第3話 祖父の遺品を目にしたその日、

 父の告白は、予想していたものとは違った。


「俺の数字は、800000だった」


 父は自分の右手首を見つめながら言った。そこには何も見えない。少なくとも、僕の目には。


「完全にゼロが五つ並んだ数字を持つ者は、稀だと言われていた。俺が十七歳の時、この数字が現れた。当時は、今ほど数字を持つ者が多くなかった」


「今の方が多いの?」


「ああ。二十年前、俺の世代では、一学年に一人か二人だった。でも今は、一クラスに三人、四人いる」


 母が口を開いた。


「増えてるのよ。数字を持つ者が。理由は誰も分からない」


 母の声は、どこか遠くを見ているようだった。彼女の手首の光は、まだ袖の下で微かに脈打っている。


「お母さんも、数字を?」


 母は頷いた。ゆっくりと袖をまくり上げる。


 そこには、深い赤色に光る数字があった。111111。


「同じ数字が六つ並ぶのも、珍しいパターンだと言われた」


 僕は両親の数字と、自分の数字を見比べた。748293。規則性は見当たらない。


「数字に、遺伝的な法則はないの?」


「ないと言われている。でも、血縁者間で同時期に発現する傾向は確かにある」


 父が続けた。


「俺がお前の年齢だった時、俺の父も数字を持っていた。お前の祖父だ」


「おじいちゃんも?」


 僕は祖父のことをほとんど知らない。僕が三歳の時に亡くなっていて、記憶にあるのは葬式の断片的な光景だけだ。


「祖父の数字は、999999だった」


 母が息を呑む音が聞こえた。


「それは……」


「ああ。最大値だ。六桁全てが9。そういう数字を持つ者は、極めて少ない」


 父の顔が、さらに曇る。


「祖父は、その数字について何も語らなかった。ただ、俺が十七歳になり数字が現れた時、一度だけこう言った。『消灯教に行くな。あそこは人を食う』」


「人を食う?」


「比喩だと思っていた。でも今は、別の意味があったのかもしれないと思っている」


 父は立ち上がり、書斎から古い箱を持ってきた。木製の小箱で、表面には複雑な模様が彫られている。よく見ると、その模様は数字の集合体だった。無数の六桁の数字が、螺旋状に配置されている。


「これは?」


「祖父の遺品。祖父が死ぬ前日、俺に託された」


 父は箱を開けた。


 中には、古びたノートと小さな鍵、そして黒い石のようなものが収められていた。石は、手のひらに収まるサイズで、表面に999999という数字が刻まれている。


「祖父は、この箱を開ける時、必ず一人でいろと言った。でも今日、お前に見せる必要があると判断した」


 父はノートを取り出した。ページを開くと、そこには几帳面な文字で、大量の記録が書かれていた。


 消灯教訪問記録


 第一回 - 問い:「数字の起源は何か」- 回答:「お前自身だ」- 失ったもの:嗅覚


 第二回 - 問い:「なぜ俺は最大値を持つのか」- 回答:「終わりを見るためだ」- 失ったもの:左手の感覚


 第三回 - 問い:「終わりとは何か」- 回答:得られず - 失ったもの:色の認識


 記録は続いている。第四回、第五回、第六回。祖父は計十二回、消灯教を訪れていた。


 そして、最後のページには、震える文字でこう書かれていた。


 第十二回 - 問い:「私の数字を消すことはできるか」- 回答:「できる。ただし、お前の存在と引き換えに」


 私は拒否した。しかし、数字は変化した。999999から、000000へ。


 ゼロになった瞬間、私は理解した。数字はカウントダウンではない。カウントアップでもない。それは、位置を示している。


 六次元座標系における、私たちの魂の配置を。


 そして、消灯教は、その座標を操作する装置なのだ。


 僕は息を止めた。


「六次元座標系?」


 父は頷いた。


「祖父の仮説だ。俺には理解できなかった。でも、祖父は死ぬ前、こうも言っていた。『数字が全てゼロになった者は、原点に戻る。そして、原点には、彼らがいる』」


「彼ら?」


「祖父は名前を言わなかった。ただ、『消灯教の主』とだけ」


 母が口を挟んだ。


「私の数字が111111なのは、偶然じゃないと思う。全て同じ数字が並ぶのは、特定の軸に沿って配置されているからだと、消灯教の声が言った」


「お母さんも、消灯教に?」


「一度だけ。あなたが生まれる前」


 母の目が、遠くを見ている。


「私が発した問いは、『私の子供は数字を持つか』だった」


 僕の心臓が跳ねた。


「答えは?」


「『お前の子は、座標を継承する。ただし、歪んだ形で』」


「それ以来、私は温度を感じ取れなくなった」


 母の手が、テーブルの上で握りしめられている。


「あなたが生まれた時、私は毎日あなたの手首を見ていた。数字が現れないかと。そして、それは十七年間現れなかった。だから、私は安心していた。消灯教の予言は外れたのだと」


「でも、現れた」


「ええ。そして、あなたの数字は、私たちのどちらとも違う。規則性のない、ランダムに見える配列」


 母は僕の手首を見つめた。


「でも、本当にランダムなのかしら」


 父が、箱の中から鍵を取り出した。


「この鍵は、消灯教のある場所で使える。祖父はそう言っていた」


「どこで?」


「地下四階」


 僕は綾瀬さんと行った時のことを思い出した。階段は地下三階で終わっていた。その先はなかったはずだ。


「地下三階の先に、隠し扉がある。その扉は、特定の条件を満たした者にしか見えない」


「条件って?」


「数字が、少なくとも三回変化していること」


 僕は自分の手首を見た。748293。二回変化している。あと一回。


「そして、鍵を持っていること」


 父は、鍵を僕に差し出した。


「お父さん、これは……」


「俺は、地下四階に行かなかった。行く勇気がなかった。祖父からこの鍵を受け取った時、俺の数字は二回しか変化していなかった。そして、三回目の変化を待つ間に、俺は恐怖に負けた」


 父の目に、涙が浮かんでいた。


「俺は消灯教に行き、最後の問いを発した。『数字を止めることはできるか』と。答えは、『できる。ただし、お前は二度と変化を経験できない』だった」


「お父さんの数字は、それから?」


「止まった。800000のまま、二十年間動いていない。俺はその代償として夢を見る能力を失った」


 父の声が震える。


「俺は二十年間、一度も夢を見ていない。眠る時、俺の意識は真っ暗な虚無に落ちる。そして、朝になると唐突に意識が戻る。その間、俺には何もない」


 僕は言葉を失った。


 母が続けた。


「私は、問いを発した後、二度と消灯教に行かなかった。でも、数字は変化し続けた。最初は111112に、次は111113に。そして、一年前に111111に戻った」


「戻った?」


「数字は、増えるだけじゃない。減ることもある。そして、特定のパターンに収束することもある」


 母は袖を下ろした。


「あなたに伝えたいのは、選択肢があるということ。お父さんのように、数字を止めることもできる。私のように、変化を受け入れ続けることもできる。あるいは、おじいちゃんのように、最後まで探求することもできる」


「おじいちゃんは、何を見つけたの?」


 両親は顔を見合わせた。


 父が、箱の中の黒い石を取り出した。


「これが、祖父が最後に持ち帰ったものだ。地下四階から」


 石を手に取ると、それは予想以上に軽かった。まるで、空洞であるかのように。そして、表面の999999という数字が、僕の手首の数字と共鳴するように光り始めた。


 いや、共鳴しているだけではない。


 僕の数字が、石に引き寄せられている。


 748293の光が、石へ向かって伸びていく。糸のように細い光の束が、僕の手首と石を繋いでいく。


「これは……」


 その瞬間、僕の視界が歪んだ。


 居間の風景が溶けていく。両親の姿が透明になっていく。


 そして、僕は別の場所にいた。


 広大な空間。無数の蝋燭。


 消灯教の地下室。


 しかし、今までとは違う。蝋燭の配置が、幾何学的な意味を持って見える。それぞれの炎が、六桁の数字を表している。そして、その数字たちが、巨大な立体図形を構成している。


 六次元の。


 僕の手首の数字が、激しく明滅する。


 748293が、748294へ。


 三回目の変化。


 そして、部屋の中央に人影があった。


 背を向けた、小柄な人影。


 その人物が振り返る。


 綾瀬さんだった。


 でも、彼女の目は、すでに光を失っていた。


 白く濁った瞳が、僕の方を向いている。


「来たんだ。早かったね」


 彼女の声。


「綾瀬さん、目が……」


「ああ……。八回目の代償。でも、今は別の方法で見えてる」


 彼女は、自分の手首を掲げた。


 982634だった数字が、000001に変化していた。


「もうすぐ、私は原点に到達する」


 綾瀬さんは微笑んだ。


「そこで、全ての謎が解ける。あるいは、全てが終わる」


 僕が何か言おうとした瞬間、視界が元に戻った。


 居間。両親。そして、手の中の石。


 父が僕の肩を掴んでいた。


「大丈夫か!」


 僕は息を整えた。手首を見る。


 748294。


 三回目の変化。


 僕は、鍵を握りしめた。


「行くよ。地下四階に」


 母が叫んだ。


「待って! まだ準備が……」


「もう遅い」


 僕は立ち上がった。


「綾瀬さんが、原点に向かってる。彼女を止めなきゃ」


「止めて、どうする?」


 父の声。


「分からない。でも、彼女は一人で行こうとしている。それは、間違ってる気がする」


 僕は玄関に向かった。


 鍵と石を、ポケットに入れた。


 背後で、母が泣いている声が聞こえた。


 父が、何か叫んでいる。


 でも、僕の足は止まらなかった。


 外に出る。


 夜の街。


 手首の数字が、道を照らしている。


 まるで、導いているかのように。


 僕は、走り出した。


 消灯教へ。


 地下四階へ。


 そして、原点へ。


(続く)

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