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「秋人さん、今はお仕事されていますか?」
「いいや。今は働いてない」
仕事そのものはしばらく前に辞めていた。昨日は、ちょうど辞めた職場に私物を取りに行った日だった。
大学卒業後に就職をして、営業に配属されたが、すぐに退職した。営業職にも向いていなかったし、会う人会う人に綺麗なものでも見るような目を向けられるのが耐えられなかった。
その後も職種を変えて就職したが、自分を追い込む責任感から逃れることができず、顔のせいでトラブルに巻き込まれ、休職と復職を繰り返し、短期で退職した。
子どものころから意見がなかった。だから普通を目指し、言われたことをやってきた。
高校まではそれでどうにかなったが、大学は難しく、さらに社会に出てからは決定的に躓いた。自力では立ち上がれなかった。病院に行くと、鬱病だと診断された。
命が無職の自分をどう思うのか、それが気がかりで一気に緊張状態に陥った。
無能? 落伍者? 役立たず? 生きる価値がない? 死んでも構わない男でよかった?
果たして、命は何の裏もなさそうに言った。
「そうでしたか。ちょうど家を引き払う手続きもありますし、お時間がありそうでよかったです」
そのまま命の表情を具に観察し続けたが、何も読み取れなかった。
「桜がきれいですね」
命がのんびりとした調子で言った。道の両側には桜並木があり、昨日の大雨に耐えた桜が咲いていた。
「ああ、そうだな」
秋人は無感動に言った。
元から美しい景色に心を動かされにくい質だが、鬱になってからは拍車がかかった。綺麗な景色を見ても心が動くことはない。むしろめぐる季節を見せつけられて、さらに世間に置いて行かれているような気がして、居心地が悪くなった。
命が引き続き桜を眺めているのを横目に、グラスで視界にウィンドウを出し、命の名前をインターネット検索した。
命のことはすぐに調べがついた。彼は、一部の界隈ではかなり有名なアーティストらしかった。ただ、扱っているものが本物の人体であるので、表立ってもてはやされることはないようだ。
命本人が作ったと思しきサイトもあったが、周囲を三百六十度囲むアラウンド型でもなく簡素で古式ゆかしい一枚っぺらのものだった。
有名な美大だという最終学歴だけが書かれた略歴、制作した作品の写真が数枚と、3D標本のサンプルデータ、それから連絡先のメールアドレスが書いてあるだけだ。
他にもインターネット上で情報を探すと、インタビュー記事がいくつか出てきた。インタビューの内容は、なぜプラスティネーション作家になったのか、今回のドイツでの展覧会に出品した作品についての二つが主だったが、秋人は読まなかった。アウトラインを読んだだけで精いっぱいだった。文字の上を視線が滑ってこれ以上文字が読めない。
作品の写真は閲覧注意のワンクッションがあり、見るボタンを選択すると薄くスライスされた人体のプラスティネーション作品が表示された。真っ白なスライスから生前の生々しい色のスライスまでグラデーションになっている。
本当にこんなものが合法なのだろうか? この男は捕まっていないだけの犯罪者ではないだろうか?
内臓の断面図を見つめていると、だんだん気持ち悪くなってきて全てのウィンドウを消した。
「顔色が悪いようですが、何を見ていたんですか?」
「あんたのインタビュー、あと作品写真」
「何か知りたかったんですか? 僕なら隣にいますよ。ご質問をどうぞ、インタビュアーさん」
「じゃあ、聞くけど。あんた、どうしてプラスティネーション作家になったんだ?」
一見すると、かなり浮世離れしている風ではあるが、好き好んで遺体を作品に仕立てる異常者には見えなかった。
それどころか、話してみるとしっかりとした常識を備えた人で、精神的にも落ち着いている。初対面なのに死ぬなら遺体が欲しいと言ってきたのがだんだんと信じられなくなるほどに彼はまともに見える。
作っているもと命自身とのイメージとの乖離が激しく、秋人の中でそれらの結びつきが離れかけていた。
「学生時代の卒業旅行で、友だちとイギリスに行ったんです。その時、プラスティネーションを見たんです。皮膚がすべてはがされて筋肉や腱が露出している二人の男女が嘆き悲しみながら歩く姿――聖書の楽園追放の場面の表現でした。かなり古い作品で、洗練されてはいませんでしたが、確かな美の萌芽を見ました。これだと思いました。ちょうど僕は卒業後の進路が決まっていなかったのでプラスティネーション作家になることに決めました。まずはエンバーミングをやっている会社に就職して勉強して、並行してプラスティネーションの勉強もして、一年ほどで独立しました。今でもエンバーミングをやることもありますよ」
「死体だぜ? 今時、本物の遺体と同じくらいリアルな模型が手に入るだろうに。気持ち悪いとか、怖いとか、思わなかったのか?」
「はい、特に思いませんでした。それよりむしろ、僕なら世界で一番きれいな作品を作ることができると思いました」
「きれい……?」
「秋人さんは、人の遺体を見たことがありますか?」
「あるけど」
母の最期の姿が脳裏によりぎそうになるのを必死で止めた。天井に、壁に、床に、噴き出た血がかかって、濡れた顔に触れると、指先が赤くなっていた。いや、違う。今は濡れていない。秋人が瞬きを繰り返すと、赤い幻は消えた。
「僕は、人が亡くなったあとも、生きていた時のように綺麗なままでいてほしいんだと思います。たぶんね」
肝心なところだけぼやかした言い方だった。聞き出したい気持ちに駆られるが、すぐに諦めた。昨日今日出会ったばかりの人に言えるようなことではないのだろう。
自分だって似たようなものだ。親の話になるとすぐに焦って誤魔化すしかなくなる。家族のことは、何を言っても、どこを切り取っても、綺麗な場所がない。だから、相手を困らせるだけで実りがない。
家族と呼べる人は、両親と姉だった。もう誰もそばにはいない。父は家族を捨てて出て行って、姉も家を出て行った。母は自殺した。
離婚以後、母は壊れてしまった。若いころの輝くような美しさを失い、完璧に思われた夫には浮気される始末。両親とも折り合いが悪く、友人もほとんどいなかった。
矛先が向いたのは秋人だった。母の美しさを吸い取るように秋人は美しくなっていった。それに比例して、母の憎しみも増した。
秋人には靴下一つ買い与えるのを渋るのに、目が飛び出るような値段の化粧品には湯水のごとくに金を突っ込んだ。秋人には冷凍食品を温めるのさえ面倒がるのに、自分のためであればバランスの取れた食事からサプリまで神経質なまでに気を遣った。
秋人がないがしろにされる一方、姉は猫かわいがりされていた。
私の味方は貴方だけと言い聞かされ、執拗な干渉を受けた。姉は居心地が悪そうだった。自分よりかわいくないから、それが母が姉に優しくする理由だった。つまるところ、侮って、そばに置くことで安心していたのだ。姉はそれに気づいていたが、母に反抗することはできなかった。
当然のことだ、母は機嫌が良ければ姉に何でも買い与えたが、少しでも癇に障って激昂すると家の中をめちゃくちゃにして暴言を吐く。秋人は穴の開いた窓ガラスを姉と一緒に段ボールで塞いだこともあった。
姉は高校卒業を待たず家を出て行った。秋人には何の相談もなく、何の前触れもなく。
恋人と一緒に暮らすの、一人にしてごめんね、ばいばい。
それが姉からの最後のメッセージで、それ以降はブロックされてこちらから連絡も取れなかった。
裏切られたショックが半分と、姉が安全な場所へ逃げられた安心感が半分だった。
姉とはいつだって助け合って生きてきた。だから、恨む気にはならなかった。姉はあのまま家に居続けたら、秋人よりも先につぶれてしまっただろうから。
車のミラーに映る自分の顔は相変わらず陰鬱だが、顔立ちは若いころの母と瓜二つだ。この顔を姉に向け続けたことに、罪悪感を覚えずにはいられなかった。
姉がいなくなると、家には母と秋人だけが残された。互いの首を絞め合うように息をしていた。
歳をとって皺が刻まれていても母は美しかったのだが、母が求める美しさは過去の輝きだけだった。
地に根を張るような強さを母は持っていなかった。最も美しい瞬間に茎を切られた花のように、時が経って枯れた。
秋人は自分の顔を好きになれたことはなかった。表情に乏しく、浮かべたとていつもぎこちない。美辞麗句が、視線が、いつだってこの顔に突き刺さった。この顔のせいで母親から疎まれ、唯一の味方だった姉さえ傷つけて、助けるふりをして手を伸ばしてきた大人を誰も信用できなくなった。前髪を伸ばして周囲の視線から逃れようとばかりしてきた。
ミラー越しに命と目が合った。命は目元を和らげ、再び窓の外を眺め始めた。
桜並木はなおも続いていて、風に吹かれるたびに薄紅色の花びらが空を舞っていた。
あの日は雨だったから、前髪がうっとおしくて横に流していたから、変な男に見つかってしまったのかもしれない。
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灰にかえらない 水底 眠 @suiteimin
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