18・きみの寝顔はおれの安定剤


 今日は、学内での研究発表会。大勢の人達の前で研究成果を発表しなければならない。

 ​準備はばっちりなはずなのに、心臓は激しく鼓動し、手のひらには嫌な汗がにじんでいる。おれは誰よりも無能だからこんなにも緊張してしまうのだ。

 ​研究室で発表の時間を待つ間、そっとデスクの引き出しを開けた。そして奥に忍ばせている妻の寝顔の写真を取り出す。

 ​寝顔という完璧な宵子よいこがおれの前でだけ見せる無防備さ。これこそおれの精神安定剤だ。


​「ああ、かわいい……。癒される……。これなら発表も頑張れそうだ……。本当にかわいい……」


 ​その寝顔に夢中になって癒されていると──背後から静かで、極めて冷静な声が聞こえた。


​「それは盗撮ですか?」


​「ひぃぃぃぃっ!!」


 ​情けない悲鳴を上げ、反射的に振り返る。するとそこには亮人あきひとが立っていた。彼はいつも通り、感情を一切含まない目でおれを見ていた。


​「ひ、ひどいじゃないか、何も言わずに入ってくるなんて……いくらなんでもマナー違反だ! 親しき仲にも礼儀ありという言葉を知らないのかい??」


​ 半泣きで亮人を責め立てるも、彼は淡々と事実だけを述べる。


​「ノックもしましたし、声もかけました。それでも返事がないので、中で倒れているのかと思い入室したのです。私は何か間違ったことをしましたでしょうか?」


​「…………ぐっ、ま、まぁ、それなら許そうか、」


​ そういう論理的な理由を聞かされると、おれはそれ以上反論できない。

 ​すると亮人は、おれが手に持つ写真に目線を向けて泰然と続けた。


​「その写真、寝顔ということは盗撮ですよね?  犯罪は駄目ですよ、直央なおか


 犯罪だって?! おれは思わず大きな声をだす。


​「盗撮は大袈裟だよ!  た、確かにこの写真は本人に承諾をとっていないけど……おれたちはほら、夫婦だし!」


​「夫婦間でも盗撮は犯罪に該当する可能性はありますよ。……貴方のように依存が強い場合はその境界線が曖昧になりがちなのですね」


 再び​論理という名の冷たい刃で刺され、おれの目に涙が溜まっていく。


​「それにしても意外です。私と奥様を会わせたくないと言った貴方のことですから、直ぐに写真を隠すかと思ったのですが……」


 ​亮人はこちらの動揺を一切気にせず、分析を続けている。


​「………きみに妻を会わせたくないんじゃなくて、妻をきみに直接会わせたくないんだよ。 だからまぁ写真ならいいかなって」


 ​そうは言ったものの、急に不安になってきた。

 まじまじと写真を見ている亮人の腕を掴み、必死に懇願する。


​「分かっていると思うけど、彼女は俺の妻だ!  惚れないでくれよ!」


 ​すると彼は掴まれた腕を静かに外し、平坦な声で一蹴した。


​「惚れませんよ。私も妻帯者ですから」


​「そんなの関係ない! おれの妻はそういう些細なしがらみなんて関係なく人を魅了するんだ! 」


​ そうだ、男も女も、老いも若きも皆が宵子という完璧な女性を狙っているんだ! だからおれが守らないと……。おれと彼女の穏やかな日々を!! そうやって決意を新たするおれを亮人は呆れた顔で見下ろし、ため息をつく。


​「そう思っているのは貴方のだけですから、安心するといいですよ。相変わらず重いですね」


 重い、またそう言われてしまったが今度はショックは受けない。だっておれの重さは宵子にとって心地の良い重さだということはもう知っているから。

 それにしてもこうして亮人と宵子の話をしていたら緊張がどこかへいってしまった。感謝しないとな。──宵子に!

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