15・きみが眠るまで手をはなさない


 目を覚ました瞬間、体が異様に重かった。腕を上げることさえ億劫だったが、額に触れてみると普段よりも熱をもっている。

 こんなことが直央なおかさんに知られたら大騒ぎになる。だからそっとベッドを抜け出し、洗面所で体温計を脇に挟む。電子音が鳴り、表示されたのは37.5℃。

 深呼吸を一つして、体のだるさをごまかしながらキッチンへと向かう。


 パンを焼き、スープを温め、サラダを盛りつける。

 普段なら軽々こなせる作業が、今日はやけに手際が悪い。視界がゆらゆら揺れているのが原因だろう。


宵子よいこ、おはよう」


 ダイニングに入ってきた直央さんの声に返事をしようと振り向いた瞬間、ふらりと足元が泳いだ。


「──あっ!」


 転んしまう、そう察して訪れる痛みにぎゅっと目を閉じたのたが──わたしの体は優しく包みこまれる。


「よ、宵子! 大丈夫かい?!」


 どうやら直央さんに抱きとめられたようだ。


「だ、大丈夫です。眠くて足がふらついてしまって、」


 そう誤魔化すも、直央さんは目を細めてわたしの顔をじぃーっと見つめる。


「嘘だ。熱があるだろう、体が熱いよ」


 有無を言わせぬ声。抵抗する前に、おでこにひやりとした彼の手が触れた。


「……やっぱり熱い。なんで正直に言わないんだい?」


 バレてしまったなら仕方ない。ここは正直に白状して、釘を刺さないと……。


「微熱ですよ。症状もないですし、忙しい直央さんに心配をかけたくなかったんです。今日は講義と大切な会議があるんですよね? だから休むだなんて──」


「いや休む」


 「言わないで下さいね」と言う前に、直央さんがきっぱりと言い放つのでわたしは思わず目を丸くした。


「で、でも──」


「苦しんでいるきみを放っておくなんておれには出来ないよ」


「わたしは寝ていたら治りますよ? だから心配しないで大丈夫です」


 そう言うと、直央さんは腕に力を込めてわたしを強く抱きしめる。


「……おれがいない間にきみに何かあったら、おれは悔やんでも悔やみきれない」


 普段は優柔不断で、迷った挙句にわたしに相談してくるほど気弱な直央さんが力強く声色で言った。


「休む。ゼミも講義も会議も全部。きみの方がおれには何よりも大切だから」


 そこまで言い切られたら、もう反論できない。わたしは静かに頷くしかなかった。


 直央さんの看病は、とても不器用だった。

 氷枕は水を盛大にこぼし、雑巾の場所が分からず右往左往し、薬の種類を間違えかけ、お粥を焦がし、洗濯機から泡を吹き出させるなんて謎のミスもした。


「ごめん……おれ、本当に役に立たない……。情けなくて死にそうだ……」


 ベッドの横で、直央さんは泣きそうな顔をしている。


「直央さん」


 弱った体で手を伸ばすと、彼はびくりとしてこちらを見た。


「役に立たないなんて言わないで下さい。そんなことないんですから」


「でも……」


「……私が寝るまで手を握っていてください。それは直央さんにしか出来ませんよね?」


 そう言うと彼は胸の奥から息を漏らし、ゆっくりと私の手を握った。とても優しく、でも離す気のない力で。


「おやすみ、宵子。早く元気になってくれ。でないと……おれは寂しくて死んでしまいそうだ」


 熱に浮かされた意識の中で、その言葉がじんわり胸に染みていく。

 ああ、この人と夫婦になってよかった。

 直央さんのぬくもり感じながらわたしは静かに目を閉じた。

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