第4話 地下四階へ降りたその日、

 街を走る間、僕の手首の数字は規則的に脈打っていた。


 まるで心臓のように。あるいは、何かのカウントダウンのように。


 748294の光が、街灯の光よりも強く、僕の進む道を照らしている。人々は僕を避けて通る。手首の光を見て、目を逸らす。彼らは知っているのだ。数字を持つ者が、何に向かっているのかを。


 北側の廃ビルに到着したとき、時計は午後八時を指していた。


 ビルの周囲には、僕以外にも何人かの人影があった。みな、袖をまくり上げている。手首には、様々な色の数字が光っている。


 青、赤、緑、黄、紫。


 そして、誰もが同じ方向を見つめていた。地下への入口を。


「初めて見る顔だね」


 隣に立っていた男性が話しかけてきた。三十代くらいだろうか。彼の手首には、456789という数字が、淡い緑色で光っていた。


「今日、三回目の変化を?」


「ええ」


「そうか。じゃあ、君も行くんだね。地下四階に」


 男性の声には、奇妙な諦めが混じっていた。


「あなたも?」


「いや、俺はまだ二回だけだ。でも、今夜中に三回目が来る予感がする」


 彼は自分の手首を見つめた。


「数字が熱い。変化の前兆だ。あと一時間もすれば、俺も資格を得る」


「地下四階に、何があるんですか」


「さあね。行った奴は誰も戻ってこないから」


 僕は息を呑んだ。


「戻ってこない?」


「ああ。地下四階に降りた者は、二度とこの場所に現れない。消えるのか、別の場所に行くのか、それとも……」


 男性は言葉を切った。


「とにかく、俺たちには分からない。でも、行かなければならない。数字が、そう命じている」


 彼はポケットから煙草を取り出し、火をつけようとした。しかし、ライターの火が点かない。何度試しても、火花は散るが炎にならない。


「おかしいな。新しいライターなのに」


「この場所では、火が点きにくいんですよ」


 別の声がした。


 振り向くと、若い女性が立っていた。二十代前半くらい。彼女の手首には、333333という数字が、濃い赤色で光っていた。


「同じ数字が並ぶタイプですか」


 僕が言うと、彼女は頷いた。


「レアケースらしいわ。でも、だからといって特別なわけじゃない。みんな同じ。消灯教に呼ばれ、変化を重ね、そして最後には地下四階に行く」


「あなたは、何回変化したんですか」


「今日で四回目」


 彼女は淡々と答えた。


「もうすぐ五回目が来る。そうしたら、私はある決断をしなければならない」


「決断?」


「五回変化した者には、選択肢が与えられる。そう聞いた」


 彼女は、ビルの入口を見つめた。


「進むか、退くか。でも、退いた者がどうなるのかは、誰も知らない」


 僕は、父のことを思い出した。数字を止めた父。その代償として、夢を見る能力を失った父。


「数字を止めるのは、退くことなんですか」


「それは別。数字を止めるのは、ゲームから降りること。でも、六回目の選択は、ゲームの中での分岐点」


 女性は、僕の手首を見た。


「あなたの数字、変わった配列ね。規則性が見えない」


「そうなんですか」


「ええ。でも、だからこそ興味深い。規則性のない数字を持つ者は、予測不可能な変化をするって言われてる」


 彼女は微笑んだ。その笑顔には、どこか狂気の影が差していた


「楽しみね。あなたが地下四階で何を見るのか」


 その時、ビルの入口から、誰かが出てきた。


 いや、「出てきた」というより、「吐き出された」という表現が正しい。


 人影が、階段の闇から転がり出てきた。


 僕たちは駆け寄った。


 それは、男子高校生だった。制服を着ている。しかし、その顔は蒼白で、目は虚ろだった。


 そして、彼の両手首には、数字がなかった。


「おい、大丈夫か」


 緑色の数字を持つ男性が、彼を抱き起こした。


 高校生は、何かを言おうとした。しかし、口から出てきたのは言葉ではなく、黒い液体だった。


 その液体は、地面に落ちると、すぐに蒸発した。そして、蒸発する瞬間、僕には見えた。その液体の中に、無数の数字が浮かんでいるのが。


「これは……」


「数字を吐き出している」


 赤い数字の女性が言った。


「彼は、拒絶されたのよ。地下四階に」


「拒絶?」


「条件を満たしていると思って降りたけど、実際には満たしていなかった。あるいは、扉を開ける鍵を持っていなかった」


 女性は、高校生から目を逸らした。


「拒絶された者は、数字を失う。そして……」


 高校生の体が、透明になり始めた。


 足元から、ゆっくりと。


「消える」


 僕たちは、ただそれを見ることしかできなかった。


 高校生は、最後まで何も言わなかった。ただ、虚ろな目で僕たちを見つめていた。そして、完全に消えた。


 地面には、何も残っていなかった。


「行こう」


 緑色の数字の男性が言った。


「時間が迫っている」


 彼は階段へ向かった。赤い数字の女性も続いた。


 僕も、彼らの後に続いた。


 階段を降りる。地下一階、地下二階、地下三階。


 地下三階の扉の前で、男性が立ち止まった。


「ここからは、三回変化した者しか進めない」


 彼は自分の手首を見た。456789が、456790に変わっていた。


「来た。三回目だ」


 扉が、ひとりでに開いた。


 中は、いつもの広大な空間。無数の蝋燭。


 しかし、今日は何かが違った。


 蝋燭の配置が、明確な図形を描いている。六角形、あるいは六次元的な立体構造。その中心に、何かが浮かんでいた。


 黒い球体。


 直径は二メートルほど。表面は完全に滑らかで、光を一切反射しない。


「あれが、地下四階への入口か」


 男性が呟いた。


 僕たちは、その球体に近づいた。


 球体の表面には、無数の数字が流れていた。六桁の数字が、絶え間なく変化している。まるで、すべての可能な組み合わせを表示しているかのように。


「鍵を持っているか」


 赤い数字の女性が僕に尋ねた。


 僕は、ポケットから祖父の鍵を取り出した。


 それを見た瞬間、女性の目が見開かれた。


「それ、初代の鍵じゃない」


「初代?」


「消灯教が始まった時から存在する、七つの鍵の一つ。それを持っている者は、特別な権限を持つ」


 僕は鍵を見つめた。古びた、何の変哲もない鍵に見える。


「どうやって使うんですか」


「球体に触れて、数字を唱える」


「数字?」


「あなたの数字よ」


 僕は、球体に手を伸ばした。


 表面に触れる。


 冷たい。しかし、触れた瞬間、鍵が熱を持ち始めた。


「748294」


 僕は自分の数字を唱えた。


 球体が反応した。


 表面の数字の流れが止まり、一つの数字に固定された。


 748294。


 そして、球体の中心に、穴が開いた。


 直径一メートルほどの、完全な円。


 その向こうには、階段が見えた。下へ、下へと続く階段。


「開いた」


 緑の数字の男性が息を呑んだ。


 僕は、階段に足を踏み入れた。


 その瞬間、背後で女性の声がした。


「待って」


 振り返ると、赤い数字の女性が立っていた。


「一つだけ、教えておく。地下四階には、『管理者』がいる」


「管理者?」


「消灯教を作った存在。あるいは、消灯教そのものと言ってもいい。その存在は、全ての数字を統括している」


 女性の声が震えた。


「そして、原点に到達した者を、選別する」


「選別?」


「合格者と不合格者に。合格者は、次の段階へ進める。不合格者は……」


 彼女は言葉を切った。


「とにかく、気をつけて。管理者は、私たちが想像する存在ではないから」


 僕は頷き、階段を降り始めた。


 背後で、球体の穴が閉じる音がした。


 もう、戻れない。


 階段は、予想以上に長かった。


 五十段、百段、二百段。


 数えるのを諦めた頃、ようやく下に光が見えた。


 地下四階。


 最後の段を降りる。


 そこは、今までとはまったく異なる空間だった。


 白い。すべてが白い。


 壁も、床も、天井も。蝋燭はない。しかし、空間全体が均一に発光している。


 そして、中央に、一つの椅子があった。


 その椅子に、誰かが座っていた。


 背を向けている。


 僕は、ゆっくりと近づいた。


「よく来たね」


 声がした。


 聞き覚えのある声。


 その人物が振り返った。


 僕は、凍りついた。


 そこにいたのは、僕自身だった。


 同じ顔。同じ体格。同じ制服。


 しかし、その手首には、000000という数字が光っていた。


「驚いた? でも、これが真実だよ」


 もう一人の僕が微笑んだ。


「君は、まだ理解していない。数字が何を意味するのかを」


「お前は誰だ」


「君だよ。正確には、君が原点に到達した時の姿」


 もう一人の僕が立ち上がった。


「そして、君が今いるこの場所は、時間軸を超えた空間だ。過去と未来が、同時に存在している」


 僕の手首の数字が、激しく明滅し始めた。


 748294が、748295へ。


 四回目の変化。


「君の旅は、まだ始まったばかりだ」


 もう一人の僕が、僕の肩に手を置いた。


 その瞬間、僕の視界が爆発した。


(続く)

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