物の怪理(もののけり)

鈴饅頭

声の主は誰ぞ

第1話 序章 記すことにいたしました

 わたくしの名は 藤原頼緒(よりお) と申します。

 けれど、幼い頃から「梨於(りお)」と呼ばれ親しんでまいりましたので、どうぞ皆さまも、遠慮なくそちらをお使いくださいませ。名乗りなど、堅苦しいものを並べるほどの身分でもございませんし、なによりわたくしは他者にそう構えていただくことが、いささか苦手でございます。


  都の西、嵐山へほど近い場所に小さな邸を構え、春は霞に山肌が溶け、夏は濃い緑が風を孕み、秋は紅に染まり、冬は静かな白に閉ざされる――その移ろいの中で、わたくしは育ちました。

 この地は美しく、尊き方々の別荘や高位の貴族の館などもあり、雅な文化が育まれる場所でもあり、同時に、少しばかり“深い”場所でもあります。人の世の理(ことわり)だけでは測れぬものが、当たり前のように息づいているのです。


 そして、嵐山の奥まったところに、ひとつ庵がございます。

 世間では奇人と噂される、わたくしの兄様――藤原玄道が住まう庵です。


 ひと言で申すなら、奇人にして博識、そして世の理から一歩ずれた目を持つ男でございます。それがわたくしの兄、藤原玄道(げんどう)。本作の主役でありながら、本人はその自覚をまるで持っておりません。

 検非違使の職にありながら、権勢にも昇進にも興味を示さず、

 怪異を恐れぬくせに、無闇に信じることもしない。

 人は兄様を「変わり者」と申しますが、わたくしにとっては、ただ少しばかり視点の違う、頼りになる兄でございました。


 わたくしは幼い頃より、兄の語る「理(ことわり)」に耳を傾けて育ちました。

 月の満ち欠けから、湯の効能、病の手当て、そして人の心の影の在り処まで――。

 兄の話はどれも不思議と胸の内に染み入り、気づけばわたくしも、世の奇妙に目を向ける性分となっていたのです。


 都という場所は、表は華やぎ、裏は陰りの深いところ。

 晴れ着の袖の間を抜ける香風のすぐ傍を、名も知らぬ影が歩いていたりします。人が噂する妖(あやかし)と呼ばれるものも、じつのところ、人の心が生み出す歪みであったり、はたまた自然の理が姿を変えただけのこともございます。


 しかし、そうした“影”が、やすやすと人の暮らしに入り込むのもまた都の性(さが)。

 怪異の話も、人の情のもつれも、やがては風化するもの。

 けれど、まれに――どうしても書き留めておかねばならぬ出来事がございます。

 この話も、そのひとつ。

 そしてわたくしは、兄のそばにいたおかげか――

 気づけば、そうした「影の話」を耳にし、筆に綴る役目を担うようになりました。


 いまこうして筆を取ったのも、一つの奇妙な出来事があったゆえにございます。

 それは、あの日――

 嵐山の庵へ久方ぶりに訪れた客人が、息を切らせて語りはじめたひと言から始まりました。


「声の主とは似ても似つかぬ、年配の女でございました」


 その言葉が意味するものを、当時のわたくしは、まだ知りませんでした。

 けれど後に思えば――

 あれは、人が人を縛り、守るために呪いを重ねてしまった、哀しい物語の幕開けであったのです。


 これは、声と姿が食い違った一夜の出来事。

 そして、ひとりの娘を守り続けた“名もなき存在”との別れの記録。


 ――ゆえに、わたくしはこの話を、ここに記すことにいたしました。

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