5・きみの美味しいえびグラタン
月曜日の午前中。
わたしはいつも通り家事に取り掛かっていた。リビングに掃除機をかけていると、エプロンのポケットに入れていたスマホが震えた。どうやら着信のようだ。
画面には『
「はい、もしもし?」
「
電話口から直央さんの焦燥感と、いつもの自己否定の言葉が音割れしながら響いてくる。どうやら彼は相当なパニックを引き起こしているようだ。
「大丈夫ですよ、直央さん。深呼吸して下さい、慌てないで」
電話をスピーカーにして、書斎を開ける。机の上には確かに分厚い資料の束がそのまま置き去りになっている。
「この資料ですね。わかりました。持っていきますから、そんなに心配しないで下さい」
しかし直央さんは、ネガティブな言葉を止めない。
「きみにまで迷惑をかけてしまって、おれは消えてしまいたいよ……っ! こんなことで動揺するなんて、おれは本当に准教授失格だ……。宵子、きみはおれなんかに見切りをつけなくていいのか……?」
「大丈夫ですよ。そんなことより、わたしが資料を届けるのが遅れたら、発表に間に合いません。すぐに支度しますから、消えないで待っていて下さいね」
彼のグチを軽く慰めながら切り上げ、すぐに支度を整えた。
自転車を漕ぎ、大学へと向かう。立派な大学の正門に、緊張と焦燥の表情を浮かべた直央さんの姿を見つけた。
スーツ姿はやはり知的でかっこいい准教授そのものだが、その瞳は今にも泣き出しそうだ。
「直央さん、どうぞ」
資料を差し出すと、直央さんはその分厚い束をまるで命綱のように受け取った。
「ああ……助かったよ、宵子。これでどうにか間に合う」
安堵の息を漏らした直後、直央さんの瞳が再びうるうると潤み始めた。危機が去ると、次は精神的な甘えが始まるいつものパターンだ。
「……宵子の顔を見たらもう帰りたくなってきた。どうせおれなんかの発表は失敗するに決まっているんだ……。……なんでおれだけこんなに緊張しなきゃならないんだ……、」
「ダメですよ、直央さん。大丈夫です。落ち着いて下さい」
いつもなら彼の体を抱きしめているところだが、周囲の学生の視線が気になり直央さんの腕に抱きつく程度にしておく。
「発表、頑張って下さい。あなたの大好きなえびグラタンを作って待ってますからね!」
「え……? えびグラタン?」
直央さんの顔がパッと明るくなった。えびグラタンは直央さんが最も好きなわたしの手料理だ。
「うん、わかった。きみが作って待っていてくれるなら頑張るよ。……それと、帰ったらたっぷり褒めてくれ、宵子」
「はい、勿論です」
直央さんは、資料を胸に抱えながらわたしを何度も何度も振り返り、小さく手を振る。その姿は遠足の途中で母親に別れを告げる子供のようだ。
校舎の建物に直央さんの姿が消えるのを見届けて、わたしは心の中でそっと微笑んだ。
直央さんが帰ってくるまでまだ時間はある。今日は腕によりをかけて、最高に美味しいえびグラタンを頑張った直央さんに作ってあげよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます