第5話 氏子の屋敷(昼)
玄道に会う前に自らも一目屋敷を確認しておきたいと兼雅の提案で屋敷前に来た。
昼下がりの空は、雲ひとつなく晴れていた。
だが、屋敷の前に立った瞬間、行直は足を止めた。
変わらない――はずだった。
門構えは以前と同じ。
塀も、庭木も、見覚えのある位置にある。
だが、どこか違う。
風が、通っていない。
夏の盛りだというのに、庭の空気は澱み、葉擦れの音も薄い。
生き物の気配が、妙に乏しかった。
「……なあ、行直」
兼雅が、低く声を落とす。
「ひとつ、聞いていなかったことがある」
行直は、門から視線を逸らさぬまま答えた。
「何だ」
「今回の『馴染みの女』だが――」
兼雅は、間を置いた。
「どこの屋敷だ」
行直の肩が、ぴくりと揺れた。
「……」
「行直?」
兼雅が問い返すと、行直はようやく振り向いた。
そして、気まずそうに鼻を掻く。
「……言ってなかったか?」
「”氏子殿”としか、聞いていない」
「……そうか」
行直は、しばし黙り込み、門の扉に視線を戻した。
「藤原だ」
短く、そう言った。
兼雅の眉が、わずかに動く。
「……藤原?」
「ああ。藤原氏子殿の屋敷だ」
その名を耳にした瞬間、兼雅の声は、ほんの僅かに低くなった。
「……よりにもよって、か」
兼雅は、息を吐いた。
「行直お前、だから俺に助けを求めたのか。
これから藤原の者に助けを請うつもりでいながら、 同じ藤原の女を――」
「違う。勘違いするな。
確かに、玄道に対して其方の仲立ちを当てにしていなかったとは言わぬ。
だが、氏子殿が藤原の者だと知ったのは後になってからだ」
「……よりにもよって、か」
兼雅は、同じ言葉を繰り返す。
「わかっている」
行直は、被せるように言った。
「わかっているから、言えなかった」
兼雅は、何も言わず行直を見る。
「……昔はな、きちんと通っていた」
行直は、言い訳のように続ける。
「定期的に顔も出したし、文も交わした。
馴染みと呼ばれても、おかしくはなかった」
「…ではなぜ?」
「……俺が途切れた」
行直は、自嘲気味に笑う。
「別の縁に浮ついてな。
しばらく、足が遠のいた」
沈黙。
「それで、昨夜久方ぶりに訪れたら、あれだ」
行直は、屋敷を見上げた。
「声は、昔のまま。
……だが、屋敷は、まるで別物だ
昨夜は俺の勘違いとも思えた。だが、これは違うだろ」
兼雅は、門に手をかけながら言う。
「後ろめたいか」
行直は、即答しなかった。
「……あるさ」
やがて、そう答える。
「俺が通っていた頃から、あの彼女は、どこか体が弱かった。
喉の不調も、少しずつ訴えていた」
兼雅の目が、細くなる。
「喉?」
「ああ。
最初は、違和感程度だと言っていた」
行直は、声を落とす。
「……俺が来なくなった頃から、悪化したのかもしれん」
兼雅は、静かに門を押した。
きい、と鈍い音がする。
中から現れたのは、女官だった。
年の頃は二十代後半。
顔立ちは整っているが、目の下に濃い影がある。
「……どなた様でしょうか」
声音は落ち着いているが、どこか張り詰めていた。
行直が名乗ると、女官は一瞬、目を見開いた。
「……弓江にございます」
そう名乗り、深く頭を下げる。
「お久しゅうございます」
その言葉は丁寧だが、喜色はなかった。
兼雅は、その様子を見逃さなかった。
(――屋敷が、女を守っているのではない)
(女が、屋敷を保っている)
胸の奥で、嫌な予感が膨らむ。
弓江は、二人を座敷へと案内した。
廊下は暗く、昼間だというのに灯りが必要なほどだった。
「……人が少ないな」
行直が、ぽつりと言う。
「以前は、もっと賑やかだった」
弓江は、一瞬だけ唇を噛みしめた。
「……事情がございます」
それ以上は語らない。
やがて、几帳の張られた部屋に通された。
御簾の向こうから、声がする。
「……どなた?」
若い、澄んだ女の声だった。
行直の背筋が、ひくりと震える。
兼雅は、目を伏せた。
――昼間で、これだ。
夜なら、どれほど歪むのか。
彼は、この場で確信する。
(玄道を呼ばねばならぬ)
(だが――)
同時に、思った。
(この屋敷には、すでに“何か”が棲みついている)
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