第2話 源行直、賀茂兼雅のもとへ
その夜、都は蒸し暑さに沈んでいた。
日中に溜め込んだ熱を吐ききれぬまま、石畳も土壁も、じっとりとした気を孕んでいる。夜半を過ぎても涼は訪れず、虫の声だけが、やけに大きく耳に残った。
賀茂兼雅は、陰陽寮の一角に与えられた私邸で、書を広げていた。
灯明の火は小さく、紙に落ちる光も心許ない。だが彼は気に留める様子もなく、几帳面な手つきで文字を追っている。
――その静けさを破ったのは、乱暴な足音だった。
庭先を横切る気配。
次いで、戸を叩く音。
「兼雅! いるか、兼雅!」
聞き慣れた、やや上擦った声。
兼雅は溜息をひとつつき、書を閉じた。
「……夜半に押しかけるとは、礼を知らぬにも程があるぞ、行直」
戸を開けると、そこには源行直が立っていた。
普段なら、夜遊び帰りの余裕を顔に張り付け、香の残り香を纏っている男である。だが今夜は違った。
顔色が悪い。
汗をかいているのに、唇は乾いている。
「そんなことを言っている場合じゃない……」
行直はそう言いながら、兼雅の肩を掴み、半ば無理矢理に中へと押し入った。
「おい、落ち着け。まずは腰を――」
「いや、聞いてくれ。今すぐだ」
行直の目が、異様に据わっていた。
酔いでも、色事のもつれでもない。兼雅はその時点で察する。
「……また、何か見たか」
行直は一瞬、口を噤んだ。
そして、苦々しく歯を鳴らす。
「見た、というか……出くわした、というべきか」
彼は几帳の脇に崩れるように座り込み、両手で顔を覆った。
「……とんでもないものだった」
兼雅は黙って白湯を淹れ、行直の前に置いた。
こういう時、この男は急かせば言葉を濁す。待つのが一番だ。
しばらくして、行直はゆっくりと語り始めた。
「方違えだ」
「……は?」
「方違えだと言っている。今日は凶方に当たっていてな……仕方なく、久しく訪れていなかった屋敷へ向かった」
兼雅は眉をわずかに動かした。
「久しく、というと?」
「……まあ、しばらくだ」
行直は視線を逸らし、誤魔化すように続ける。
「昔は、定期的に顔を出していた。馴染み、というやつだ。
だが、ここ最近は――その、別の縁もあってな」
兼雅は何も言わない。
源行直という男の性質は、今さら指摘するまでもない。
「それで?」
促され、行直は喉を鳴らした。
「御簾の向こうから、声がした。若い女の声だ。
昔と変わらぬ、いや……むしろ、以前よりも澄んでいて」
行直の声が、微かに震えた。
「……懐かしい、と思った」
彼は一度、目を閉じる。
「だから、疑いもしなかった。
御簾を上げたんだ」
沈黙。
行直は、次の言葉を吐き出すのに、少し時間を要した。
「――そこにいたのは、年配の女だった」
兼雅は、即座に何も言わなかった。
行直の表情を、じっと見る。
「声の主とは、似ても似つかぬ女だ。
痩せて、肌は白く……いや、白いというより、血の気がなかった。
髪も整えられておらず、目だけが、やけにこちらを見ていた」
行直は、己の腕をさすった。
「声は、あの声のままだった」
灯明の火が、僅かに揺れた。
「……幻惑か?」
兼雅が静かに問う。
「俺も、最初はそう思った。
だがな、あの屋敷……おかしい」
行直は顔を上げた。
「女だけじゃない。
屋敷全体が、何かを隠している」
兼雅は、ゆっくりと腕を組む。
「憑依、あるいは……封じか」
言葉を選びながら、呟く。
「声だけを残し、姿を覆う術。
だが――」
彼は首を振った。
「決め手がない。
少なくとも、其方の話のみでは判断しかねる」
「しかし、実際に俺は見たのだ。
“氏子殿の声”として、俺の名を呼び、俺に語りかけていた。
それが――目の前の女は、どう聞いてもあの声とは別人なのだ!
あまりにも、あの人とは姿が違いすぎる」
「落ち着け。何も話が偽りだとは言うてないぞ。
ただ、判断しかねると申しているだけだ。
それに、少なくとも其方には呪はかかっていない」
兼雅は腕を組み、思案に沈む。
声の怪――。
御簾越しに聞こえた若い声と、現れた女の姿の齟齬。
確かに怪異に思えなくもないが、怪異は基本的に因となる理がある。
「……そうか」
行直は、ため息をつきつつも幾分かは落ち着いたようだ。
「だからな、源行直」
兼雅は、少しだけ声を強める。
「覚悟はあるか。
これは、ただの夜這いの失敗談では済まぬぞ」
行直は苦笑した。
「最初から、そのつもりだ。
だから――」
彼は、一瞬ためらい、そして言った。
「藤原玄道のところへ行こう」
兼雅は、行直の言葉に驚きつつも、自分と同じ考えに至った相手を見つめる。
「……まさか、行直の口からあの男の名が出るとはな」
「他にいるか?」
行直は肩をすくめる。
「物の怪を理で見る変わり者。
藤原のはぐれ者。
――だが、ああいう厄介事には、あいつが一番だ」
兼雅は、否定しなかった。
むしろ、その名が出た瞬間、胸の奥で何かが収まるのを感じていた。
「……そうだな」
彼は立ち上がり、外を見やる。
「嵐山か」
行直は、安堵したように息をついた。
「久しぶりだな……玄道に会うのも」
その声には、僅かな緊張と、拭いきれぬ不安が混じっていた。
こうして、三人を結ぶ因縁は、再び動き出す。
まだ誰も、この出来事が
一人の娘と、名もなき守り手の別れへと繋がっていくとは、知る由もなかった。
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