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 リビングルームへと戻ると、命は静かに語り始めた。


「僕はプラスティネーション作家としてたくさんのご遺族から遺体をお預かりし、作品にしてきました。様々なご要望があり、僕は出来る限りそれに応えてきました。

 けれど、僕は、僕だけの理想を追求した作品を作ったこともありません。絵画や彫像では比較的それは叶いやすいでしょう。でも、僕は依頼を受けてからではないと作品は作れません。なおかつ用いるのは人の遺体で、作品の元になる遺体の状況は千差万別です。人は自由に生き方を選べても、死に方を選ぶのは本当に難しい。事件や事故に巻き込まれたり、病気になったり……。

 でも、ある手段を用いれば、確実に綺麗な遺体になることができます。安楽死という手段です」


 命の声は雨音のように自然に秋人の耳に入ってきたが、意味を正確にとらえきれなかった。脳の働きが鈍麻しているのだ。


「秋人さん、あなたは鬱病の診断が下っていて、自殺を企て実行した。ならば、正当な手続きをすれば安楽死が認められる可能性があります。もし命を捨てようとされているなら、僕にあなたの遺体をいただけないでしょうか?」

「安楽死させて、それで綺麗な死体になった俺の体が欲しいのか? いかれてるよ、あんた」


 疲労や冷えのせいか、耳鳴りがし始めた。ざあざあと雨音のようにうるさい。


「まともでない自覚はあります、ですが至って正気です、自分の仕事に誇りもあります」


 こちらを真っすぐに見つめる命の瞳には、燃えるような強い意思が見えた。まぶしくて直視できない。


 意見があるならそれを尊重すべきだ。意見の衝突は回避すべきだ。

 耳鳴りに紛れて心の声が聞こえる。


「あなたが安楽死できるようお手伝いします。そして、僕はあなたの遺体で理想の作品を作る」

「なんで俺なんだよ」

「僕の理想とする顔立ちや体つきに近いと思ったからです」


 嘲りの笑みが自然と口元に浮かんだ。


 要するにこの男は、秋人の美しさに一目ぼれしたに過ぎないのだ。これまで何度も似たようなことがあり、何度も告白された。

 もっとも、命は究極の体目的であって、類を見ないタイプだった。ある意味すがすがしいし、これまで向けられてきた粘ついた欲望よりもさらさらした手触りに感じられた。


 自分の体が燃えて灰になるところを想像すると、激しい忌避感を覚えた。死にたいと思い続けていたが、死後のことは考えもしなかった。


 思い出したくない母の骨の音が、色が、頭の中であふれかえる。箸で掴んだ粉みたいな骨の感触は、今だって手の中に蘇る。

 あんな呆気ない姿になるのは、同じ姿になるのは、どうしても嫌だった。それを振り切るように首を振った。


「自殺を成功させるのは、難しいですよ」


 ダメ押しのように命が言った。


「万一失敗した場合、病院送りになって治療されます。現代医療の力があれば、息さえしていれば、だいたいどんな状態からも立って歩けるようにしてもらえますよ」


 秋人は何も言えなかった。失敗した時のことも考えていなかったからだ。愚鈍な自分が自殺だけはたった一回で成功させられると、どうしてそんな愚かな確信を持っていたのだろう?


「でも、もしも安楽死を選ぶなら、貴方は病院のベッドの上で苦しまずに逝くことができます。薬を過剰摂取したり、身を投げたり、痛みを伴う不確実な方法で命を絶たなくて済みます」

「安楽死……」


 魅力的な響きだった。具体的な死に方は色々と考えてきたが、安楽死は検討したことがなかった。鬱になってからは思考力が低下しており、複雑なことを考える余裕がなかった。


 安楽死は合法だが、申請が手間だと聞いたことがあり、ろくに調べもせず面倒だし大変そうだからと諦めていた。通っていた病院でも医師は安楽死に否定的であることが多く、話すだけ無駄だと思っていた。


 この男はいかれているが、同時に理性的で行動力があるのも事実だった。何よりも、死にたいという気持ちを否定しない。否定されてしかるべき思いを、壊そうとしない。きっと死んだ後にも自分が死んだことを非難することはないだろう。


 それに、どうせ死ぬんだ。死んだ後のことがなんだ。無価値な自分は死んで当然なのだから、死後誰かの役に立てるなら、断るべきではない。


「わかった。別にいいよ、あんたの好きにしろよ」


 耳鳴りが止んだ。目を開けると、命が喜色満面の笑みでこちらを見つめていた。秋人が失って久しい好奇心や純粋な明るさ、それが命の中には溢れんばかりにあった。色あせた世界を生きている人間には眩しすぎるほどに。


「こんなにすぐお返事を貰えると思っていなかったので感激です」


 秋人は危うく舌打ちしかけた。


 そうだった、命は提案をしたが、今すぐ返事が欲しいとは言っていない。勝手に追い込まれた気分になって答えなければいけないと思ったのは自分自身だった。


 だが、もう撤回できなかった。嫌だという気持ちが命の輝く笑顔の前に影に隠れてしまった。もしも嫌だと言ったら、命はきっと心底がっかりするだろう。考えただけで居心地が悪くなる。こうなると、もう言葉が出てこない。いつものことだ。


「詳しいことはまた明日お話しましょう。よかったら泊っていってください」

「で、でも……」

「この大雨で電車も止まっていますし、車の運転も危険です。それに、もう夜ですよ」


 命が時計を指差した。時刻は九時だった。雨は止む気配がなく、引き続き窓を強い雨が叩いている。


「他人の家で落ち着かないかもしれませんが、今日のところは泊っていってください。さて、お風呂を入れますから少し待っていてください」


 言うが早いか、命は部屋を出て行ってしまった。とことん行動が早い質らしい。


 秋人はソファーに沈み込むように座ると、まだ温かいコーヒーカップを取った。あれだけ濁流にのまれることを渇望していた時は遠く、今は手の中にある温もりが心地よかった。

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