16・きみを汚す世界をおれは許さない


 玄関を開けた瞬間、わずかに焦げた匂いが鼻をかすめた。同時に、いつもならすぐに顔を出してくれるはずの妻が出迎えに来ない。

 靴を脱ぎながら胸の奥に不安が広がる。


「……宵子よいこ?」


 キッチンへ向かうと、宵子が俯いたままフライパンの前に佇んでいた。背中が小さく震えている。


「どうしたんだい?」


 声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、振り向いた。目元が赤い。泣いた後だ。


「……その、ごめんなさい。晩ごはん……焦がしてしまって、」


 フライパンの上には黒く焦げた肉。料理が得意な妻にしては珍しい失敗だ。……だが彼女が泣いたのは料理の失敗だけじゃないと察する。

 おれはそっと一歩近づいた。


「宵子……今日は実家に行くって言ってたよね。何かあったのかい?」


 宵子は唇を噛み、視線を落とす。そして押し出すように言った。


「……帰り道、近所の人に挨拶したんです。そしたら……“ヤクザの娘が話しかけるな、汚らわしい”って言われてしまって……」


 その瞬間、頭の奥で何かが音を立てて切れた。

 穏やかな自分が一瞬で霧散し、代わりに煮えたぎるような怒りがせり上がる。


「……誰だそいつは」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


「いいんです、もう会わないし……私が気にしなければ──」


「よくない」


 語尾が鋭くなり、宵子がびくっと肩を震わせる。


「宵子はただ挨拶しただけだ。それを“汚らわしい”? そんな侮辱、許せるわけないだろ」


 握った拳が震えているのが自分でもわかる。


「……直央なおかさん、怒らないで」


「怒るに決まってる!」


 声が上ずり、慌てて深く息を吸う。


「……大きな声を出してごめん。でも……君がそんなひどい言葉をぶつけられて、おれが平気でいられるわけないだろ」


 宵子の目に、涙がたまっていた。


「……すごく久しぶりに、ああいうこと言われて……頭が真っ白になって……家に帰ってきて急いで料理したら、お肉焦がしちゃって……。こんなの出したら直央さんに申し訳ないって思ったら、余計泣けてきて……」


 彼女の泣き笑いのような顔に、胸が痛くなる。

 宵子の小さな手を取って、包み込む。


「宵子。君が落ち込んでる方が、俺はずっと辛い。料理が焦げたらまた一緒に作ろう。……それと、嫌なことを言われたら、俺のところに直ぐに帰ってきてくれ。汚らわしいなんて言葉、宵子に向ける人間のほうがよっぽど汚い。きみが泣く理由なんて何もないんだ」


 そう言うと宵子は堪えていた涙をこぼしながら、そっと俺の胸に顔を埋めた。

 その小さな背中を抱きしめ、俺は静かに言う。


「君を傷つける言葉をおれは絶対に許さない。……焦がしたって、泣いたって、君はおれの妻だ。だから絶対におれが守る」


 宵子が小さく「ありがとう」と呟いた。

 その声を聞きながら、おれは心の底で固く誓った。

 二度と彼女を一人で泣かせたりしない。その為なら、おれは何にでも立ち向かってみせると。



※エブリスタの読者さまより頂いたアイディア【奥さんが落ち込んでいる(病んでいる)時の旦那さんの様子が見てみたいです】を採用させて頂きました。ご協力ありがとうございます。


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