土佐藩
29年前
近藤長次郎は1838年4月1日土佐(今の高知)高知城下の饅頭屋の息子として生まれ、饅頭を売り歩いていた
幼少期から聡明で、河田小龍の塾に通い、岩崎弥太郎を師事、勉学に励んだ
苗字はなく饅頭屋長次郎とあだ名されていた
土佐藩では上下関係が厳しく長次郎は町商人である為虐げられる事もあった。
ある時上士が歩いてくるのが見え、郷士達は道を譲り敬意を示した。それが土佐藩の身分制度である。
長次郎だけは上士の目の前に立って見せた。
賭け…
殴られるかも知れない。
酷い時は子どもでも切り捨てるのが土佐藩の上士なのだ
周りの郷士達は必死に長次郎に頭を下げろと言い、本人よりも冷や汗をかいたに違いない
すると一人の上士の倅が「饅頭屋!饅頭おくれ!」と足を止めた
長次郎はニコッと笑うと「はいお一つ6文で!」とやり取りをした
この饅頭は1つ4文であったが、2文多くお金をもらい、集計金額から差額を自分の懐にしまった。
だが、この光景をみていたのが上士であった場合饅頭を買った子ども達も咎められるが、長次郎は更に殴られ、蹴飛ばされた
周りに饅頭は飛びちり、踏みつけられた
更にそれをみていた下士の子もいい気味だと誰も手を貸さなかった
「痛ッ」
長次郎は身体についた泥を払い、口の中がきな臭いのを感じ川原まで行き顔を洗った。
悔しさで涙がでたが、顔を川にザバッとつけて両手で頬を覆った
川原の向こう岸に木刀で素振りをしている者がいる
時折『ぎぇーーッ』っと甲高い声を上げている
ああ言うのには関わらないほうが良いと思いながら長次郎は立ち上がり歩き始めた。
『おい!!』その男が声をかける。
無視して歩き続ける。
『お〜い』更に大声で叫んできた
長次郎はピタっと止まると男の方を見て言った。
「饅頭はありません先ほど店じまいしましたんで」
そう言っても男は近づいてきた
背はあるのに背中を丸める様な歩き方をする
目のしたにはクマがあり、異様だ
橋まで行かず、トーン、トーンと軽く石から石を飛びながらこちらに着くとその男は長次郎の目の前に立って丁寧に一礼をした。
「なんちゃあ、饅頭をくれとはゆうちょらん、わしはおまん(お前)のやり方面白いと思っちょった」
「面白い?」
「そうじゃ面白いけんど、アホじゃな」「何ですか?そんな事を言う為にわざわざ…」「ちゃう、おまん、わざと上士の前に立ちよったじゃろわしゃそう言う心がえいとおもぉちょった」
「はぁ」
「わしも身分制度ゆうもんに嫌気がさしちゅういつか見返すつもりで剣の道を極めるとおもぉちょる」
「剣の道」(剣なんか…)この先剣なんか意味が無くなると長次郎は思ったが、この男のただならぬ鋭い目に吸い込まれる様な感覚がした
「貴方は?」「すまんのう名乗るのを忘れた、わしは岡田じゃ、岡田以蔵」「私は長次郎です」「有名人じゃ、ここらへんで知らんもんはいないじゃろ」
長次郎は嬉しかった
「長次郎さん泣く事は恥じちゃ〜いかん堂々と泣いたらえい」
「岡田さんありがとうございます」
「えい、えい、それと長次郎さんわしと確か同じ歳じゃろ、言葉丁寧にしなくてもえいき」
この岡田以蔵は1831年2月14日に生まれている。
「しかし、私は町人…貴方は郷士(下士の違う言い方)では?」
「身分がなんの役に立つ?なんにもならんぜよ」「けんど、町人じゃなんも出来んせめて饅頭を金持ちに高く売る事くらいじゃ、毎日饅頭屋!饅頭屋!と呼ばれちゅう、私は饅頭屋なんて名前じゃぁないせめて苗字が欲しいがぜ」「なるほどえいじゃないかえ、そう言う希望は」
いつの間にか2人は思いをぶつけ合う様になった。
互いに笑い合う事も増えて行った。
しかし、悲劇はまた続く
帰ると父親は泣いていた。「おまん、なんちゅうことをしゆうがぜよ!上士様に!命があるのは容堂公(15代: 山内豊信の号)のお陰じゃぞ」
「許してつかぁさいもう、あんなバカは致しません」
土佐藩では、一人のしでかした事も家族にまで責任を負わせる事もあった。
「打首を覚悟せよと仰せじゃ」
「父上…」
長次郎はこの父親が泣く姿が嫌いであった。
饅頭を作り売る姿こそは尊敬しているが、男子たるもの弱気を息子に晒すとは…情けない
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます