11・きみは地下書庫の天使さま


 組長の娘という肩書きは、わたしにとって呪いではなかった。

 父を恨んだことも一度もない。家の中は穏やかで、父は厳しいけれど優しい人だったから。

 けれど、世間の目は違う。「腫れ物」「怖い人の娘」そういう視線がいつもわたしにはまとわりついた。そのたびに胸の奥がじくりと痛む。

 友だちが多くないのは、そのせいだろう。でも少ないからこそ、わたしは彼女らを大切にしている。彼女らはわたしを“組長の娘”ではなく、“ただの宵子よいこ”として見てくれる。それがどれほど救いになっているか。


 今日は小説の資料探しに、勤務先の図書館ではなく大学の図書館へ来ていた。目的は地下書庫だ。

 ここは人がほとんど来ない。静かで、誰もわたしを見ない。ささやかな安息地。

 階段を降り、地下書庫の奥へ歩いていくと、小さな嗚咽が耳に触れた。

 ……泣き声?

 本で満たされた通路をそっと覗くと、スーツ姿の男性が棚の影で背を丸めていた。

 近くに投げ置かれている首掛けタイプのカードホルダーには“情報理工学部 知能論理工学科 神代かみしろ 直央なおか”と書かれていた。

 大学の先生が、こんなところで……? わたしは迷った末にそっと声をかけた。


「神代先生……差し出がましいのですが、どうして泣いているのですか?」


 びくりと肩を揺らした彼に、そっとハンカチを差し出す。神代先生は戸惑いながらも受け取り、目元を拭った。


「えっと、その……」


 そして震える声で事情を話し始めた。


「……おれがチェックした共同研究の発表スライドに、フォントの致命的な崩れがあったんだ……。発表した先生はすぐに流してくれたけど、彼は何も悪くない。全部、おれの確認ミスだ……おれのせいで台無しだ……!」


 フォント崩れ……そんなに重大なことだろうか……? 正直、ぴんとはこない。

 でも目の前で涙をこぼすほど悔しそうにする彼を見ると、ミスの大きさよりもこの人がどれだけ誠実に仕事をしているのか、そのほうが胸に迫った。


「泣いてしまうほど気に病まれるなんて……神代先生は責任感の強い立派な方なんですね」


 そう言うと、神代先生は驚いた顔をして首を振った。


「立派なはず、ないよ……。立派なら、そもそもこんなミス……しない……」


「立派な人でもミスはしますよ。そして神代先生はこうして悔いて反省出来る……それはとても立派なことです」


 言った瞬間、神代先生はわたしをまじまじと見つめた。ぱちぱちと瞬きをして、頬がみるみる赤くなる。

 そして急に手をもじもじと動かし始めた。


「あの……ええと……その……」


 どうしたのだろう、そう思い首を傾げた次の瞬間──


「き、きみが好きだ!」


 書庫に響くほどの声でいきなり告げられた。


「おれなんかで不満しかないと思うけど、け、結婚してほしい! きみにつり合う男に、きっとなるから……。一緒にいてほしい。きみが……必要なんだ!」


 息継ぎも忘れたような早口で、それはもう真剣で──わたしは思わず吹き出してしまった。


「そこはまず名前を聞くとか、連絡先を交換するとかじゃないんですか?」


 笑いながらそう言うと、神代先生は真っ赤になって固まった。

 そして申し訳ないと思いつつも、答えを静かに伝える。


「ごめんなさい、お返事は……“いいえ”でお願いします」


 神代先生はしゅんと肩を落とした。その姿に胸が少しだけ痛くなる。


「あの……連絡先だけは、交換しませんか?」


「えっ……いいのかい……?」


「ええ」


 スマホを差し出すと、神代先生は涙目で微笑んだ。


「……おれ、絶対に諦めないから……」


 その真剣な声が、胸の奥に残ったまま離れなかった。

 図書館をあとにして帰り道を歩く。

 ふと、彼の言った言葉が思い返される。


 「きみが……必要なんだ!」


 あまりにも真っ直ぐで、照れくさくて。でも──悪くない。

 わたしは小さく笑いながら、肩をすくめた。


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