる。それから結界の境目に一歩また一歩と歩みを進めていく。
「では、行ってくることにします。紅さん、判断はお任せします。」
華奢な少年は、結界から出たと同時に姿が消えた。
次の瞬間には、視界の右端に怜利の姿が映る。そこにいる、そう認識して視線を動かそうとした。しかし、その間に視界に黒い筋が映る。
目にも止まらないスピードで、者どもを投げるとも打つとも異なる不思議な動きで飛ばしていく。それによって幾分か動きやすくなった幸璃がブレイクダンスのように大きく足払いをする。周りにいたものは一気に倒れていく。
怜利が戦闘に出てから明らかに立っている敵の数が減った。怜利の姿は見えなくなるほど早くなっている。あれでも疲れない範囲であるのだと思うと恐ろしいものだ。
怜利が敵の連携をあっという間に崩しつつ、相手の戦闘可能人数を減らしていく。そこに乗じる様に幸璃が相手の進行を防ぐ。幸璃が止めた者どもを疾風が術式を撃つことで敵を戦闘不能にしていく。驚くほど完璧な防衛チームだ。それだけこのガキたちが場数を踏んでいるという事だ。
忍び装束を着て走ってくる者どもの中に一人。ゆっくりと歩んでくる者がいた。背中に刃幅の広い薙刀を背負い、忍び装束の上に焦げ茶色の外套を羽織っていた。コートの内側に覗く仮面が異様に目を引いた。
幸璃が敵を押し込むのに合わせて術式を放つ疾風。草が巻き込まれるように風の軌道を走る。当たった者が抉られるように傷を負う。門前で対峙した時とは比べ物にならない程の威圧感だった。
ゆっくりと近づいていた男は途中で幸璃に足先を向けた。まずい、そう思った時には既に幸璃の背後に走り込み背負っていた薙刀を振りかぶっていた。
俺は飛び出していた。とにかく必死だった。子供が死ぬところは見たくない。
結界を全力で割って、転びそうになる俺を一瞬で追い抜かしていく人影が二つ。二つの背はどちらも子供のものだった。片方は怜利。もう片方は、小柄で白髪の長髪。
薙刀を持った長身の男も、何が起きたかわからないのだろうか。両脚が氷漬けになり、上半身の前に膝が飛び出る様に身体が後ろに倒れこんでいる。膝から猛烈な量の血しぶきが立つ。
「あぁ!いてぇ」
長身の男は藻掻くように両腕を動かす。しかし、止まることを知らない血が流れ続けていく。まるで濁流のように勢いがあった。
やがて、音もなく腕が地に着く。そして胸の上下も止まる。その光景を呆然と見ていた忍び装束の者どもは、逃げる様に後ずさりをする。
怜利が血の池に歩んでいく。男の固い握りこぶしを両手で開き、薙刀を取り上げる。俺も近くに寄った。これだけの血を見ても何も感じないのは慣れてしまったからだろうか。薙刀には案の定、東北八神の紋様が付いていた。
怜利は顔をしかめて、潰れた屋敷の方へゆっくりと歩いていく。
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