名前の距離と、春の道
入学式から一週間が経った。
四月の朝。風はまだ冷たいのに、光だけはしっかり春で。
私はいつものように、校門へ向かう前に麦わら帽子を被った。
今日も、外に出るときは必ず。
これがあると、呼吸がしやすい。
気持ちが落ち着く。
変な話だけど、帽子の縁に守られる気がするのだ。
ただ、それを説明しようと思ったことは一度もない。
説明した瞬間、壊れる気がするから。
*
「おはよー!はねみん!」
大学の正門。
聞き慣れてきた声が近づいてくる。
振り返る前にわかる。
もう、わかるようになってしまった。
「……おはようございます。箱宮さん」
「出た、箱宮さん呼び。超よそよそしい〜!」
「よそよそしくないです」
「いや、めっちゃよそよそしい」
今日も軽快だ。
この一週間、毎日こんな調子だ。
昨日も、講義終わりに自然と一緒に帰った。
その前の日も、そのまた前の日も。
気づけば毎日、みよりと一緒だった。
そんなつもりは、なかったのに。
なんでなんだろう。
考えてもわからなかった。
でも――嫌じゃない。
むしろ、むしろ……
「ということでさ!そろそろさ!」
「……そろそろ?」
「私のことも、あだ名で呼んでくれない?」
「……っ」
唐突に、核心を突いてくる。
「いや、あの……その……」
「箱宮さん呼びって堅いのよ。ビジネスか!」
「そ、そういうつもりじゃ……」
「じゃあみよりで!」
「えっと……」
「あっ。語尾に“さん”禁止ね?」
「えぇ!?無茶苦茶では……」
「なにそれ!?差別じゃん!」
「差別、ではないです……」
「あるよ!さん付け差別!」
「そんなの無いです……!」
みよりは笑って肩を揺らしている。
この一週間でわかったことがある。
彼女は真面目で優しいのに、時々とんでもなく雑だ。
でも、それがなぜか安心する。
妙に落ち着く。
「いいじゃん、呼んでみてよ〜。ほら」
にぃっと笑いながら、目を見てくる。
逃げ場がない。
「…………み、みより、さん」
「ほら!さんついてるじゃん!」
「あっ」
反射だった。
身体が勝手に礼儀正しくなる。
「さん禁止って言ったよね?私、言ったよね?」
「え……い、いや、その、口癖なので……」
「ダメ。はねみんから禁止令出ました」
「出してない!」
「出た出た!」
完全に遊ばれている。
「じゃあ、いくよ?」
なぜか息を飲んだ。
「み、よ、り……」
それは、ほんの少しだけ勇気がいる音だった。
「……ん」
最後の一音が出ない。
喉がひっかかる。
口が拒否する。
“呼んでいいのかな”って、変なためらいが出てくる。
意味はない。
でもある。
すると、
みよりは、少しだけ表情を柔らかくした。
今までより優しい目で。
「ゆっくりでいいよ」
その声が、心に染みた。
涙が出るほどではないけど、
胸の奥がじんわり温かくなるような、そんな。
「急がないし、嫌ならいい。無理してほしくないし」
「……嫌では、ないです」
「じゃあ、そのうちで!」
明るく笑ってくれる。
その笑顔に救われることがあるなんて、知らなかった。
*
その日の昼。
食堂のテラス席で、みよりと並んでお弁当を食べていた。
風が帽子のつばを揺らして、少し眩しい。
「でさー」
みよりが箸を止めて言う。
「やっぱさー、その帽子って絶対意識してるよね?」
「っ……な、何をですか」
「んー、すわすわ?」
心臓が止まりそうになる。
「……っ、違います」
「嘘っぽい!」
「違います!」
「あのね、否定すればするほど怪しいんよ?」
「……」
「絶っ対すわすわ意識してるって!」
なんで、ここまで鋭いんだろう。
なんで、気づいてしまうんだろう。
私がとっさに帽子のつばを握ったのを見て、
「ほら!顔隠すの図星の証拠!」
「ち、違……っ」
「似てるもん!雰囲気とか!」
「似てないです!」
「似てるって!」
「ないです!」
「あるあるあるある」
押し負ける気しかしない。
「すわすわ似のはねみん〜〜〜」
「ゆ、揶揄わないでください……!」
「可愛いから揶揄うんでしょーが!」
可愛い、なんて簡単に言わないでほしい。
慣れてない。
ほんと、慣れてない。
そう思った瞬間。
気づいた。
私は、帽子で顔を隠してた。
「……っ」
私の癖だ。
照れた時は、隠したくなる。
安心するものの陰に逃げる。
それに気付いたみよりが、
「ほんと可愛いわ……」
ぽつり、と呟いた。
その声は揶揄いじゃなくて。
優しかった。
私は、帽子の縁を指ですこし撫でた。
*
その日の帰り道。
また一緒だった。
もう違和感はなかった。
自然だった。
「ねぇ、はねみん」
「なんですか」
「今日さ、喋ってて思ったんだけど」
風が吹く。
帽子が揺れる。
「はねみんって、ほんと真面目で優しいよね」
「優しくないです」
「優しいよ。すぐ否定するけど」
「……否定は癖です」
「うん、知ってる」
歩幅が、自然に揃っていた。
「なんかさ」
みよりが少し照れくさそうに笑う。
「私たち……姉妹みたいじゃない?」
胸がふっと温かくなる。
「あー、でも、私が姉で、はねみんが妹ね」
「……決めるんですね」
「決めますとも!」
「……否定しないです」
「やっぱ妹!」
「ちが……」
「はい妹〜!!」
やかましい。
やかましいけど。
なんか、いい。
なんか、嬉しい。
*
その夜。
帰り道の信号前。
私は思った。
――あ、もう私、
この人のこと、
“親友”って呼んでいいのかもしれない。
なんかそんな気がした。
根拠はない。
でも、心がそう言っていた。
---
みよりと出会って、二週間目の金曜日。
午前の講義を終え、昼の風が吹く。
今日は少し暖かくて、帽子を外したくなるほどだ。
でも私は、いつも通り被っている。
安心できるから。
*
「今日の講義眠かった〜〜〜〜」
芝生のベンチで、隣に腰掛けながらみよりが伸びをする。
「ずっとノート取ってたの、はねみんでしょ。すごいよね……」
「授業ですから」
「はい出た真面目」
「いや、その……」
「褒めてんのに照れるんじゃありません!」
「照れてないです」
「めっちゃ照れてる!」
帽子の縁を触りたくなる。
触れば安心する。
でも触らない。
なんとなく、今日くらいは。
風が吹く。
春の匂いがする。
*
「ねぇさ、はねみん」
「……なんですか」
「ずっと気になってたんだよね」
顔を向けられる。
「何を、ですか」
「どうしてさ」
言葉がふわっと落ちる。
「私のこと、“みより”って呼びづらそうなの?」
「……っ」
身体が硬直する。
「別に、嫌じゃないって言ったけどさ」
「はい……嫌では、ないです」
「でも、なんか違うって顔してたじゃん」
「違う、というか……」
私はうまく言葉にできないものを抱えていた。
理由なんて曖昧で、
でも確かに、胸の奥にずっとあった。
みよりは優しい目で待ってくれていた。
逃げられない。
「……“みより”って呼ぶと」
喉が詰まる。
「なんか、“さん”をつけたくなるんです」
「……あー」
みよりは、すごく腑に落ちた顔をした。
「たぶん、その……礼儀が出てしまうというか」
「うん」
「距離が、ある気がして」
「うん」
「だから、“みより”って呼ぶと……なんか、少しだけ他人に感じるんです」
あまりに正直すぎて、
恥ずかしくて、
でも嘘ではなかった。
沈黙が一瞬落ちて、
みよりがふっと笑う。
「……それ、聞いてよかった」
その声は、本当に優しかった。
「じゃあさ」
目を合わせてきて、
「呼びやすいほうで呼んでよ」
「…………」
「気持ちが近く感じるほうでいい」
「……遠く感じるのは、嫌です」
「私も」
それで決まった。
自然と口を開いていた。
「……みよりん」
それは、柔らかい音だった。
遠慮がなくて、
でも丁寧で、
それでいて近い。
みよりんは目を丸くして――
「……あ」
小さく息を呑み、
「……それ、良すぎじゃない?」
「えっ」
「私それ好き!」
「す、好き……?」
「うん、絶対そっちのほうがいい!」
嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今日からみよりんね!」
「…………はい」
胸の奥がじんと温かくなった。
*
そして、
「じゃあはねみん」
「なんですか」
「次の段階行こ」
「だ、段階!?」
「うん。そう」
にぃっと笑って。
「はねみん、今日から敬語禁止ね」
「……っ」
今度は喉ではなく胸が止まる。
「い、いや……」
「距離、縮めたい」
「……っ」
「私ははねみんと仲良くなりたいから」
軽く言ってるのに、
すごく真剣だった。
「ゆっくりでいいけどさ」
「無理ならいいけどさ」
一拍置いて、
「近くなりたいなって思ってるのは、本当」
風が吹いて、
帽子のつばが揺れる。
私は、指で縁を掴んで――
「……頑張ります」
「頑張らなくていいってば!」
「じゃあ、努力します」
「努力もしなくていい!」
「……えっと」
「うんうん?」
「ゆっくり、やってみる……」
みよりんはそれを聞いて、
「最高」
と笑った。
私の胸は、
少しだけ軽くなっていた。
*
その日の帰り。
横並びで歩きながら、
私はふいに呼んだ。
「……みよりん」
「はーい?」
「ありがとう」
「ん?」
「敬語でも……私のこと、近くに置いてくれて」
「置くよ?」
「え?」
「むしろ今後も置くよ?」
「……っ」
「当然でしょ?」
その声音が嬉しくて、
緊張と安心が入り混じって、
呼吸の仕方が、
少し変わった気がした。
春風と共に、
私の世界が、
また少し広がった気がした。
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揺らぎの季節に はこみや @hako0713
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