第49話 にくゑ

「――にくゑ」


 その音が落ちた瞬間。 ざあっと、風が吹いた気がした。

 ただの夜風なのに、肌にまとわりつくような、生温かくて甘い、不快な風。


「それって、あのアプリの……」


「古くは『肉穢』とも、『肉衣』とも書いたと言われています。……あらゆる境界を溶かし、肉を混ぜ合わせ、一つにする神」


「にくゑ……」


 私が反芻すると、梓さんが鋭い目で私を見た。


「むやみに口にしないで。……感応してしまうから」


「あ、ご、ごめんなさい」


「そうか……それが、あのアプリの名前の由来……そんな名前を大々的に広めて……」


 久我さんが、納得したように、しかし深刻な表情で呟いた。 その目には、知的好奇心と恐怖がない交ぜになったような色が浮かんでいる。


「学校がその『にくゑ』の中継点になっていたんです。それを私たちは潰しました。……でも」


 梓さんは、夜空を見上げた。


「名前がアプリとして拡散されている以上、影響は止まらない。……清音は一体何を考えているの……」


 久我さんは顎に手を当てて考え込んだ。


「実は、心当たりがあるんだ」


「えっ?」


 私が声を上げると、久我さんはポケットからスマホを取り出した。


「僕はこのアプリの制作者と、交流があったんだよ。実際にアプリを立ち上げる時に相談を受けたりしてね」


「なっ……!」


 梓さんが驚愕に目を見開く。

 さっきまでの厳粛な空気が、一気に具体的な焦燥感へと変わる。


「知り合いなんですか?」


「ネット上だけの付き合いだよ。僕がオカルト系の記事を書いていた関係でね、取材対象として接触があったんだ。『IM(アイエム)』と名乗っていた」


「IM……」


「都市伝説や民俗学に詳しくてね。色々と意見を聞かれたよ……まさか、彼がこんな危険なものを作っていたなんて」


 久我さんは悔しそうに唇を噛んだ。


「探偵さん、これを」


 久我さんが、IMとのやり取りが残るメッセージ画面を探偵さんに見せる。

 探偵さんは懐から無骨な端末を取り出すと、手早い操作で画面をスキャンした。

 プロジェクションされた空中のキーボードを叩く指が、目にも止まらぬ速さで動く。


「……駄目だね」


 数秒後、探偵さんは首を横に振った。


「何重にもプロキシを経由している。サーバーの痕跡も完全に消去されているよ。このIMという人物、相当な手練れか……あるいは、この世ならざる技術を使っているかだ」


「探偵さんでも、分からないんですか……」


 私が落胆すると、久我さんが立ち上がった。


「なら、僕が追うよ」


「久我さん?」


「IMとのやり取りの中に、ヒントがあるかもしれない。僕は彼のサイトの人気投稿者だしねの。ライターとしてのコネを使って、足取りを追ってみる」


「危険です! 相手は何をしてくるか……」


「それでも!」


 久我さんが、声を荒らげた。

 その形相に、私はびくりと肩を震わせた。


「ごめん……。でも、じっとしていられないんだ。はるかのために、僕ができることはこれくらいしかない」


 その背中は、あまりにも悲痛で、小さく見えた。


「……私が、同行します」


 沈黙を破ったのは、梓さんだった。


「梓さん?」


「相手は『にくゑ』に関わっている可能性がある。一般人の久我さん一人に行かせるわけにはいきません」


 梓さんは真っ直ぐに久我さんを見つめた。


「それに、私も『制作者』には聞きたいことがある。……利害は一致しています」


「……ありがとう。君がいてくれるなら心強いよ」


 久我さんと梓さんが、固い握手を交わす。

 最愛の人を傷つけられた被害者と、それを守ろうとする戦士。

 美しい協力関係に見えた。


「私も! 私も手伝います!」


 私も立ち上がろうとした。

 けれど。


「君は帰りたまえ、ワトソンくん」


 探偵さんの手が、私の肩をぽんと叩いた。


「えっ? どうしてですか、私も――」


「もう夜だ。女子高生がほっつき歩く時間じゃない」


 探偵さんは空を見上げた。

 暗い夜空に、都会の明かりが反射して赤く滲んでいる。


「それに、今日は色々とありすぎた。まずは休むことも仕事のうちだよ」


「で、でも……」


「探偵さんの言う通りだ、真弓ちゃん」


 久我さんも、優しく諭すように言った。


「君を巻き込んだと知ったら、はるかが悲しむ。……ここは、僕たち大人に任せてほしい」


 二人にそう言われては、引き下がるしかなかった。

 私は唇を噛んで、頷いた。


「……分かりました。でも、何か分かったら絶対に教えてくださいね?」


「ああ、約束するよ」


 久我さんは、あの優しい笑顔でそう言った。

 やっぱりちょっと心配だ。

 梓さんと一緒なら、大丈夫だと思うけれど。

 

 すっかり暮れた夜の街。

 病院を後に歩いて行く二人を見送り、

 私は、探偵さんと一緒に家に向かって歩き出したのだった。



 探偵さんは、家の近くの交差点まで送ってくれた。


「それじゃあ、今日はゆっくりお休み。いい夢をね」


「はい。……あの、探偵さん」


「ん?」


「梓さんのこと……お願いします。久我さんも、ちょっと無茶しそうだし」


「そうだね、気をつけてみるよ」


 探偵さんはヒラヒラと手を振ると、夜の闇に溶けるように去っていった。

 その背中が見えなくなるまで見送ってから、私は自宅のドアを開けた。


「ただいまー」


「あら、おかえりなさい真弓」


 リビングから、お母さんの明るい声が聞こえる。

 キッチンからは、出汁のいい匂い。

 水族館でのデート、病院での衝撃、そして『にくゑ』の話。

 目まぐるしい一日だったけれど、この匂いを嗅ぐと、張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じた。


「遅かったじゃない。ご飯、すぐできるわよ」


「うん、ありがとう。着替えてくるね」


 制服を脱いで、部屋着に着替える。

 ベッドにダイブしたい衝動を抑えて、私はリビングに戻った。

 

 テーブルには、肉じゃがと焼き魚、お味噌汁。

 いつもの、平和な食卓。


「いただきます」


「はい、召し上がれ。……そういえば、梓ちゃんは?」


「あー……梓さんは、ちょっと用事があるみたいで」


 まさか「私の先輩と一緒に、呪いのアプリの開発者を追いかけに行きました」なんて言えるはずもない。

 私は曖昧に笑って、肉じゃがを口に運んだ。

 甘じょっぱい味が染みる。おいしい。

 

 柳田先生も、目が覚めた。

 学校の事件も解決した。

 きっと、これから少しずつ、日常が戻ってくるんだ。

 そう信じていた。


 ――その時だった。


『次のニュースです』


 つけっぱなしのテレビから、無機質なアナウンサーの声が流れた。

 画面には「速報」の文字。


『本日未明から夕方にかけ、池袋周辺で若者の行方不明が相次いでいる件について、警視庁は集団失踪事件として捜査を開始しました』


「え……?」


 箸が止まる。

 画面には、見慣れた池袋の街並みが映し出されていた。


『行方不明者は現在確認されているだけで二十名以上。いずれも十代から二十代の若者で、忽然と姿を消しています』


「嫌だわぁ、物騒ねぇ……」


 お母さんが眉をひそめる。

 でも、私はそれどころじゃなかった。

 背筋に、冷たいものが走る。


『現場周辺に争った形跡などはなく、警察は事件と事故の両面で――』


 ニュースキャスターが原稿を読み上げる中、画面が切り替わった。

 専門家による解説フリップだ。

 そこには、行方不明者たちの共通点が記されていた。


『取材によると、行方不明者のスマートフォンには、ある共通のアプリがインストールされていたことが判明しています』


「まさか……」


 心臓が、早鐘を打つ。

 画面に映し出されたのは、赤黒いアイコン。

 歪んだ肉の塊のような、あのマーク。


『通称「にくゑ」と呼ばれるこのアプリ。若者の間で「願いが叶う」「痩せる」などの都市伝説として広まっており――』


 ガタン、と私が立ち上がった音で、お母さんが驚いた顔をする。

 でも、私の耳にはもう何も入ってこなかった。


 学校を潰しただけじゃ、終わっていなかった。

 ううん、むしろ――


「……広がってる」


 私の呟きは、テレビのノイズにかき消された。

 スマホが、ポケットの中で熱を持ったように震えた気がした。

 日常という薄皮一枚の下で、世界はもう、ドロドロに溶け始めていたのだ。



 ◇◇◇

 終焉の探偵、Chapter 8、そして第二部開始です。

 穏やかな日常回から始まる第二部。

 次Chapterから物語は加速していきます。

 池袋感染編、ご期待ください!


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