揺らぎの季節に

はこみや

麦わら帽子と小さな始まり

四月の朝は、まだ少しひんやりしている。


大学の入学式の日、私は自分の影を見つめながら広い校庭に立っていた。

手に汗を握っているのは、緊張のせいだと思いたかった。だけど本当の理由は、人が多いからだ。


私は知らない人がたくさんいる場所が得意じゃない。

顔を上げると、校門の前には新入生とその家族の波。色、声、匂い、空気、視線…全部が押し寄せてくるようで、胸の奥がざわざわする。


人の多さに圧された私は、つい俯いてしまう。

視界の端に――私の麦わら帽子のつばが映った。


この帽子は、外に出る時に必ず被る。

誰にも言ってないし絶対認めないけど…なんとなく、好きなのだ。

安心するから。

守られてるみたいだから。


でもそのことを言うのは恥ずかしいので、私はいつも否定する準備をしている。


風が吹いて、麦わら帽子が揺れた。

やっぱり落ち着く。


それでも人の多さは変わらない。


「……帰りたい」


小声で呟いたその瞬間だった。


真横から、唐突に、明るい声が飛び込んでくる。


「ねえ、めっちゃ人多くない?」


その声に驚いて顔を上げた私は、そこにいる女の子に目を奪われた。


淡い茶色の髪、目元は優しいが芯の強そうな瞳。

背は私より10センチ以上は高い。

そして、人混みを前にしてもまったく気圧されてない雰囲気。


堂々としていて、きらきらしていて、救われるように見えた。


「……多いです」


気づいたらそう返していた。

自然と。


その瞬間、その子が笑った。


「あー!やっぱ多いよね!よかったー!私だけじゃないじゃん!」


その笑顔が明るくて、なんか、胸が軽くなる。


彼女は人差し指で私を指し、


「麦わらの子、ほんと助かった!ありがとう!」


「ま、麦わらの子……」


「え、かわいいじゃん!似合ってる!」


「に、似合ってないです……!」


否定は反射だ。


だって恥ずかしいから。


本当はこれ気に入ってるなんて――絶対言えない。


彼女はくすっと笑って、私の帽子を軽くつん、と触る。


その仕草が妙に自然で、精巧で、優しくて。

初対面なのに、不思議と嫌じゃなかった。


「私は箱宮みより。よろしく!」


「あ……羽宮ひかりです」


そう言うと、みよりは一拍置いてからニヤッと笑った。


「はねみんだね」


「……へ?」


「羽宮ひかりで、は・ね・みん!」


「いやいやいやいや!それは無いです!」


「いや、ある。今日からはねみん」


「ないです!!」


「あるある。めっちゃある」


軽快すぎる。


けど、嫌じゃない。


むしろ――安心する。


みよりは私の肩をぽん、と叩いた。


「はい、もう親友一歩手前ね」


「はやい!!」


「だってさー」


みよりは空を見上げる。


春の空は、薄い青。


「こうやって出会うことって、奇跡じゃん?」


その言葉がすとん、と心に落ちた。


気付けば頬が緩んで、私は笑っていた。



それからは、みよりが勝手に隣を歩くようになった。


というより――自然に一緒に居るようになった。


講義の教室に行く時、食堂で席を探す時、帰り道。


何かと気付けば横にいる。


「ほら、はねみん行くよー」


「はねみん言わないでください……」


「え?何て呼べばいいの?」


「ひ、ひかりで……」


「なるほど。じゃ、はねみんで」


「違いますよね!?」


なんでだ。


いやほんとになんでだ。



歩いてる時、私が人を避けようとすると


「だいじょーぶ、人は海!私らはサーファー!」


とか意味不明なことを言い出す。


そして勝手に私の背中を押す。


私は抵抗する。


「ちょ、それ怖い怖い!」


「あはは、無害無害!」


「みよりさんの無害って言葉ぜんぜん信用できない!」


「はねみん今日つっこみ冴えてる!」


「つっこんでません!」


「つっこんでるって!」


こんな調子。


……ただ、


楽しい。


大学って、怖い場所だと思ってた。

知らない人がいっぱいで、繋がりもなくて。

ただ広くて、心細いところ。


だけど、


みよりと笑っていたら、


思っていたほど冷たくない場所に見えた。



昼休み、みよりが持っていたお弁当を開きながらつぶやく。


「にしても、帽子めっちゃ似合うよなぁ」


「……似合ってません。恥ずかしいです」


「なんではねみん隠すん?」


「隠してません」


「いや、そういう否定ってだいたい照れ隠しじゃん?」


図星だ。


やかましい。


けど図星。


私は麦わらのつばをちょっといじる。


「好きだけど……」


と言いそうになって、


喉の奥に飲み込んだ。


知られたくない。


馬鹿みたいだから。



ある夕方。


校門近くで、みよりが言った。


「ね、会わせたい人いるんだ」


「えっ?」


その瞬間だけ、みよりの声は少し柔らかかった。


それまでと違って――深い温度があった。


「高校からの幼馴染で、ね……大事な人」


大事な人。


その響きにうまく言えない感情が胸の奥に沈む。


羨ましさなのか、


安心なのか、


よく分からない。


夕方の光が、私たちをオレンジ色に染めていた。


遠くに一人の男の影が見える。


手を振ってこちらへ歩いてくる。


みよりの表情は、そこで初めて――


「女の子じゃない顔」になった。


私は少しだけ、


胸がきゅっとした。


そこで、何かが変わる予感がした。


だけど、その瞬間の私には、


まだ何も分かっていなかった。







━━━━━━━━━━━━━━━━━━


大学の帰り道。

夕方は、人がやっと減ってくる。


私は風に揺れる帽子を押さえながら歩いていた。

麦わら帽子は今日も私の頭に乗っている。

外に出るときは、必ず。


理由なんて聞かれたら、

「なんとなくです」

と答える。

それ以上は言わない。


本当のことを言えば、

恥ずかしい。


子どもっぽい気がするから。


でも、

この帽子を気に入ってるのは事実だ。


だって――


あのキャラクターみたいで。


---


高校生のころ、深夜に動画を漁っていたとき。

偶然出会った。


東方Projectの――

諏訪子。


小さくて、

可愛くて、

無邪気で、

笑うとなんでも許されそうな顔で。


敵意がない。

殺気がない。

ただ愛嬌と、のびのびした自由さ。


そして何より。


あの帽子。


それが、

やけに胸に残った。


ああいう柔らかさに、私は憧れていたのかもしれない。


けれどそれは言わない。


絶対に言わない。


そんなこと話したら、絶対バカみたいだし、

笑われるに決まってる。


……たぶん。


---


「にしてもさー」


突然、横の声。


みよりが私の帽子のてっぺんを軽く押す。


「はねみんの帽子、マジでキャラ立ってるよな」


「ちょ、押さないでください!」


「だって!可愛いんだもん」


その“可愛い”の一言が、

なんだかくすぐったい。


「え、ほんと似合ってると思うよ。癒し系の魔法少女って感じ」


「ま、魔法少女っ!?違いますよね!」


「じゃあ東方のキャラって感じ?」


心臓止まるかと思った。


「え……っ」


「違う?」


私は盛大にうつむいた。


「……っ、違います……絶対違います……」


まさか、当てられるとは…!


みよりは「ふんふん」と頷く。


「いやーそれ、その反応は絶対違わないやつだよ」


「ち、違いますって……!」


「好きなんじゃないの?その感じ」


好きだ。


でも言えない。


言えるはずがない。


私は小声で絞り出す。


「……似合わないですし……」


「似合う似合う!てか、似合わせてる」


「な、なんですかそれ……!」


みよりんは、サラッと胸に刺すことを言う。


容赦がない。

でも、優しい。


---


そのあと、コンビニでアイスを買って一緒に食べた。


気づけば、

朝よりもずっと自然に、

隣を歩いていた。


まるでずっと友達だったみたいに。


なんでこんなに話せるのか分からない。


気づいたら笑って、

気づいたら喋って、

気づいたら距離が近くなっている。


みよりとの時間は、

温度がある。


温かい。

柔らかい。

優しい。


私は――

少し驚きながら、

嬉しくなっていた。


---


その後も何度か一緒に帰った。


講義が終わるたび、気がつくと隣にいる。


誰が決めたわけでもないのに、

一緒にいるのが自然になっていった。


日々の中で、私の麦わら帽子は、

すっかりみよりのネタになった。


「今日も麦わら元気?」

「帽子も連れてきた?」

「麦わら起きてる?」


毎回言ってくる。


毎回困る。


けど、悪くない。


悪くないどころか――


たぶん私は、そのやり取りが好きだ。


---


ひとつだけ知らなかったこと。


みよりには、

大切な人がいるのだということ。


それを私は、

まだ知らない。


それを知ったら、

なにかが変わってしまう。


そんな予感が、

まだ胸の奥で眠っている。



 気がつけば、私とみよりんは、並んで歩くのが自然になっていた。

 入学式の日の、大勢に呑まれた不安なんて、もう遠い昔みたいだ。


 講義が終わると、みよりんは当然のように私の席に寄ってくる。


「はねみーん、今日お昼行く!?」


 そう呼ばれるたび、まだちょっと照れるけれど……悪くない。

 むしろ嬉しいとさえ思ってしまう自分がいる。


 廊下を歩いていると、外のガラス越しに陽が射した。

 私はリュックのポケットから麦わら帽子をそっと取り出す。


「また被るの?暑いから?」


「……ちがう。日差し、強いから」


「ふーん。ねぇねぇ、でもさ、絶対すわすわ(諏訪子)意識してるでしょ?」


 私はずっこけそうになる。


「してない!全然してない!」


「はーい出ました否定〜〜〜」


 みよりんは、わざとらしく笑う。

 ほんとに、この子はなんでこんなに人の心を読むのが上手いの?


 でも、内心は図星だ。


 麦わら帽子は、ただの日除けじゃない。

 昔から、あのキャラクターが好きで、

 あの、蛙みたいなシルエットが可愛くて。


 **――ひそかに、憧れている。**


 でも、人に言うのは違う。

 言ったら、軽く笑われそうで。

 笑われたくないから、ずっと黙っていた。


 だから私は、帽子を深く被るだけにした。


「似合ってるんだから、もっと堂々とすればいいのに」


「……いいの。これはただの帽子だから」


「はいはい、すわすわね。わかりました〜」


「だから違うって言ってるでしょ!」


 みよりんは、いたずらっぽく笑って肩を突いてくる。


「ほんと可愛いよ、はねみんは」


 不意に胸が温かくなる。

 そんなふうに言われたこと、人生でほとんどなかった。


 私はまた帽子のつばを指で触った。

 それだけで安心する。


 みよりんは、飽きもせず隣で喋り続ける。


「だってさ、最初会ったときより、絶対喋るようになったじゃん?はねみん。前はさ〜」


「前は?」


「めっちゃ、静かだった!」


「う……」


「いまは生きてる!って感じ!」


「あのね……私、最初から生きてますけど」


「いやいや、生き返ったの!」


 私は思わず吹き出した。


 おかしい。

 ほんとなのに、面白い。


 いつの間にか、本当に仲良くなってたんだ。


 そんな実感がふわふわ胸に広がる。


 まだ名前の由来を言った覚えはないけど、

 いつの間にか私は、みよりにとって「はねみん」になっていた。


 まるで最初からそうだったみたいに。



 

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