8・おれはきみの無自覚な支配者
昼休み。
研究室で資料を整理していると、ノックの音と共に、背が高く整った顔立ちの
「
亮人はおれより優秀で、周囲から引く手あまたの特任講師だ。
同じ高校の同窓生で、年齢も近いが、彼はおれに対して終始丁寧な敬語を使う。その完璧な態度がおれの情緒をいつもざわつかせる。
「やぁ、亮人。どうかしたかい? 研究の進捗かな?」
亮人は研究の話を始めるかと思いきや、予期せぬ話題を切り出してきた。
「先日、大学の正門で貴方が女性と一緒にいるのを見かけました。もしやあの女性が貴方の奥様なのですか?」
先日とはつまり、
「……ああ、そうだが……、」
その瞬間、おれは即座に警戒した。亮人に宵子を見られたという事実が、胸の奥に不安を広げる。
しかし亮人はそんな内心など気にも留めず、淡々と続けた。
「我々の親交は長く親密なはずですが、私は未だ奥様に会わせてもらったことがありません。結婚式にも呼ばれず、気づけば貴方は既婚者になっていた。その事実を知ったのもこの大学に赴任してからです。……それは少々不誠実ではありませんか?」
「……」
「ですが、貴方は昔から少し変わった方でしたから。まあ、仕方ないのかもしれません」
冷静で論理的な亮人の言葉が、神経を逆撫でする。亮人は時折全てを見透かしたような、そして人を遠回しに馬鹿にしているような物言いをする。
「……亮人、きみに妻を紹介するのはリスクが大きいんだ。きみは見ての通りイケメンで優秀。その上、他の大学や研究機関から声がかかりまくるほど市場価値の高い男だ」
おれは亮人に言い聞かせるように、そして自分自身に言い訳するように俯いて言葉を続ける。
「そんな完璧な男を妻に紹介するなんて出来るはずがない。……おれは、きみと比べたら無能な
おれの悲痛な訴えを聞いても、亮人は眉ひとつ動かさず平然としている。
「貴方が自己肯定感が低いのは今に始まったことではありませんが、そこまでネガティブですと……奥様の負担になるのでは?」
負担。その言葉に、おれは顔を上げた。
「負担になんてなってない! おれに妻が必要なように、妻も無能なおれを必要としてくれている。……彼女も、こんな無能なおれなんかを支えることに生き甲斐を感じているんだ。……俺の人生は、宵子なくしてはありえない。俺の全ては宵子に支配されているんだ!」
どうだ、ノロケてやったぞ──そう思ったが、亮人は涼しい顔のままだった。
「直央、貴方は無能を誇張し過ぎです。あなたは無能どころか大変有能です。……皆が100点を目指す中で、貴方はいつも120点を目指している。その理想の高さゆえに、自分が無能だと感じているだけでしょう」
目の前の男の目は、俺の心を全て見透かしているようだった。
「そして、貴方は無能を盾にして奥様を支配しているように見えます」
おれなんかが宵子を支配?? そんなおおそれたことがヘタレなおれに出来るはずがない!
「そ、そんなことはない!」
言い返すと同時に、目頭が熱くなる。鼻の奥が痛くなって、瞳に涙の膜が張る。
嫌だ、亮人の前では泣きたくない。
必死にこらえていると、亮人がふいに空気を変えた。
「……失礼致しました。では話題を変えます。奥様は何をされている方なのですか?」
唐突な切り替えに戸惑いながらも、つられて答えてしまう。
「……今は仕事は何もしていない、家を守ってくれている。以前は図書館司書をしていたけど、結婚を機にやめてもらったんだ」
やめてもらった、それを聞いた途端に亮人は僅かだが眉を寄せた。
「……何故、やめてもらったのですか?」
何故と言いたいのはおれの方だ。そんなことわざわざ訊ねなくても、この優秀な男には答えなんて分かっているはずだ。
「そりゃあ勿論“職場”というおれの詳しく知りえない人間関係が妻にあってほしくないからに決まってるじゃないか。それに図書館なんて不特定多数の人間が出入りする場所は危険すぎる。妻に何かあったらどうするんだい?」
亮人はおれ言葉を最後まで聞いてから深いため息をついた。そしてその冷静な視線がおれを射抜く。
「直央。やはり貴方は奥様を支配していますし……とても重いですよ」
「え……?」
重い? 誰が? おれが?
そんなはずはない、おれのこれは常識の範囲内だ。──たぶん。
うーん、やはり優秀なやつが言うことはよく理解出来ないなぁ。
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