第6話 図書館へと至ったその日、
僕は、赤い光に手を伸ばした。
その瞬間、青い光が消えた。いや、消えたのではない。遠ざかっていった。母の顔が小さくなり、やがて点になり、最後には無になった。
赤い扉が開く。
その向こうには、螺旋階段があった。下へ、下へと続く階段。しかし、この階段は今までのものとは違った。段そのものが呼吸をしているように、膨らんだり縮んだりしている。
踏み出す。
最初の一段を降りた瞬間、僕の手首の数字が熱を持った。
748296の「6」が激しく明滅する。
「存在軸が、揺らいでいる」
声がした。しかし、それは消灯教の声ではなく、僕自身の声だった。僕の口から、言葉が勝手に溢れ出してくる。
「第六軸、存在の強度。この数字が進むにつれ、存在が現実から剥離する」
僕は自分の手を見た。輪郭が、わずかに透けている。
階段を降り続ける。
十段、二十段、三十段。
段を降りるごとに、僕の体はより透明になっていく。同時に、周囲の景色が鮮明になっていく。階段の壁に、無数の文字が浮かび上がってきた。
それは、名前だった。
人の名前。日本人の名前もあれば、外国人の名前もある。そして、それぞれの名前の横に、六桁の数字が記されている。
田中太郎 - 621849
Smith John - 472836
李明 - 938274
名前と数字が、壁一面を覆っている。何千、何万という名前。
「これは……」
「記録だよ」
声がした。
振り向くと、そこに誰かが立っていた。
ローブを着た人物。顔は影で隠れていて見えない。しかし、その手首には、111111という数字が光っていた。
「お母さん?」
「違う。でも、同じ数字を持つ者だ」
ローブの人物が言った。その声は、男性でも女性でもない。あるいは、両方であるかのような。
「同じ数字を持つ者は、同じ属性を持つ。君のお母さんと私は、第二軸『記憶』において、同じ位置にいる」
「記憶?」
「すべての桁が1という数字は、各軸の最小値の次の値だ。つまり、ほとんど原点に近いが、わずかに離れている。その状態は、記憶の始まりを意味する」
ローブの人物が、壁の名前を撫でた。
「ここに記された者たちは、全て消灯教を訪れた者だ。過去、現在、未来の区別なく」
「未来?」
「時間は、第五軸だ。この空間では、過去と未来は同時に存在している」
人物は、壁のある場所を指差した。
そこには、僕の名前があった。
×××× ××× - 748296
そして、その下に、別の行があった。
×××× ××× - 000000
「これは……」
「君の未来だ。君が原点に到達した時の記録。それは、すでにここに刻まれている」
僕は息を呑んだ。
「じゃあ、僕の選択は最初から決まっていたのか」
「いいや。これは可能性だ。君が原点に到達する可能性が、記録として存在している。でも、その可能性が実現するかどうかは、君次第だ」
ローブの人物が、階段の先を指差した。
「進みなさい。地下五階には、『記録者』がいる」
「記録者?」
「消灯教の三つの柱の一つ。『管理者』が全体を統括し、『導き手』が個々を誘導し、『記録者』がすべてを記録する」
人物は、自分の胸に手を当てた。
「私は、導き手の末端だ。君を、次の段階へ導く役割を持つ」
「導き手は、何人いるのか」
「分からない。私たちは、互いを認識できない。ただ、同じ目的のために動いている」
ローブの人物が消えかけた。いや、薄れていった。
「待って、もっと教えてくれ」
「これ以上は、記録者に聞きなさい。私の役割は、ここまでだ」
人物が完全に消える前に、最後の言葉を残した。
「君の母親は、まだ選択をしていない。彼女の数字が111111に戻ったのは、システムが彼女に再選択の機会を与えたからだ。君が原点に到達する前に、彼女は決断する必要がある」
「お母さんの決断って……」
しかし、人物はすでに消えていた。
僕は、階段を降り続けた。
段数を数えることは、とうに諦めていた。ただ、下へ、下へ。
やがて、階段が終わった。
そこには、巨大な扉があった。
今までの扉とは違う。この扉は、有機的だった。まるで生きているかのように脈打っている。表面には、無数の目のようなものが開閉を繰り返していた。
扉の中央に、鍵穴があった。
僕は、祖父の鍵を取り出した。
鍵を鍵穴に差し込む。
扉が、悲鳴のような音を立てて開いた。
地下五階。
そこは、図書館だった。
天井まで届く本棚が、無限に続いている。いや、天井は見えない。本棚は上へ、上へと伸びている。そして、それぞれの本棚には、無数の本が収められている。
しかし、本ではなかった。
近づいて見ると、それは人だった。
本の形をした人。あるいは、人の形をした本。
それぞれの背表紙には、名前と数字が記されている。
僕は、一冊を手に取った。
綾瀬美咲 - 000001
それは、綾瀬さんの「本」だった。
ページを開く。
そこには、綾瀬さんの人生が記されていた。文字ではなく、映像のように。ページの中で、綾瀬さんが動いている。
彼女が生まれた瞬間。初めて歩いた日。初めて学校に行った日。そして、数字が現れた日。
ページをめくるごとに、彼女の人生が進んでいく。
消灯教を訪れる綾瀬さん。変化を重ねる綾瀬さん。そして、視覚を失う綾瀬さん。
最後のページには、彼女が地下四階の白い部屋にいる光景が映っていた。
しかし、そのページの先は、白紙だった。
「まだ書かれていない未来だ」
声がした。
振り向くと、そこに少女が立っていた。
十歳くらいだろうか。白いワンピースを着ている。しかし、その目は老人のように深かった。
そして、彼女の手首には、数字がなかった。
「君が、記録者?」
「そう。私は、すべてを記録する」
少女が、図書館を見回した。
「この図書館には、数字を持ったすべての者の記録がある。過去から未来まで、すべて」
「じゃあ、僕の記録も」
「ある。でも、まだ完成していない」
少女は、図書館の奥を指差した。
「君の本は、あそこにある。ここは未完成の本が置かれている場所だ」
僕は、その方向へ歩き出した。
しかし、少女が僕の腕を掴んだ。
「待って。その前に、君に見せたいものがある」
彼女は、別の本棚へ僕を案内した。
そこには、一冊の分厚い本があった。他の本よりも、明らかに大きい。
消灯教 - ∞
「これは?」
「消灯教そのものの記録。始まりから、終わりまで」
少女は、その本を開いた。
最初のページには、一つの光景が描かれていた。
古代。まだ文明が始まる前。
一人の人間が、夜空を見上げている。そして、彼の手首に、最初の数字が現れる。
100000
「消灯教は、数千年前に始まった。最初の数字を持つ者が現れた時、世界は変化し始めた」
ページをめくる。
数字を持つ者が増えていく。そして、彼らは気づく。数字には意味があることに。
「彼らは、数字を研究した。そして、ある法則を発見した。数字は、魂の位置を示している」
さらにページをめくる。
数字を持つ者たちが集まり、組織を作る。それが、消灯教の始まりだった。
「最初、消灯教は救済の組織だった。数字を持つ者を導き、苦しみから解放するために」
少女の声が、わずかに震えた。
「でも、途中から目的が変わった」
ページの光景が暗くなる。
消灯教の内部で、争いが起きている。数字を統制しようとする者たちと、自由にすべきだと主張する者たち。
「争いの末、統制派が勝った。そして、彼らは消灯教を、現在のシステムに変えた」
「なぜ」
「彼らは、発見したんだ。すべての数字が特定の配置に収束したとき、何かが起きることを」
少女は、本の最後のページを開いた。
そこには、未完成の絵があった。
無数の光が、一つの点に集まっている。しかし、その点の先は、描かれていない。
「これが、消灯教の最終目的。すべての魂を、原点に集めること」
「そうすると、何が起きる」
「分からない。記録者である私も、その先は見えない。なぜなら、それは未だ起きていないことだから」
少女は、本を閉じた。
「でも、一つだけ確かなことがある。原点に最初に到達した者が、すべてを決める」
僕は、自分の手首を見た。748296。
「僕が、最初に到達する可能性があるのか」
「ある。君の祖父は、000000に到達したが、選択を保留した。継承という形で。だから、君が最初の決定者になる可能性がある」
少女が、僕の目を見つめた。
「でも、綾瀬美咲も、同時に原点に近づいている。彼女の数字は000001。あと一回の変化で、彼女は原点に到達する」
「彼女を止められるのか」
「止める必要はない。君と彼女、どちらが先に決定するかが問題なんだ」
少女は、図書館の中央を指差した。
そこには、巨大な時計があった。しかし、普通の時計ではない。六つの針が、それぞれ異なる速度で回っている。
「あれが、収束時計。すべての数字が原点に収束するまでの時間を示している」
時計の針が、ゆっくりと動いている。
そして、その針は、ある位置に近づいていた。
「残り時間は、あとわずか」
少女が言った。
「君は、急がなければならない」
僕は、綾瀬さんの本を見た。
「彼女に、会える方法はあるか」
「ある。でも、リスクが高い」
少女は、図書館の最奥を指差した。
「あそこに、『交差点』がある。異なる座標にいる者同士が出会える場所」
「そこに行けば、綾瀬さんに会える?」
「会えるかもしれない。でも、交差点では、時間と空間が歪んでいる。下手をすると、君は迷い込んで戻れなくなる」
僕は、決心した。
「行く」
少女は、悲しそうに微笑んだ。
「そう。じゃあ、一つだけアドバイスを」
彼女は、僕の手首に触れた。
「数字は、君を縛るものじゃない。君が数字を使うんだ。それを忘れないで」
少女の姿が、薄れていく。
「記録者は、ここにいる。君が戻ってきたとき、私は君の本を完成させる。ハッピーエンドになるか、バッドエンドになるかは、君次第」
少女が消えた。
僕は、図書館の奥へ走った。
そこには、渦巻く光の壁があった。
交差点。
僕は、その中に飛び込んだ。
(続く)
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