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 幸い命と身長がほとんど変わらなかったので、服と靴を借りて家を出た。昨日の大雨はすっかり通り過ぎ、よく晴れて熱いくらいだった。


 グラスのない世界は間延びしていて、穏やかで、心地が良かった。

 昨日、自分の家を出る時にグラスをかけ忘れてきたので、視界に広がる煩わしい広告もなく、健康であることを半ば強制しようとするアプリの通知もない。


「秋人さんは一人暮らしされているんですか?」

「そうだ。親はいないし」


 どうかこれ以上突っ込まないでくれ、と秋人は心の中で切に願った。


 父は秋人が十歳の時に家を出て行った。愛人を作って、母と離婚した。父とはその後、面会もしなかった。


 美しさ故に愛され、美しさを失ったが故に捨てられた母は、離婚以後とにかく荒れた。そして、秋人が二十歳の時に目の前で自殺した。


 両親のことも、行方知れずの姉のことも、何年たっても心の整理がつかず、とても口に出せない。医師やカウンセラーにも、家族のことを、特に母のことを事細かに説明できたことなどない。


「じゃあお部屋あんまり広くなさそうですし、汚いって言ってもどうにかなりそうですね」


 命は能天気に言って、車のナビ上で行き先を設定した。シートベルトを着用してくださいというアナウンスが流れ、二人がシートベルトを締めると、車は発進した。


「あ、車のサイズって大きいですか? 僕の家の駐車場はあんまり広くないんで、停められますかね?」

「持ってないから安心しろ」


 運転を禁止する抗鬱薬を飲んでいた時期もあり、買うのが面倒になって買っていなかった。


 車の運転は行き先を設定するだけなので非常に簡単だが、万一の時には運転席に座っている人間がハンドルを切らなければならないこともある。鬱病治療の薬には運転を禁止しているものもあり、そうでなくてもいざという時にハンドルを握る自信もなく、購入には至らなかった。


「そういや、あんたいくつ?」

「二十七です。秋人さんはおいくつですか?」

「……二十五」


 命は秋人が年下だと知っても嫌な顔をしなかった。むしろからりと笑った。


「そうでしたか。僕はずっと敬語で話してもいいですか? 人と話す時、ため口だと落ち着かないんです」


 変な奴。そう思ったのが顔に出ていたのか、命が苦笑した。


 秋人の住んでいるマンションに到着し、エレベーターで三階まで上がった。


「部屋、汚いけど、文句言うなよ」

「わかりました」


 命に十分言い含めてから部屋の扉を開けた。中は薄暗く、あちこちにごみが散乱していた。洗った服やタオルは洗濯機の中に入れっぱなしで、洗濯物はかごからあふれ出ている。


 秋人は何もかもを見て見ぬふりをして、ずかずか廊下を進み、リビングテーブルから落ちたグラスを見つけて掛けた。すぐに視界に情報が散乱する。


 どうでもいいニュースががなるように視界を通り過ぎ、読んでいない通知の集合体が視界の端にちらつき、今日の天気は右端の方で小さくなっている。認知行動療法AIからの通知も溜まっていた。


 インターネットに接続された視界は、辟易するほど忙しなかった。


 グラスを通して命を見た。命の周囲に公開範囲が限定されていない情報がぐるりと展開される。


 当たり障りのない基本的なステータス、オープンなSNSアカウント情報、着ている服に付けられたブランドのデジタルタグ、足元を彩る知らないアーティストのグラフィティやステッカー。

 仕事に直接つながる情報は見えなかった。仕事内容が内容だからか、見知らぬ人には公開していないのだろう。


「思っていたより散らかっていないですね」

「そうか?」

「はい、ごみは確かに多いですが、私物がかなり少なく見えます」


 言われてみれば確かにそうだった。命の家と比べると、自分のものは少ない。何かを欲しいと思うことが極端に少ないせいだった。


 そんなもの買ってどうするの? 


 嘲りを含んだ問いが、耳の奥で反響する。頭を振って、記憶の奥底に再びしまい込んだ。


 必要なものをかき集めて手近なリュックに詰め込み、片方の肩にかけた。軽すぎてどきりとした。服薬中の薬も入れたはずなのに、空のリュックを背負ったみたいだった。


「これだけ持って行けばいい。後は何もいらない」

「何もって、じゃあ他は全部捨てていいんですか?」

「そうだよ。あんた面倒なことは全部やってくれるんだろ?」

「やりますけど、使えそうなものがまだたくさんあるのに気が引けるなあ」

「ならあんたが選り分けてくれよ」


 車に戻ると、気分はかなり軽くなっていた。あの散らかった部屋に二度と戻らなくていいと思うとせいせいした。しかも後始末は命が責任を持ってくれるというのだから、最高と言うほかない。


 売り払った実家から逃げるように辿り着いた部屋だった。孤独で苦しい思い出と結びつきすぎて、本当はずっと離れたいと思っていた。家の外では平気な顔をしていたが、あの部屋で焦りと不安で爆発しそうな体を抱えて、独りずっと泣いていた。


 車が命の家に向けて出発した。秋人は振り返ってマンションを見ることもなかった。

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