第5話 数字の意味を知ったその日、
視界が戻ったとき、僕は別の場所にいた。
白い部屋ではない。
そこは、教室だった。
見覚えのある教室。僕が通う高校の、三年二組の教室。しかし、何かが違う。窓の外の景色が歪んでいる。空は灰色で、建物の輪郭が揺らいでいる。まるで、水の中から見ているような。
教室には、生徒たちが座っていた。
全員が、手首に数字を光らせている。
そして、全員の顔が、僕だった。
三十人の僕が、それぞれ異なる数字を持って、座っている。
「これは……」
「可能性の教室だよ」
声がした。教壇に、もう一人の僕が立っていた。彼の手首の数字は000000のままだ。
「君が選ばなかった道。君が歩まなかった人生。それらが、ここに集まっている」
教壇の僕が、教室を見回した。
「前列の右端に座っている君は、数字を拒絶した君だ。消灯教に行かず、数字を無視し続けた。その結果、数字は999999まで増え続け、ある日突然、君は消えた」
僕は、その席を見た。そこに座る僕は、虚ろな目をしている。
「中列の中央に座っている君は、二回目の変化で数字を止めた。父親と同じ選択をした。しかし、君が失ったのは夢ではなく、記憶だった。一日ごとに、君の記憶は消えていき、最終的に君は自分の名前さえ忘れた」
その席の僕は、ノートに何かを書き続けている。同じ文字を、何度も何度も。
「後列の左端に座っている君は、綾瀬さんと一緒に原点を目指した。でも、君たちは途中で引き返した。その代償として、君は綾瀬さんの存在を忘れた。そして、綾瀬さんは君の存在を忘れた」
その席の僕は、窓の外を見つめている。探すような目で。何かを、誰かを。
「これらは、全て君なんだ」
教壇の僕が続けた。
「そして、これらの全ての君が、今この瞬間も、別の次元で存在している」
「なぜこんなものを見せる」
「理解させるためだよ。数字の本質を」
教壇の僕が、黒板に何かを書き始めた。
六つの軸。それぞれに、0から9までの目盛り。
「数字は座標だ。六次元空間における、君の魂の位置を示している」
「祖父の仮説と同じだ」
「仮説ではない。事実だ」
彼はチョークを置いた。
「この世界は、六つの軸で構成されている。第一軸は『選択』。君が下した決断の総和。第二軸は『記憶』。君が保持している過去の量。第三軸は『感覚』。君が世界から受け取る情報の質」
彼は続けた。
「第四軸は『関係』。君と他者の繋がりの強度。第五軸は『時間』。君が経験した時間の密度。そして第六軸は『存在』。君が現実に留まる力」
僕は、自分の手首を見た。748295。
「じゃあ、この数字の意味は」
「最初の桁、7は、君の選択軸の位置。二番目の桁、4は、記憶軸の位置。以下同様に、8は感覚軸、2は関係軸、9は時間軸、5は存在軸」
教壇の僕が、僕の手首を指差した。
「そして、数字が変化するということは、君が六次元空間の中で移動しているということだ」
「移動? 自分の意志で?」
「半分は君の意志。半分は消灯教の導き」
彼は教室の生徒たちを見回した。
「全ての可能性の中で、君は今、この座標にいる。でも、選択を変えれば、君は別の座標に移動する。そして、ある座標に到達すると、君は別の教室に移される」
「別の教室?」
「そう。この教室は、まだ序盤の座標にいる者たちの教室だ。でも、ある閾値を超えると、君はもっと深い教室に移される」
彼は窓を指差した。
「あそこに見えるのが、第二教室だ」
窓の外、歪んだ景色の向こうに、もう一つの建物が見えた。それも教室のようだった。しかし、その教室の中にいる人影は、もはや人の形を保っていなかった。
「第二教室に移された者は、人間の形を失い始める。なぜなら、彼らの存在軸が極端に低下するからだ」
「綾瀬さんは」
「彼女は今、第二教室の境界にいる。あと一回、数字が変化すれば、彼女は完全に移行する」
僕は拳を握りしめた。
「彼女を止めたい」
「止められない」
教壇の僕が首を振った。
「彼女は自分の意志で、その道を選んだ。八回の変化を経て、彼女は原点を目指している。君にできることは、彼女を見守ることだけだ」
「そんな……」
「でも」
彼は、僕に近づいた。
「君には、別の役割がある」
「役割?」
「君の数字は、規則性がない。それは偶然ではない。君は、イレギュラーなんだ」
教壇の僕が、僕の肩に手を置いた。
「消灯教のシステムは、完璧ではない。時々、予測不可能な数字が現れる。そして、その数字を持つ者は、システムを破壊する可能性を持っている」
「システムを破壊?」
「あるいは、書き換える。ルールを変える。新しい軸を作る」
彼の目が、鋭く光った。
「君の祖父も、イレギュラーだった。999999という数字は、全ての軸が最大値にある状態だ。そこから、彼は000000に到達した。原点に」
「祖父は、今どこに」
「ここにいる」
教壇の僕が、教室の後ろを指差した。
最後列の中央の席に、老人が座っていた。
祖父だった。
僕が三歳の時に亡くなったはずの、祖父。
しかし、彼は確かにそこにいた。手首には000000の数字が光っている。
「おじいちゃん」
僕は駆け寄った。
祖父は、僕を見上げた。その目には、深い悲しみがあった。
「すまない」
祖父の声は、かすれていた。
「わしが、君を巻き込んだ」
「どういう意味?」
「十二回目の問いのあと、わしの数字は000000になった。わしは原点に原点に到達し、そこで選択を迫られた」
祖父は立ち上がった。
「『このまま消えるか、それとも誰かに継承するか』と」
僕の心臓が跳ねた。
「継承?」
「わしは、消えることを恐れた。だから、未来の血縁者に、わしの役割を継承することを選んだ。その結果、君に数字が現れた」
祖父の手が震えていた。
「君が十七歳になるまで、数字は現れなかった。なぜなら、わしがそう設定したからだ。わしは、君が準備できるまで待とうとした。でも……」
「でも?」
「消灯教が、待ってくれなかった」
祖父は窓を見た。
「消灯教は、変化している。わしが十七歳だった頃よりも、君の父親の十七歳の頃よりも、今の君の方が、はるかに加速したシステムの中にいる」
「なぜ」
「終わりが近いからだ」
教壇の僕が答えた。
「消灯教には、終わりがある。全ての数字が、特定の配置に収束したとき、システムは完成する。そして、何かが起きる」
「何が」
「それは、まだ誰も見ていない」
教壇の僕が、黒板を指差した。
そこには、新しい図が描かれていた。
無数の点が、六次元空間の中で配置されている。そして、それらの点が、ゆっくりと一つの図形に収束していく様子が示されていた。
「これが、消灯教の目的だ。全ての魂を、特定の配置に導くこと」
「なぜそんなことを」
「それは、管理者だけが知っている」
その瞬間、教室が揺れた。
いや、揺れたのではない。教室全体が、別の場所に移動している。
窓の外の景色が変わる。灰色の空が消え、代わりに無数の光が現れた。星のような、しかし星ではない光。それぞれの光が、六桁の数字を表している。
「時間だ」
教壇の僕が言った。
「君は、次の段階に進まなければならない」
教室の生徒たちが、一斉に立ち上がった。全ての僕が、僕を見つめている。
そして、彼らの数字が、一斉に変化し始めた。
様々な数字が、様々な色で、様々な速度で変化していく。
その光景は、圧倒的だった。
「行きなさい」
祖父が言った。
「わしにできなかったことを、君に託す。システムを理解しろ。そして、可能なら、それを止めろ」
「止める? どうやって」
「原点だ。君が000000に到達したとき、君には選択肢が与えられる。継承するか、終わらせるか」
祖父は、僕の手を握った。
「わしは、継承を選んだ。それがわしの過ちだった。きみは、終わらせるんだ」
教室が、崩壊し始めた。
壁が溶け、床が裂け、天井が消えていく。
僕は、暗闇の中に落ちていく。
しかし、落ちながらも、僕の手首の数字は光っていた。
748295が、748296に変化していく。
五回目の変化。
そして、僕は理解した。
五回変化した者には、選択肢が与えられる。
進むか、退くか。
暗闇の中で、二つの光が現れた。
一つは青い光。もう一つは赤い光。
青い光の方には、階段が見えた。上へ続く階段。地上へ戻る道。
赤い光の方には、扉が見えた。さらに深く、地下五階への扉。
「選びなさい」
声が響いた。
消灯教の、あの声。
「青い光を選べば、君は地上に戻れる。数字は止まり、君は普通の人生を送れる。しかし、失ったものは戻らない」
「赤い光を選べば、君は深淵に進む。そこには、全ての答えがある。しかし、代償も大きい」
僕は、二つの光を見比べた。
青い光の向こうには、母の顔が見えた。泣いている母。
赤い光の向こうには、綾瀬さんの姿が見えた。一人で歩いている綾瀬さん。
僕は、選択した。
(続く)
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