第三話

 外へと出たアングレカムを襲ったのは、冷気だった。思わず、自らを抱きしめ、マフラーに顔をうずくめる。

 マフラーに籠っていた体温さえ奪おうとするがごとく、小さな体に凍てつくような冷たさの風が、その小さな四肢に吹きかかる。


 ゴウゴウという風の音が、小さなアングレカムには大きな獣の唸り声に聞こえ、体の底からの恐怖に、微かな呼吸音を漏らす。


 それでも、リリーの事を思って、前へと踏み出した。風が止んできた頃、アングレカムは、マフラーから顔を上げる。

 そして、今まで、想像の中だけの存在でしかなかった空を、眼に映した。


 赤い。血液よりも濃く、鮮やかな空。雲のような黒い物体は、各々好き勝手に渦を巻いている。太陽なのかもしれない白い光以外、空はアングレカムの想像していた空とは、まるで違った。

 絵本の挿絵に描いてあるような空は、綺麗な青色であったというのに、頭上に広がっている空は、おどろおどろしい赤色をしている。見ているだけで、アングレカムの不安は大きくなった。


 ふと、絵本の挿絵には、青々とした草原も描かれていた事をアングレカムは思い出す。

 しかし、足元の地面には、草原どころか、雑草の一株すら生えていない。乾燥した土の色と、空の赤色の混ざった、汚い色の地面がそこにはあった。無論、少しも柔らかくはない。そんな外は、正に「この世の終わり」を象徴している。


 それでも、アングレカムは足を前に進めていく。道中、何かの印の書かれた枯れ木や、誰かが残したのであろう、大部分の破損した車に、何も入っていない学生鞄など、人の通った痕跡を見つける。

 しかし、アングレカムはそれらによそ見する事もなく、ただ前だけを向いて、大地を踏みしめていく。


 そんな時だった。ふと、人が地面に寝ているのを、アングレカムは目撃する。


 うつ伏せで寝ているため顔は分からないが、体格からして、成人男性なのは間違いない。男性の周りには、ボロボロに引き裂かれた鞄と、赤褐色の物が付着した手斧が転がっていた。

 何者かの襲撃に遭った事は明白であるが、そんな事をアングレカムが理解できる訳もない。特に警戒する事もなく、男性に駆け寄っていく。


「ねえ、大丈夫? そんなところで寝たら、怒られるよ」


 心配そうに声をかけたが、男性は答えない。もう一度、今度は声を張り上げてみたが、それでも男性は答えなかった。そんな男性に、少しばかり苛立ったらしい。

 男性のすぐそばに両膝を着けば、男性の体を荒々しく揺する。指先に病的なまでの冷たさが纏わりついた。


「もう、起きてってば!」


 一際大きく揺すれば、男性の顔が見えた。


 否、もはや顔とさえ呼べないだろう。男性の顔は、頭蓋骨ごとくり抜かれたように深く抉れており、もはや巨大な穴のようになっていたからだ。

 まだ多くを知りえないアングレカムからしても、クレヨンで塗り潰されたように黒く見えたであろう。


 何にせよ、幼子が見ていいものではない。


「ひっ……!」


 アングレカムは、反射的に男性から手を離す。そして、上擦った声で、男性に叫ぶ。


「ど、どうなっているの、お顔!? ねえ!!」


 死人に口なし。しかし、それを理解していないアングレカムは、先ほどから一向に答えない男性に、得体のしれない恐怖を覚える。涙さえ溢れてきた頃、やがて、バッと立ち上がった。


「も、もう、知らないから!」


 そう吐き捨てて、踵を返そうとした時だ。


「知ラナイカラ、知ラナイカラ」


 それは、声変わりする前の少年のような、高く透き通るような声。はたまた、ドスの効いた男性のような野太い声。もしくは、可愛らしく弱弱しい乙女のような声。しかしながら、そのどれにも該当しないような声。

 まるで大勢が一斉に喋っているような声の重なりの響きでありながら、抑揚はなく、単調な声が、背後からした。


 アングレカムは、全身の毛穴が開くような、尋常でない焦りに襲われる。そして、急いでその声から離れた。


「な、なに……?」


 振り返って、その声の正体を見た時。アングレカムの目が見開かれ、そのまま凍り付いた。


「ナニ、ナニ」


 端的に言えば、化け物がそこに立っていた。楕円形に膨らんでいる黄色の胴体には、紫色の血管が浮き出ており、ドクドクと脈を打っては生きていることを主張している。

 胴体の、人間ならば首に該当しそうな部分には、花のガクが生えていた。


 そこから、まるで花弁であるとでも言いたげに、人間の腕が数多生えており、その腕の先には、両目を指にぐちゅりと潰されて掴まれている、人間の頭部。

 それを、それぞれの腕が持っている。そんな上半身を、胴体の下から生えている蜘蛛のような無数の足が支えていた。


 そんな形容し難い化け物は、まるで喜びを表現するように花のガクのような首を振り回す。花弁のような腕が右に左に前に奥に揺れた。

 腕に掴まれた頭部達は、どういう原理か口を動かして、先ほどのアングレカムの「なに」という言葉を狂ったように復唱している。


 あまりにもそれは、理解の範疇を超えた生物であった。

 アングレカムはか細い声を漏らす。


「へ……?」


 アングレカムは立ち尽くしていたが、やがてすぐに我に返る。なぜなら、その生物が、こちらへ近づいて来ていたからだ。しかしながら、あまりの未知への恐怖に、アングレカムは走れなかった。


 藁にも縋る思いで、周囲を見渡す。先ほどの男性の私物であろう鞄や、手斧が目に入った。手斧を投げれば効果はありそうであったが、手斧はアングレカムの腰に届く程に大きい。


(……あれは、持てない)


 ふと、アングレカムは、男性のそばに転がっていた鞄を掴めば、大きくを息を吸う。そして、化け物に思い切り投げつけた。

 続いて、管理人から渡されたチョコの子袋でさえ投げる。ボスっ、という柔らかそうな音を立てて、化け物に当たった。


 案の定、化け物に効いている様子はない。アングレカムは絶望したように涙を流した。しかしながら、依然として、楽しげにしながら、化け物はアングレカムに近づいてくる。


 その途中、化け物は、一つだけ、人間の頭を手放した。人間の頭部の落ちる音は、暗に「次はお前だ」と言っているようだ。


「こっち来ないでッ!」


 そう叫べど、化け物の動きは止まらない。


 今まで、アングレカムは死についてしっかりと考えた事はなかった。あまり深く教えられるような事もなかったからだ。

 しかし、この化け物に追いつかれればどうなるか、という最悪な想定をするには、今の状況は十分過ぎるぐらいであった。


 リリーとの日々が、アングレカムの脳内で、まるで走馬灯のように駆け巡っていく。


 初めて出会った日の事、一緒にお絵かきをした事、お菓子を分け合ってお喋りをした事、悪戯をして一緒に怒られた事、くだらない事で喧嘩した事、けれど仲直りした事。


 そして、ずっと友達でいようと約束した事。


 その楽しい思い出は全て、足元から這い上がって来るような生への渇望へと変化を遂げた。


「こっち、来ないで…」


 やがて、アングレカムは、最後の投擲物である手斧を握る。

 幼子にはやはり重いのか、体をふらつかせながらも、投げるための体勢を取る。一つ覚悟をしたように、息を吸う。


「そう、言ってるでしょ!」


 瞬間、投げられた手斧は、軽やかに回転しながら、空中を確かに一直線に切り裂いていく。そして、化け物の黄色い胴体に突き刺さった。


「デショ、デショ、デ……ェ……! デ、ェ゛ェ゛!!」


 響く、絶叫。あまりの絶叫の激しさに、耳を塞ごうとした。

 しかし、手斧が突き刺さった位置から、流血するように、勢いよく紫色の液体が噴き出す。手斧はその勢いに負け、液体と共に、アングレカムに飛んできた。


「っは……!」


 反射的に、アングレカムは寸前のところで手斧を躱す。手斧はそのまま地面に落ちれば、紫色の液体にまみれた。

 一方、化け物はというと、体勢を崩し、地に伏せている。


 よほど攻撃が効いたのか、絶叫が収まれば、後はピクピクと体を死にかけの虫のように震わせるのみだった。

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