名前の距離と、春の道

 入学式から一週間が経った。

 

 四月の朝。風はまだ冷たいのに、光だけはしっかり春で。

 私はいつものように、校門へ向かう前に麦わら帽子を被った。


 今日も、外に出るときは必ず。


 これがあると、呼吸がしやすい。

 気持ちが落ち着く。

 変な話だけど、帽子の縁に守られる気がするのだ。


 ただ、それを説明しようと思ったことは一度もない。


 説明した瞬間、壊れる気がするから。



「おはよー!はねみん!」


 大学の正門。

 聞き慣れてきた声が近づいてくる。


 振り返る前にわかる。

 もう、わかるようになってしまった。


「……おはようございます。箱宮さん」


「出た、箱宮さん呼び。超よそよそしい〜!」


「よそよそしくないです」


「いや、めっちゃよそよそしい」


 今日も軽快だ。


 この一週間、毎日こんな調子だ。

 昨日も、講義終わりに自然と一緒に帰った。

 その前の日も、そのまた前の日も。


 気づけば毎日、みよりと一緒だった。


 そんなつもりは、なかったのに。


 なんでなんだろう。

 考えてもわからなかった。


 でも――嫌じゃない。

 むしろ、むしろ……


「ということでさ!そろそろさ!」


「……そろそろ?」


「私のことも、あだ名で呼んでくれない?」


「……っ」


 唐突に、核心を突いてくる。


「いや、あの……その……」


「箱宮さん呼びって堅いのよ。ビジネスか!」


「そ、そういうつもりじゃ……」


「じゃあみよりで!」


「えっと……」 


「あっ。語尾に“さん”禁止ね?」


「えぇ!?無茶苦茶では……」


「なにそれ!?差別じゃん!」


「差別、ではないです……」


「あるよ!さん付け差別!」


「そんなの無いです……!」


 みよりは笑って肩を揺らしている。


 この一週間でわかったことがある。


 彼女は真面目で優しいのに、時々とんでもなく雑だ。


 でも、それがなぜか安心する。

 妙に落ち着く。


「いいじゃん、呼んでみてよ〜。ほら」


 にぃっと笑いながら、目を見てくる。


 逃げ場がない。


「…………み、みより、さん」


「ほら!さんついてるじゃん!」


「あっ」


 反射だった。


 身体が勝手に礼儀正しくなる。


「さん禁止って言ったよね?私、言ったよね?」


「え……い、いや、その、口癖なので……」


「ダメ。はねみんから禁止令出ました」


「出してない!」


「出た出た!」


 完全に遊ばれている。


 

「じゃあ、いくよ?」


 なぜか息を飲んだ。


「み、よ、り……」


 それは、ほんの少しだけ勇気がいる音だった。


「……ん」


 最後の一音が出ない。


 喉がひっかかる。

 口が拒否する。


 “呼んでいいのかな”って、変なためらいが出てくる。


 意味はない。

 でもある。


 すると、


 みよりは、少しだけ表情を柔らかくした。


 今までより優しい目で。


「ゆっくりでいいよ」


 その声が、心に染みた。


 涙が出るほどではないけど、

 胸の奥がじんわり温かくなるような、そんな。

 


「急がないし、嫌ならいい。無理してほしくないし」


「……嫌では、ないです」


「じゃあ、そのうちで!」


 明るく笑ってくれる。


 その笑顔に救われることがあるなんて、知らなかった。



 その日の昼。


 食堂のテラス席で、みよりと並んでお弁当を食べていた。

 風が帽子のつばを揺らして、少し眩しい。


「でさー」


 みよりが箸を止めて言う。


「やっぱさー、その帽子って絶対意識してるよね?」


「っ……な、何をですか」


「んー、すわすわ?」


 心臓が止まりそうになる。


「……っ、違います」


「嘘っぽい!」


「違います!」


「あのね、否定すればするほど怪しいんよ?」


「……」


「絶っ対すわすわ意識してるって!」


 なんで、ここまで鋭いんだろう。


 なんで、気づいてしまうんだろう。


 私がとっさに帽子のつばを握ったのを見て、


「ほら!顔隠すの図星の証拠!」


「ち、違……っ」


「似てるもん!雰囲気とか!」


「似てないです!」


「似てるって!」


「ないです!」


「あるあるあるある」


 押し負ける気しかしない。


「すわすわ似のはねみん〜〜〜」


「ゆ、揶揄わないでください……!」


「可愛いから揶揄うんでしょーが!」


 可愛い、なんて簡単に言わないでほしい。

 慣れてない。


 ほんと、慣れてない。


 そう思った瞬間。


 気づいた。


 私は、帽子で顔を隠してた。


「……っ」


 私の癖だ。


 照れた時は、隠したくなる。


 安心するものの陰に逃げる。


 それに気付いたみよりが、


「ほんと可愛いわ……」


 ぽつり、と呟いた。


 その声は揶揄いじゃなくて。


 優しかった。


 私は、帽子の縁を指ですこし撫でた。



 その日の帰り道。


 また一緒だった。


 もう違和感はなかった。


 自然だった。


「ねぇ、はねみん」


「なんですか」


「今日さ、喋ってて思ったんだけど」


 風が吹く。

 帽子が揺れる。


「はねみんって、ほんと真面目で優しいよね」


「優しくないです」


「優しいよ。すぐ否定するけど」


「……否定は癖です」


「うん、知ってる」


 歩幅が、自然に揃っていた。


「なんかさ」


 みよりが少し照れくさそうに笑う。


「私たち……姉妹みたいじゃない?」


 胸がふっと温かくなる。


「あー、でも、私が姉で、はねみんが妹ね」


「……決めるんですね」


「決めますとも!」


「……否定しないです」


「やっぱ妹!」


「ちが……」


「はい妹〜!!」


 やかましい。

 やかましいけど。


 なんか、いい。


 なんか、嬉しい。



 その夜。


 帰り道の信号前。


 私は思った。


 ――あ、もう私、


 この人のこと、


 “親友”って呼んでいいのかもしれない。


 なんかそんな気がした。


 根拠はない。


 でも、心がそう言っていた。


---


 みよりと出会って、二週間目の金曜日。

 

 午前の講義を終え、昼の風が吹く。

 今日は少し暖かくて、帽子を外したくなるほどだ。


 でも私は、いつも通り被っている。


 安心できるから。



「今日の講義眠かった〜〜〜〜」


 芝生のベンチで、隣に腰掛けながらみよりが伸びをする。


「ずっとノート取ってたの、はねみんでしょ。すごいよね……」


「授業ですから」


「はい出た真面目」


「いや、その……」


「褒めてんのに照れるんじゃありません!」


「照れてないです」


「めっちゃ照れてる!」


 帽子の縁を触りたくなる。

 触れば安心する。


 でも触らない。


 なんとなく、今日くらいは。


 風が吹く。

 春の匂いがする。



「ねぇさ、はねみん」


「……なんですか」


「ずっと気になってたんだよね」


 顔を向けられる。


「何を、ですか」


「どうしてさ」


 言葉がふわっと落ちる。


「私のこと、“みより”って呼びづらそうなの?」


「……っ」


 身体が硬直する。


「別に、嫌じゃないって言ったけどさ」


「はい……嫌では、ないです」


「でも、なんか違うって顔してたじゃん」


「違う、というか……」


 私はうまく言葉にできないものを抱えていた。


 理由なんて曖昧で、

 でも確かに、胸の奥にずっとあった。


 みよりは優しい目で待ってくれていた。


 逃げられない。


「……“みより”って呼ぶと」


 喉が詰まる。


「なんか、“さん”をつけたくなるんです」


「……あー」


 みよりは、すごく腑に落ちた顔をした。


「たぶん、その……礼儀が出てしまうというか」


「うん」


「距離が、ある気がして」


「うん」


「だから、“みより”って呼ぶと……なんか、少しだけ他人に感じるんです」


 あまりに正直すぎて、

 恥ずかしくて、

 でも嘘ではなかった。


 沈黙が一瞬落ちて、


 みよりがふっと笑う。


「……それ、聞いてよかった」


 その声は、本当に優しかった。


「じゃあさ」


 目を合わせてきて、


「呼びやすいほうで呼んでよ」


「…………」


「気持ちが近く感じるほうでいい」


「……遠く感じるのは、嫌です」


「私も」


 それで決まった。


 自然と口を開いていた。


「……みよりん」


 それは、柔らかい音だった。


 遠慮がなくて、

 でも丁寧で、

 それでいて近い。


 みよりんは目を丸くして――


「……あ」


 小さく息を呑み、


「……それ、良すぎじゃない?」


「えっ」


「私それ好き!」


「す、好き……?」


「うん、絶対そっちのほうがいい!」


 嬉しそうに笑った。


「じゃあ、今日からみよりんね!」


「…………はい」


 胸の奥がじんと温かくなった。



 そして、


「じゃあはねみん」


「なんですか」


「次の段階行こ」


「だ、段階!?」


「うん。そう」


 にぃっと笑って。


「はねみん、今日から敬語禁止ね」


「……っ」


 今度は喉ではなく胸が止まる。


「い、いや……」


「距離、縮めたい」


「……っ」


「私ははねみんと仲良くなりたいから」


 軽く言ってるのに、

 すごく真剣だった。


「ゆっくりでいいけどさ」


「無理ならいいけどさ」


 一拍置いて、


「近くなりたいなって思ってるのは、本当」


 風が吹いて、

 帽子のつばが揺れる。


 私は、指で縁を掴んで――


「……頑張ります」


「頑張らなくていいってば!」


「じゃあ、努力します」


「努力もしなくていい!」


「……えっと」


「うんうん?」


「ゆっくり、やってみる……」


 みよりんはそれを聞いて、


「最高」


 と笑った。


 私の胸は、

 少しだけ軽くなっていた。



 その日の帰り。


 横並びで歩きながら、

 私はふいに呼んだ。


「……みよりん」


「はーい?」


「ありがとう」


「ん?」


「敬語でも……私のこと、近くに置いてくれて」


「置くよ?」


「え?」


「むしろ今後も置くよ?」


「……っ」


「当然でしょ?」


 その声音が嬉しくて、


 緊張と安心が入り混じって、


 呼吸の仕方が、

 少し変わった気がした。


 春風と共に、


 私の世界が、

 また少し広がった気がした。


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揺らぎの季節に はこみや @hako0713

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