第2話 消灯教に行ったその日、
気がつくと、僕は学校の屋上にいた。
どうやってここまで来たのか、まったく記憶がない。消灯教の地下室で暗闇に包まれた次の瞬間、僕はここにいた。時計を見ると、午後六時を回っている。
手首の数字は、748292のまま変化していない。
いや、正確には「変化していない」というのは間違いだ。すでに一度変化している。問題は、それがいつ、どのような条件で変化したのか、僕には分からないということだ。
屋上のフェンスに寄りかかりながら、僕は街を見下ろした。
夕暮れ時の街は、いつもと同じように見える。帰宅する人々、点灯し始める街灯、遠くから聞こえる車の音。でも、何かが違って見えた。それとも、違って見えているのは僕の目の方なのか。
「戻ってこれたんだ」
背後から声がした。
振り向くと、綾瀬さんが立っていた。彼女も、いつの間にかここにいた。
「綾瀬さん、あれは……」
「何も聞かない方がいい」
綾瀬さんは僕の隣に立ち、同じように街を見下ろした。
「でも、数字が変わった。何が起きたのか知りたい」
「知りたいことと、知るべきことは違うの」
彼女の声には、諦めのようなものが混じっていた。
「君の数字、見せて」
僕は手首を差し出した。綾瀬さんは、その数字をじっと見つめた。彼女の目が、わずかに見開かれた。
「早い」
「何が?」
「変化が。普通は、最初の変化まで数日かかる。でも君は、初めて消灯教に行ったその日に変化した」
「それって、まずいこと?」
綾瀬さんは答えなかった。ただ、自分の手首を見つめている。彼女の数字、982634は、薄い紫色のまま光っている。
「私の数字は、もう三ヶ月変わってない」
「それは……いいこと?」
「分からない。変わらないことが停滞なのか、安定なのか。誰も教えてくれない」
風が吹いた。綾瀬さんの髪が揺れる。
「消灯教の声が言ってた。『問いを持ってこい』って」
「ああ。それが次のステップ」
「ステップ? これって、何かの段階を踏むものなの?」
「そう見える。でも、ゴールがどこなのか、誰も知らない。少なくとも、私は知らない」
綾瀬さんは、ポケットから小さなノートを取り出した。黒い表紙で、ところどころ擦り切れている。
「これ、数字についてのメモ。私が集めた情報」
彼女はノートを開いた。ページには、無数の数字が書き連ねられている。六桁の数字と、その横に短いコメント。
982634 - 綾瀬 - 紫 - 87日間変化なし
621849 - 田中 - 赤 - 5日で消失
340157 - 佐藤 - 緑 - 12日後に7桁に増加
「消失?」
「田中くんは、数字が出て五日後に学校に来なくなった。誰も彼のことを覚えていない。私も、このノートがなければ忘れていたと思う」
僕は背筋が冷たくなるのを感じた。
「人が消えるの?」
「消えるというより、存在が……薄れる? 適切な言葉が見つからない。でも、数字が特定の条件を満たすと、何かが起きる」
綾瀬さんは別のページを開いた。そこには図が描かれていた。六つの円が重なり合い、複雑な幾何学模様を作っている。
「これは?」
「数字の配置。消灯教の地下室にあった蝋燭の並び方を再現しようとしたもの。でも、完全には思い出せない」
「蝋燭の配置に意味があるの?」
「あると思う。蝋燭は、私たちの数字と対応してる。誰かの数字が変化すると、対応する蝋燭の位置が変わる。そういう仮説」
僕は自分の手首を見た。748292。この数字が、あの広大な地下室のどこかにある蝋燭と繋がっているのか?
「綾瀬さんは、何回消灯教に行ったの?」
「七回」
彼女の声が、わずかに震えた。
「七回目で、私は問いを発した」
「どんな問い?」
綾瀬さんは、しばらく黙っていた。遠くで、カラスが鳴いた。
「『私はなぜ選ばれたのか』」
「答えは?」
「『お前が選択したから』」
「……」
「そして、私は代償を支払った」
「何を?」
綾瀬さんは目を閉じた。
「味覚。七回目に消灯教を出た後、すべての食べ物が砂のように感じるようになった」
僕は息を呑んだ。
「『一つの答えを得るたびに、一つの光を失う』。あれは比喩じゃなかったの?」
「比喩じゃない。でも、何を失うかは人それぞれ。ある子は記憶を失った。別の子は聴覚を。もう一人は、笑う能力を失った」
「狂ってる」
「そう。狂ってる。でも、止められない」
綾瀬さんは、ノートを閉じた。
「数字を持った時点で、私たちはもう消灯教の一部になってる。行かなくても、数字は変化し続ける。そして、ある閾値を超えると……」
「何が起きるの?」
「わからない。田中くんみたいなケースが、たぶん『閾値を超えた』例なんだと思う。でも、もう私たちには認識できない」
空が暗くなり始めていた。街の光が、一つ、また一つと増えていく。
「家に帰った方がいい」
綾瀬さんが言った。
「お父さん、帰ってきた?」
「まだ」
「そう。じゃあ、お母さんに聞いてみて」
「何を?」
「お母さんの手首に、数字はあるか」
僕は息を止めた。
「まさか……」
「数字は遺伝しない。でも、血縁者に集中する傾向がある。あなたのお母さんか、お父さんか、あるいは両方が、かつて数字を持っていた可能性は高い」
「かつて?」
「数字は消えないけど、見えなくなることはある。条件を満たした人の数字は、他者から見えなくなる。本人にだけ見え続ける」
綾瀬さんは、階段へ向かって歩き出した。
「明日、また消灯教に行くつもり?」
「分からない」
「行くなら、一人で行きなさい。そして、あなたの最初の問いを慎重に選んで」
「綾瀬さんは?」
「私は、もう八回目に進む準備をしてる」
彼女の背中が、階段の闇に消えていく。
「綾瀬さん」
僕は叫んだ。
「八回目で、何を失うの?」
彼女は振り返らなかった。ただ、階段の途中で立ち止まり、小さな声で言った。
「たぶん、視覚」
それきり、彼女は姿を消した。
僕は一人、屋上に残された。
手首の数字を見る。748292。
この数字は、僕を何に導こうとしているのか。
そして、僕が失うものは何なのか。
ポケットの中で、携帯電話が震えた。母からのメッセージだった。
『お父さんが帰ってきました。話があります。すぐに帰ってきてください』
僕は階段を駆け下りた。
数字が、わずかに熱を持っている気がした。
変化の予兆なのか、それとも僕の気のせいなのか。
学校を出て、家路を急ぐ。街灯の下を通るたび、手首の光が強くなったり弱くなったりする。まるで呼吸をしているかのように。
家に着くと、玄関の明かりがついていた。
ドアを開ける。
居間に、両親が座っていた。
父は三日ぶりに見る顔だったが、ひどく老けて見えた。目の下には隈ができ、頬はこけている。
母は、テーブルの上に両手を置いていた。
そして、僕は気づいた。
母の手首に、かすかな光が見える。
長袖の下から漏れる、微かな、しかし確かな光。
その色は、深い赤だった。
「座りなさい」
父が言った。
僕は、両親の向かいに座った。
父は、深く息を吸い込んでから口を開いた。
「お前に話さなければならないことがある。数字について。そして、消灯教について」
父の手が震えていた。
「俺も、かつて数字を持っていた」
その言葉と同時に、僕の手首の数字が激しく明滅し始めた。
748292が、光を放ちながら、ゆっくりと変化していく。
748293。
部屋の空気が、重くなった。
(続く)
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