第2話 迷子のケイくん
翌朝、俺を揺り起こしたのは、どこか頼りない鳥のさえずりと、頬を撫でる冷ややかな風だった。
魔法で作った土のシェルターは、一晩中俺を外敵から守り抜いてくれたらしい。恐る恐る体を起こし、周囲を伺う。地平線の彼方から昇る太陽が、見渡す限りの草原を黄金色に染め上げていた。
「……無事、起きられたな。」
その事実に、肺の底から安堵が漏れる。まずは一安心だ。昨晩食べた、あの得体の知れない鳥の肉の影響も今のところはない。
腹痛に怯えながら眠りについたが、俺の胃腸は意外と異世界仕様に適応してくれたようだ。もし今日になって腹が下ったとしても、それはもう明日の俺の責任だと開き直ることにした。
朝食は、昨日の残りの冷え切った鳥の肉だ。パサパサとして、飲み込むたびに喉に引っかかるような不快感がある。それを魔法で出した水と一緒に無理やり流し込む。
「さて、行きますか。目標は文明の香りがする場所、つまり街だ。」
どこにあるかは知らない。だが、何時間か歩けば街道に出るだろうし、そうなれば商人の馬車の一台や二台には出くわすはずだ――そんな、現代日本のゲーム知識に基づいた安易な希望を胸に、俺は歩き出した。
だが、現実は甘くない。
歩き始めて一時間、二時間、そして三時間。周囲の景色は一向に変わらない。緑の海がどこまでも続き、人の気配どころか、道らしきものすら見当たらないのだ。
「くそ、あの適当神……。どうせ飛ばすなら、せめて街の近くにしておけよ。」
誰もいない草原で毒づく。独り言が板についてきた自分が少し悲しい。
さらに歩き続け、足の裏に豆ができ始めた頃、ようやく視界の端に異物が見えた。人だ。それも複人数。
(商人か? それとも……)
期待に胸を膨らませて近づいた俺は、すぐにその期待を後悔へと塗り替えた。
「…………マジか。」
そこにいたのは、きらびやかな商品を積んだ商人などではなかった。泥と血に汚れた、いかつい男たちが三人。一人は地面に座り込み、苦悶の表情で足を押さえている。残りの二人は、ひどく苛立った様子で周囲を警戒していた。
厄介ごとだ。これが創作物なら「行き倒れの美少女」との運命的な出会いになるところだが、現実は残酷である。怪我をしているのは、どこからどう見ても、むさ苦しい野郎の冒険者だった。
俺は足を止める。関わりたくない。それが本音だ。だが、この広大な草原で道を知っているのは彼らしかいない。
名付けるなら、怪我人が冒険者A、その介抱をしているのがB、見張りがCといったところか。
無視して通り過ぎるには、あまりに距離が近すぎた。俺の姿に、見張りのCが気づき、鋭い視線を投げかけてくる。逃げ場はない。俺は勇気を振り絞り、声をかけた。神が「言葉は通じる」と言っていたのを信じるしかない。
「……あの、どうかされましたか?」
介抱していた冒険者Bが、弾かれたように顔を上げた。その目は血走っており、余裕のなさを物語っている。
「あ? 見てわかんねえのか? 仲間の一人が深手を負ったんだよ。見せもんじゃねえ、さっさとどこかへ行きな!」
案の定、拒絶の言葉。だが、俺もここで引き下がるわけにはいかない。
「すみません。実は街を目指しているのですが、道に迷ってしまいまして……。街はあっちの方向で合っていますか?」
俺は、あえて自分が進もうとしていた方向を指さした。もちろん嘘だ。何も知らないが、不審者だと思われないよう「道を覚えられないおっちょこちょい」を演じることにした。幸い、俺の服装は神が用意したこの世界の汎用的な旅装束らしく、奇異な目で見られることはなかった。
冒険者Bは、俺の指した方を見て鼻で笑った。
「はっ、真逆だよ。そっちは魔物の巣窟だ。街はこっちの方向、歩いて一時間もかからねえよ。」
Bが指したのは、俺が進もうとしていた方向とは完全に反対側だった。背筋に冷や汗が流れる。あのまま歩いていたら、今頃どうなっていたか。
「ありがとうございます。助かりました。では、お気をつけて……」
用は済んだ。俺は早々に立ち去ろうとしたが、Bが威圧的な声を上げた。
「おい、タダで道を教えてもらえると思ってんのか? 何か礼はねえのかよ。」
野蛮な言い草だが、ここは大人の対応だ。彼らが水不足で困っているのは、傍らにある空っぽの水筒を見れば察しがついた。
「……水でも出しましょうか? お仲間の傷口も洗い流さないと危ないでしょう。」
「水だと?」
Bが疑わしげな顔をする。俺は無言で手をかざし、魔法をイメージした。
「《ウォーター》」
指先から清らかな水が溢れ出す。Bが差し出した革袋を、あふれんばかりに満たしてやった。
「魔法使いか……。金の方がありがたかったが、確かに水も大事だ。汲みに行く手間が省けた。いいぜ、行きな。」
水筒が満ちるのを見て、少しだけ男たちの顔が和らいだ。感謝された、というよりは「役には立った」という程度の評価だろうが、それでも人との関わりを持てたことに、俺は少しだけ胸を撫で下ろした。
その頃、高次元の領域では、一人の適当な神が退屈しのぎに水晶を眺めていた。
「さて、少し覗いてみようか。」
神の視線は、草原をトボトボと歩くケイの背中を捉えていた。
「ああ、そういえばあそこ、全然説明せずに放り出したんだっけ。まあ、あんなデタラメな魔力を与えたんだから死ぬことはないでしょ。あいつが最初にいた場所、実は結構な魔境だったんだけどね。」
神は独り言を漏らす。ケイが「安全地帯」だと思い込んでいた最初の拠点は、実は強力な魔物が跋扈(ばっこ)するエリアの端だった。それを圧倒的な魔力で焼き払った鳥を食って生き延びたのだから、彼の運命も相当に捻じ曲がっている。
「おっ、門に着いたか。あの門番、今日は機嫌が悪そうだな……。よし、少しだけ意識を弄ってやろう。これくらいはお詫びってことで。」
神は指先を動かし、下界に微かな波動を飛ばした。
「しかし、水を出して感謝されるだけで満足するなんて、やっぱりあいつの魂は面白い。欲望の形が螺旋状にひねくれているというか……。ま、せいぜい頑張ってよ。気が向いたら、無事を祈ってあげるから。」
神の祈り――それは本来、世界の理を書き換えるほどの強力な干渉だが、当の本人はそれを自覚しているのかいないのか、愉快そうに笑い声を響かせていた。
【あとがき】
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