9・おれの重さはきみの必需品
野菜スープの味見をしていると、カチャリと玄関の鍵が開く音がした。
「……ただいま、宵子」
続いて聞こえたその声は、いつもより更に沈んでいる。
慌てて玄関に向かうと、夫は難しい顔して立っていた。
「お帰りなさい、
そう問いかけると、彼は「うん」と短く言って俯いた。
そんな彼の手を取り、一緒にリビングへと入る。ソファへ並んで座ると、直央さんは重い口を開いた。
「ああ、いや、その……」
言い淀みながら直央さんはソファに身を沈める。
「今日の昼休み、
亮人、それは確か直央さんと同じ大学の先生であり、直央さんの友人である
わたしは会ったことはないが、直央さんは時折速水先生の優秀さを嫉妬混じりでわたしに話す。
「……何のお話をされたのですか?」
直央さんはメンタルは弱いがプライドは高い傾向にある。何かプライドを傷つけられるようなことがあったのだろうか?
「きみとおれのことを話したら──“やはり貴方は奥様を支配していますし……とても重いですよ”と言われてしまった。……心外だよ」
直央さんは濡れた瞳でわたしをじぃっと見る。
「……おれなんかに、きみみたいな完璧な人を支配出来るはずない。それに重いって……ちょっと失礼だと思わないかい?」
そう言う直央さんはわたしの「はい、そうですね」を求めている。
だがわたしは彼の意に反する言葉をきっぱりと言い放つ。
「直央さんは重いですよ」
それは純然たる事実。それなのに直央さんは目をまん丸にして、完全に動きを止めてしまった。
しかし次の瞬間、堰を切ったように泣き出して言葉を畳み掛ける。
「やっぱり……やっぱりそうか……それはおれが負担ってことかい? 宵子は重たい男からは解放されたいって思ってる? ごめん……おれのせいで宵子を苦しめているなんて、耐えられない……っ! で、でも、おれはきみを離してあげられないんだ……っ! おれは、きみがいないと生きていけないっ!!」
彼の不安と恐怖が、涙と一緒に零れ落ちていく。
わたしはため息をつく代わりに、ふっと笑みを浮かべた。そして直央さんをソファに押し倒す。
「っ、宵子!」
戸惑う直央さんの上に跨り、戸惑うその顔を覗き込む。
「直央さん、よく聞いてください。あなたの重さは、わたしにとって心地の良い重さです」
わたしは直央さんの胸に手を置き、その心臓の音を感じる。
「……この重さがなかったら、わたしはふわふわとどこかへ飛んでいってしまいます。直央さんはわたしの居場所、わたしのアンカー、この世界にわたしを繋ぎとめてくれる重しなんです」
彼の重いほどの愛情、絶え間ない心配、そしてわたしへの執着。それは確かに「重さ」と呼べるものかもしれない。けれどわたしにとってそれは何にも代えがたい安心感なのだ。
「わたしにとって必死な重さだから、他人が何と言おうと気にしないでいいんです。……直央さんがわたしを必要としてくれているから、わたしはわたしでいられるんです。だから……どうぞ、これからも重い直央さんでいてくださいね」
不安で歪んでいた直央さんの顔がゆっくりと穏やかな色を取り戻していく。
「宵子……ああ、そうか……そうだったのか」
彼は安心したように、深く息を吐いた。
「ありがとう、宵子。おれの……おれの重さは、きみを繋ぎとめる重さ、か……よかった」
直央さんはわたしの顎に手を添え、そっと唇を重ねる。
それは優しく、長く、互いの存在を確かめ合うようなキスだった。
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