2 inception

2_1


 体の内側に目がある。それは常に自分を眼差していて、睨め付けてくる。


 何か言いたいことがあるならはっきり言いなさい。


 言われた通り、自分の意見を口にする。だが、次に飛んでくるのは怒号だった。

 意見を言うと、態度から人格、これまでの人生もこれからの人生も、全てを余すことなく否定された。


 やがて何も言わなくなった。ほどなくして、心の中でも意見を言わなくなった。いつしか自分の意思や感情は自分の奥底で迷子になって、帰ってこなかった。


 それでも体の内側に目はあり、感情や意見が発生したのではないかと目を光らせている。

 それは母の目だ。若く美しい時に死んでおくべきだった、お前を産む前に。そう言って死んだ母の目だ。


 母が美しい人だったという思い出は、秋人の中にはない。秋人に向けられた顔は常に険しく怒りと侮蔑に満ちていた。


 流されて生きてきた。自分の意見がないのは、母に否定され続けたせいだと気づいたのは成人してからだった。


 あの目から視線を逸らす。自分の足は小さくて、靴下の親指のところは穴が空いていた。擦り切れた靴下を見られるのが恥ずかしくて、同級生のいない時間に学校へ行って上履きに履き替えていた。


 何、その目。何か言いたいことがあるの?


 していない、と心の中でだけ言い返す。その声もか細くて、消えかけの蝋燭の火のようだ。吹けば飛ぶ火であればどれほどよかっただろうか。消えられなかったから、こうなった。


 言いたいことがあるならはっきり言いなさいって何度も言ってるでしょう!


 ぎゅっと目を瞑った。次に飛んでくるのはきっと張り手だ。骨ばった手が頬をはたくに違いない。あるいは蹴りだ。つま先がみぞおち目がけて飛んでくるに違いない。


 嫌だと思うこともなくなって、ただ耐える。強く目を閉じて、心の声を消して、場が収まるのを待つ。遠ざかれ、僕の心、この場から。


 はっと目が覚めて、知らない部屋にいることに気づき、全身が硬直した。すぐに命の家に泊まったことを思い出して、ようやく体中の筋肉が弛緩した。


 睡眠薬の手持ちがなくて服用できなかったが、いつの間にか眠れていたらしい。雨風に打たれて体力を使い果たしたせいだろう。


 秋人の目覚めを壁面に設置されたセンサーが感知したのか、カーテンが自動的にゆっくりと開かれていく。部屋には朝の光が差し込み、秋人は顔をしかめて布団を頭まで被った。


「おはようございます、秋人さん」


 さわやかな挨拶をしながら命が部屋に入ってきた。おそらくセンサーが秋人の起床を命に教えたのだろう。命は布団をかぶったままの秋人に構わず話しかけてくる。


「朝ご飯はどうしますか?」

「いい。いつも食べない」

「では、コーヒーだけでも用意しますね。それから、今後のことについて話したいです」

「……わかった」


 リビングに行った方がいいのだろうと思いながらも、秋人は全く動けなかった。起きたばかりで頭も働いていないし、動く気力がわかなかった。

 布団から出てくる様子のない秋人を見かねたように命が言った。


「コーヒー持ってきますね」


 命がコーヒーを持って戻ってきた時にも、秋人は布団をかぶったままだった。


「また眠ってしまいましたか?」


 布団越しに軽く揺さぶられて、秋人は渋々布団から顔を出して体を起こした。もらったコーヒーからは辛うじて湯気が立っていた。

 命は椅子に座って、秋人の分と一緒に持ってきたコーヒーを飲んだ。


「昨日は大雨に打たれてましたが、体調はいかがですか?」

「普通」


 頑丈ですね、と呑気な命は感心したように言う。


 秋人の体調はいつも良くない。だから普通だった。

 体中が怠いし、頭はぼんやりとしている。頭の中はいかれた男の家で無防備に寝ていた自分の無防備さへの非難でいっぱいになっていた。


「今後のことって、何?」

「一緒に暮らす約束をしていただきましたが、具体的なことを決めたいなと思って」


 昨日、命に言われるまま、一緒に暮らすことを約束したが、他に話すべきことは思いつかなかった。


 一晩経って、頭は少し冷静になったが、それでも命の提案を蹴るという結論には至らなかった。そこまで強い意志は発生しなかった。

 秋人にとって、自分の意見は川に流れる枯れ葉で、気付けば見えなくなっているものだった。川の流れに抗うことはできないし、抗ったとしても無意味だった。


 どうせ死ぬんだ。死体の行き先が変わるくらいなんだ。死後に人の役に立てるのは、灰になるよりずっといい結末だ。


「御覧の通り、部屋が余っているのでここを秋人さんのお部屋にしてもらおうと思います。使っていなかったので掃除はしますね」


 寝る前に命がベッドリネンを全て取り換えてくれたが、部屋の掃除をする時間はなかったので床や家具にはうっすらと埃が被っていた。もっとも、秋人の住んでいる家と比べればごみも落ちていないし十分綺麗だった。


「秋人さんが安楽死できるようサポートすると申し上げましたが、秋人さんにもご協力いただく必要があります。病院に行って申請を出してもらうとかね。あと、食事や運動は基本的に僕の指示通りにしてください。亡くなるまでにもう少し体脂肪率を下げて筋肉を増やしてもらいます。食費や診察費、薬代など、生活にかかる費用は僕が負担します。当面のことについての僕の提案は以上ですが、何か質問はありますか?」


 命は淀みなく、すらすらと話をした。


 ずっと前から計画していたことみたいだと秋人は感じた。


 たった一晩で、こうまで決められるものだろうか。決断が速いから可能なのだろうか。もしかして、安楽死法が導入されてからずっと考えていた、とか。

 

 もし死にたがっている理想的な人と出会えたら、その時にはより理想に近づいてもらうためにあれこれと指示をして、安楽死ができるようにサポートして、そのための費用の見積もりをして。そんなインモラルな空想を頭の中で練っていたのだろうか。


 だが、それがどうだと言うのだろう。人は多かれ少なかれ頭の中ではインモラルなことを考えるものだ。たとえそうだったとしても、どうだって――

「いいんじゃないか」


 要するに、命の言うことを聞いていれば悪い扱いはされないのだろう。確実に死ぬことができるし、死ぬまでの生活の不安がなくなるのも願ったりかなったりだった。


「ありがとうございます。では、早速ですけど秋人さんの家から荷物を取りに行きましょう」

「今?」

「はい、今です。このあとすぐ。他にご予定がありますか?」


 秋人は顔をしかめてか細いうなり声を上げた。


 今日も予定などない。家族も友だちも趣味も仕事もないのだから。

 だが、何かをすぐに実行しようと言われると、なんとなく気づまりだった。


「ああ、もしかして動くのも面倒ですか? 鬱の人って起きるのも大変なんでしたっけ? すみません、僕ってば先走っちゃって。僕だけで秋人さん家に行って必要なものを取ってきますから、好きなだけ寝ていてください」


 命はサイドテーブルに置かれていた秋人の家の鍵を見つけるとさっと取って部屋を出て行こうとした。


「は? あんた、本気で言ってんの?」

「え? 本気も本気ですけど……。もう決まったことですし、さっさと済ませたいじゃないですか」


 決断したあともぐずぐずしがちな秋人とは違って、命はこうと決めたら即動き出すタイプなのだ。


 秋人はベッドから這い出て鍵を奪い返そうとするが、命の方が若干背が高くて手が届かない。


「ふざけんな、返せよ」

「すみません。落ち着いてください、返しますから」


 鍵を奪い返し、命を睨みつけた。命はすっかり委縮していた。そういう態度を見せられると、こちらも緊張してしまう。


「すみません。僕ってば浮かれてしまって……。デリカシーないってよく言われるんですよね、そういえば」

「別に……。俺もだらだらしてるってよく言われたし」


 居心地の悪い沈黙が二人の間に流れる。こういう空気は、おぼれそうな閉塞感があって苦手だった。


「部屋」


 上ずった声が出て、顔がかっと熱くなるのを感じた。声を出すのも苦手なのに、うまく喋れるはずなんかない。


「部屋が、汚いから見せたくなかっただけだ」

「そうだったんですね。でも、僕に気を遣う必要、あります?」


 命をじっと見つめた。へらっと笑う顔はなぜかこちらを苛つかせた。

 そういえば、この男は正義のためでなく自分のために他人の自殺を止めるし、欠片ほどのデリカシーもないし、気を遣っても無駄だった。


「ない、全然なかった。じゃあ、行こうぜ、ついでだから俺の部屋綺麗にしてくれ」

「いいですよ。何なら部屋を引き払うのも僕がやりますから」


 力の抜けた笑顔を崩さず命は言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る