第8話 嘘の妙

 幕はまだ下りてもいなければ、そもそも始まってもいなかった。


 静まり返ったプレハブの中で音がしたのだ。シンクに熱湯を流した時に鳴る、ぼこん、という響にもよく似た音が。反射的に冷凍庫に眠り続けるラップ飯のごとく固まった僕を誰が責められよう。金庫の側面がこぶ状に盛り上がれば固まりもする。


「 伏せろ 小金 」

「へ?」


 師匠の声が聞こえた段階では、まだ――それは、転がっていた。

 土俵下に投げられた力士のように横倒しになった金庫が――ごろ、ごろごろ、と。


 その気の抜けた音は序章にして、その不格好な動きは助走に過ぎず。


 伏せろ? そう聞き返そうとした瞬間ときにはもうすでに分厚い金属の塊がナックルボールよりも挙動不審なムーブでこちらへ飛んできていた。


 横向きの縦回転。軌道は直線。時速は? 死――――……


「ぐぇっ」


 なにがなんだかわからぬうちに、僕は地べたに腹を打ち付けていた。


 風が。轟音が。何もかもが混濁し。後ろの壁があっけなく、くの字に凹み。

 ああ。師匠にぶん投げられたのか。なんかすごいことが起こってるなあ。


 そう思った。


 それは悟りだったのかもしれないし、あるいは天から届いた空海の助言だったのかもしれない。みっともなく喉奥の奥から溢れ出たカエルよりもカエルらしい声が、僕にとっての虚空蔵求聞持法だったに違いない。そして、悟った。これは、お経じゃどうにもならんと。


「……師」

「――死んじゃいない。私もお前さんも」


 心配もいらなければ心配もされてなかったようで、ほっと一安心。

 見間違いでなければ、師匠はニヒルに笑っているような気もする。


 右足を前に、下駄と壁に挟み込む形で『動く金庫』を無理やりねじ伏せながら。


「じゃじゃ蛇が。お前さんはもう動けないよ。剛の里でも私を土俵の外に追いやれなかった。おかげで、伊勢の里部屋は永久に出禁さ」


 あれは中学三年の秋だったように思う。酔っぱらった師匠が女人禁制の土俵に下駄で上がり込み、懇意にしている親方との縁を切ってまで横綱と張り合ったのは。


 少年漫画の主人公ならそうすると師匠は嘯いていた。

 少女時代がなかったわけではないらしい。


 でも、なかったことにはしたい。

 そう口にした師匠の横顔を、僕は今でも鮮明に覚えている。


『十五で子供を産んでね。男にゃ逃げられ、両親を頼った。子供のために生きた。娘が孫を見せに来てくれた。お前さんと同じ歳だよ。ここだけの話、ろくでもない私が人生のスタートラインに立てたのは、誰よりもかっこいいばっちゃんになると孫に誓うことができたからさ』


 ――まだ三十半ばだったけどね、女を捨てるには十分な理由だった。


『小金も読んでみな、あの漫画。霊能探偵なんだったか、孫が大好きなんだ』


 きっとあの笑顔に、師匠の『人生これまでもとこれからも』が集約されているのだろう。

 

「外に出てな、小金。ここから先は私の『領域』だ」

「ご武運を」

「運は不要さ。不平だからね。愛のパワーだけが不滅なのさ」


 合気道と古武術の複合技ですよね、確か。前者の定義はパワーに頼らない護身術だったかと。

 僕はよろよろと起き上がり、パーカーの砂埃をパパッと払い、


(くわばら、くわばら)


 ひけた腰で、部屋の外に出た。


 五分後。音がした。工事現場よりもとめどなく響き続ける、金属音が。

 十分は経ったろうか。この近辺の鳥が残らず飛び去った頃に――ガンッ、と、プレハブの扉が蹴り開けられ、


「ってて……面妖なやつだったよ。なんとか、眠らせたが……」


 師匠はよろめいていた。右腕はもっとよろめいていた。

 風にそよぐ枝垂れ柳みたいに、ぷらんぷらん、と。


「し、しし、師匠……腕が」

「お前さんの上着を貸してくれ。それと、頑丈そうな枝を拾ってきてくれるかい?」


 脱ぎたがりのマッチョよりも素早くパーカーを脱ぎ、僕はチーターのごとく駆けた。

 ほどなくして応急処置が済み師匠の右腕は固定された。二人して清酒のコンテナに腰を下ろし、空を見上げる。


「タバコが吸いたいねえ」

「こんなときまで」

「あれが骨折に効く一番の薬なのさ。怪我はなかったかい? 小金」

「はい……僕は」

「そんな顔をするな。お前さんにとっては『日常』のはずだ」


 僕はかぶりを振る。


「ここまで面妖なケースは稀です……」

「ああ。同感さ。だが五色羆事件でさえ日常で片付いた。ヒグマが能動的に十人も人を殺めるなんて荒ぶる霊やら神やらが降りていたとしか説明がつかないってのに」


 それに、と師匠は呟く。


「あの蛇を否定することは、露ヶ玉んとこの嬢ちゃんをも否定することになる」

「僕は、師匠の怪我の心配を……」

「事故だよ。面妖を特別扱いしちゃいけない。受け入れて、何事もなかったように振舞うのが肝要なのさ。でないと、よあきちゃんが心配するからね」


 黙って、頷いた。

 この時ばかりは、孫バカと揶揄する気にもなれなかった。


「ふぅ。転がって跳ねて飛ぶもんだから頑丈な鎖で雁字搦めにしてやったんだがね、身動きが取れないと理解した途端にイビキをかいて眠りやがった。かか。笑えるだろ?」


 ……イビキを?

 確か江戸時代の文献とかに、そんな面妖な蛇がいたようないなかったような。


「師匠、あの蛇って」

「言ったろ。このへんで獲れる蛇はだいたいツチノコだって。嘘でいいのさ。そのほうが都合がいいことだって、世の中には相応にしてあるんだよ」


 それでも気になるものは気になる。高位の霊が降りていたとはいえ、金庫を凹ませ、金庫を動かし、師匠の右腕すら折ったあの蛇は本当にヤマカガシだったのか、と。


 真実は匣の中に。

 引き取るのは学会ではなく、この国に古くから存在する未詳の集団。


(ゴリラもUMAって呼ばれてたんだっけ)


 僕は、ただ青い空の青を眺めた。


 


 帰途。


「ばっちゃんズボラすぎ。明日の朝イチに病院行くとか、まじイミフだし。マーくんも、そう思――うひゃあっ、なんこれ!? 超常現象! 超常現象!」


 下山の途中だった。ヨアちゃまが猿もかくやとばかりに騒ぎ出したのは。アスファルトの道路に蜘蛛の巣状の亀裂が走っている。ガードレールはあらぬ方向へ歪み、コンクリート擁壁には巨人がデコピンでもしたかのようなこぶし大の窪みが鮮明に刻まれていた。


 事故、という言葉では片づけにくい。

 自然災害にしては、局所的すぎる。


 軽自動車が一台なんとか通れるかどうか――そんな有様だった。


 そういえば、師匠が『迎えに行かなかったんじゃない、迎えに行けなかったのさ』とかなんとか言ってたような。もとを正せば、あの面妖な蛇をどうやって金庫に押し込めたのか、その答えが、目の前にあったような気もした。


「あー、そっか。だから昨日、ばっちゃん迂回してたんか」

「迂回?」

「そそそ。もいっこ車が通れる道があるんよね。ここがメインロード。マーくんが歩いてきたのが登山コースで、あと、地元民しか知らない隠しルート的なのが、いっこ」


 むむ……時系列的にもそっちのほうが辻褄が合う。

 あの女狸め。


「お前さんを迎えに行く暇があったら孫を愛でるよ」


 どこからともなく、そんな、師匠の憎たらしい声が聞こえてきたような気がした。



 〆 都市伝説レポート④ ツチノコ

 すべての犬はハイイロオオカミの子孫だという。なら、その辺の藪に、かつて「ツチノコ」と呼ばれた蛇の末裔がいたとしても、なんら不思議ではない。

 ありえない。そう言い切れないのが、師匠の嘘の妙である。

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