Chapter 10 Infected -感染

第50話 感染通知

 今日は、まるでジェットコースターのような一日だった。


 瞼を閉じると、網膜の裏に鮮やかな青色が蘇る。

 サンシャイン水族館。頭上を飛ぶように泳いでいた『天空のペンギン』たち。

 ガラス一枚隔てた向こう側にあった、優しくて穏やかな世界。

 黒いコートを着た探偵さんと並んで歩いた時間は、夢のようにふわふわとしていて、世界の終わりなんて嘘みたいに思えた。


 そして、奇跡も起きた。

 病院の白いベッドの上で、柳田先生が目を覚ましたのだ。

 弱々しかったけれど、確かに私を呼んでくれた先生の声。

 久我先輩が流した涙と、梓さんの安堵の表情。

 すべてが、「日常」を取り戻すための希望の光に見えた。


 ――けれど。

 夕暮れの病院で、梓さんは震える声で告げたのだ。

 あの呪いの本当の名前。『にくゑ』。

 その名を口にするだけで穢れを招くという、禁忌の神の名を。


 家に帰り、温かい夕食を食べ、お風呂に入って。

 張り詰めていた糸がようやく緩みかけた、その時だった。


『――次のニュースです』


 つけっぱなしのテレビから流れた無機質な音声が、私の淡い希望を粉々に打ち砕いた。


『本日未明から夕方にかけ、池袋周辺で若者の行方不明が相次いでいる件について――』


 プツリ。

 耐えきれず、私はリモコンでテレビの電源を落とした。

 けれど、消えた画面の黒い鏡面に映る私の顔は、恐怖で引きつったままだった。


『行方不明者のスマートフォンには、ある共通のアプリが――』

『通称「にくゑ」若者の間で「願いが叶う」などの都市伝説として――』


 さっき聞いたばかりのアナウンサーの声が、耳にこびりついて離れない。

 画面の隅に映り込んだ、あの赤黒いアイコン。

 じっとりとした嫌な汗が背中を伝う。冷房が効いているはずの自室が、まるで温室のように蒸し暑く感じる。

 私は無意識に自分の二の腕を抱きしめる。この皮膚の下にある肉が、ある日突然、自分の意思とは無関係に別の何かに変質してしまうのではないか。

 そんな根源的な恐怖が、胃の腑に冷たい鉛を落としていく。


 ブヴン。


 不意に、掌のスマートフォンが震えた。


「ひっ……!」


 心臓が跳ね上がり、喉の奥で悲鳴が潰れる。

 まさか。もう、私のスマホにも?

 私は強張った指先で、恐る恐る画面をタップした。暗い部屋の中で、液晶の光が青白く私の顔を照らす。


 通知画面に表示された名前は――『サヤカ』だった。


 ――なーんだ、サヤカか。


 肺の奥に溜まっていた空気が、安堵のため息となって漏れ出した。

 全身に入っていた力が抜け、私はその場にへたり込む。

 なんだか急に、さっきまでの恐怖が馬鹿らしく思えてくる。親友からの、いつもの他愛ない連絡。それが、私をこちらの世界(日常)へと引き戻してくれる命綱だった。


 ロックを解除し、トーク画面を開く。

 そこには、彼女らしいハイテンションな文面が躍っていた。


【ねーねー真弓! 起きてるー?】

【あのね! 例のアプリ、アプデしたらマジ神なんだけど!】

【AIが専用のダイエットアドバイスくれるようになったし! 言われた通りにしたら、なんかお肌とか超ツルツルになったよ! すごくない!? マジおすすめ!】


 ……ダイエットに、お肌、かぁ。


 私は思わず苦笑した。

 世間では行方不明事件だとか「痩せる都市伝説」だとかで大騒ぎしているというのに、私の親友は相変わらず美容に夢中らしい。


「もう、サヤカったら……平和だなぁ」


 呆れを含んだその言葉は、今の私にとって救いそのものだった。

 そうだよ、これが日常なんだ。

 テレビの向こう側の出来事なんて、私たちには関係ない。サヤカの能天気なメッセージが、そう教えてくれている気がした。


【よかったね。でも、あんまり夜更かししちゃだめだよー】


【はーい! おやすみー!】


 可愛らしいスタンプが送られてくる。

 私は安心して、スマホを枕元に置いた。

 サヤカの言った『ダイエット』が何を削ぎ落とすことなのか。『肌がツルツルになった』のが、どういう物理現象の結果なのか。

 今の私には、知る由もなかった。


 ただ、友達の無邪気な笑顔を思い浮かべながら、私は泥のような眠りへと落ちていった。

 その通知が、彼女の肉体が「加工」に適した状態へ変質したことを告げる、出荷完了の合図だとは夢にも思わずに。



 同時刻。池袋。

 真弓が柔らかな布団の中で安堵の息を吐いていたその時。

 矢野梓は、ネオンの光が毒々しく反射するアスファルトの上を、一人、彷徨っていた。


「……っ、どこなの、清音」


 焦燥に駆られた声が、夜の雑踏に溶けていく。

 彼女の右手は、胸元のペンダントトップを強く握りしめていた。それは、かつて清音とペアで買った、安物の銀の指輪だった。冷たい金属の感触だけが、梓を現実に繋ぎ止めている。


 梓は、街に薄らと広がっているにくゑの流れを視る。

 だが、今夜の池袋は異常だった。

 いつもなら血管のように視えるはずのエネルギーの流れが、ドス黒く濁り、ヘドロのように澱んでいる。


「感じる……清音、そこにいるのね。でも、何かがおかしい」


 愛する恋人の気配は、確かにこの街にある。

 だが、それは一点から発されているのではない。まるで薄められた血液が下水道全体に広がってしまったかのように、街の至る所から、微弱な、けれど助けを求めるような波動が滲み出していた。


 ――苦しい。熱い。梓、助けて。


 幻聴かもしれない。けれど、梓の魂には、清音の悲痛な叫びが直接響いてくるようだった。


「待ってて。今、見つけ出すから……!」


 梓は雑踏を掻き分け、走った。

 行き交う人々は皆、スマホの画面を覗き込み、青白い顔でうつむいている。彼らの背後から、目には見えない粘着質な糸が伸び、地下へと繋がっていることに、誰も気づいていない。


 街が、腐り始めている。

 甘ったるい腐臭が、アスファルトの隙間から、マンホールの蓋から、確かに漏れ出していた。

 真弓が平和な夢を見ている間も、都市の地下では、巨大な悪意が静かに、確実に、その根を広げ続けていた。 

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