第2話
部屋の外からお
湯呑から立ち上がる湯気に乗って、薬草の匂いが立つ。
火鉢の傍で吉野が湯呑を啜ると、お内儀は座敷に出る間合いを伺ってきた。
「花の障りも明けたところだから、今宵からでも出れますけぇ」
煎薬に温まった吉野の顔色を見ながら、お内儀の笑みが満面に浮かぶ。
お内儀は早速と、八利の旦那が吉野の座敷を望んでいると切り出した。体の具合に合わせるというが、今夜でも明日でも座敷に立つ日を知らせるよう頼まれていた。
「この頃はお忙しゅうなさっとった旦那じゃけぇ。ご無沙汰もええ所。今日でもええね。今宵は私も座敷に上がるよって」
八利の旦那がいくら上客であっても、お内儀までが座敷に上がるとは。
吉野は意外な顔をして訳を尋ねた。
旦那が久しぶりにお内儀の三味線を所望したという。お内儀も若い時分には、芸者として座敷で三味線を披露していた。勿論、八利の旦那の座敷にも幾度となく呼ばれたと、お内儀は自慢気に語った。
「おかっつぁんがお座敷に上がりんなさるって、大仰なことでもあったんかと思うた」
「おんやまぁ。相変わらず勘がええわ、ほんまに。そんな大仰なことでもないけどねぇ。ちぃと、めでたい筋になるかいのう」
お内儀はそれ以上のことは言わず、のらくらと言を濁した。それでも支度においては、しっかりとめかし込むよう念を押された。
吉野は詮索を諦めて、体を浄める湯盥と髪結の手配を頼む。お内儀は、それらの支度や旦那への知らせにと忙しくなった。吉野が煎薬を飲み干すと、お内儀は上機嫌に部屋を退いた。
吉野は玉結びの髪を解くと、櫛でゆっくりと梳き始める。火鉢の中で熾きた炭がちろりちろりと色めいていた。
八利の旦那とは、禿の頃も入れると付き合いは長い。世間では洒脱とも、海闊天空な人物だとも言われているらしいが、吉野からすれば少しばかり風変りな人に見える。
人を煙に巻くようにして、それでいて――
吉野は遠くなった水揚げの頃を思い出す。
吉野の水揚げは一度、様子見とされ、まだ次の機会はあるとお内儀からも特段叱られずに済んだ。気を引き締め直した吉野は、東雲の禿として励んだ。
噂にきく江戸や京の都のように洗練されてもいない田舎の遊里。決め事は表向きとばかりに、しばしば曖昧になる。
まだ水揚げ前の吉野の元にも、度々、そんな話が舞い込んだ。
座敷で酌をするだけの禿であっても、密かにお内儀を通して、客筋から声が掛けられた。その度に、東雲はお内儀が持ち掛ける話をきっぱりと退け続けた。
――おやめんさい、おかっつぁん。そがいなことをしんさったら、水揚げした後の禿の値打ちが下がる。
そう言ってお内儀の打診を退けるばかりか、挙句には、町役人の耳にでも入れば、どうなるやらと脅すほどであった。
見世の女達がお内儀に楯突くことなど、ありえない話。だが、水揚げ前の娘に客を取らせるなど、なお始末が悪い。
東雲はそれを逆手にとった。
東雲の後ろ盾にいるのは、山成屋の旦那。尾道の筆頭に上がる豪商として、町年寄の職にもある。町政にも深く関わり、その影響は尾道の町全てに及ぶ。その旦那を贔屓客とする東雲なら、枕話に告げ口することなど造作もなかった。
そうして東雲の庇護の下で、吉野は禿としての面目が保たれた。
やがて、東雲の禿に選ばれなかった娘の中からは、水揚げを済ませた者も出始める。
親しかった小女も、やがて格子前に座して客を迎える身となっていた。吉野は
そうなると若手の中には、水揚げを先へ延ばされた吉野を指して、客もとれぬ禿と冷やかす者も現れる。これには流石の吉野も、一人出遅れた気にもなった。
反対に年長の姉様方からは、出来るだけ長く禿でいろと揶揄われる。吉野と客の取り合いになると、用心しているのがひしひしと肌に伝わった。
この頃の吉野は、どちらを向いても宙ぶらりんとして、居心地の悪い日々を送っていた。
――悔しいだろうが、それも水揚げまでの辛抱じゃ。
水揚げの相手次第では、後ろ盾になる旦那に恵まれるかもしれぬ。だから決して客を取る話には応じるなと、東雲は吉野にきつく言い含めた。
もはや吉野が頼れるのは東雲しかおらず、ただ言われるがままに従った。
水仙が咲く季節が過ぎ、春夏を越え、いつしか秋風が吹き始めた。その間、吉野の体つきも、東雲の肩と並ぶ手前にまで成長していた。
――あの時、飲み損ねた茶を飲みに来た。
そう言った八利の旦那に、吉野が茶を点てて以来、酒席が始まる前に一服の茶を必ず出すようになった。
毎年、遊里を賑わせる中秋の月見が終わった間なしの夜。
吉野が茶を立てる所作を眺めながら、旦那は東雲といつものように閑談する。差し出された茶を喫すると、吉野の点前が美しくなったと褒めた。
八利の旦那は茶を月に喩えて話始めた。
商家衆で集う茶会の侘びを十六夜だとすれば、吉野の茶は十三夜に見る爾今の光だと饒舌に語る。
その喩えが吉野には難しく、褒められたかどうかさえ分からない。
「十三夜の月は艶やかな望月に近づこうと、欠けた身を輝かせておるじゃろう。そうして、満ちる時は近いと知らせてくれる清しさがあるんだよ」
八利の旦那は吉野の茶を美しいと褒めた訳をそう説いて聞かせた。そして、栗名月にみる長月の十三夜。その夜に東雲の座敷を取ったのは別客で、吉野の茶に預かれないと惜しんだ。
「わざに、この東雲を悪者になさいますのや。いつもは名月を外して、十六夜にお見えになるのは、どなた様でしたやら」
すかさず実の事を東雲に言い返されて、一本取られたと旦那は呵々と笑う。
満ちる月の艶めきと、十六夜の欠けていく月の侘しさは
これに東雲はわざとらしく顔を白けさせて、ゆるりと首を傾げただけであった。
やれやれと盃を傾けた旦那は、吉野に酒を注がせて、くわばらくわばらとおどけた。
「東雲を怒らせると怖いよって、神無月は御前さんと一緒に月見と洒落こもうかのう」
吉野が返答に迷っている間に、東雲が口を挟んだ。
「おんや。長月の月見も終わらぬうちから、もう、その次のことをお考えあそばしか」
「ほうよ。禿といえど、二夜の月見を割らせてしもうたら、山成屋さんとて、験が悪かろう」
吉野は黙ったまま、話を聞いていた。
中秋の名月と、長月の十三夜を栗名月とも称して愛でる二夜の月見は、互いの縁が切れぬよう願う。先に東雲の座敷を取り、中秋の月見に興じたのは山成屋の旦那だった。栗名月と対にして月見を行うのが慣例事であるだけに、同伴する吉野まで欠いてはならぬと八利の旦那は遠慮してみせた。
八利の旦那が神無月に誘ったのは、そうした訳だったのだが、吉野はまだ禿の身の上。
それを座敷に誘うとはもっての外のことと、旦那も心得ているはずである。
東雲はその誘いを止めもせずに話を続けていた。
――水揚げの話かもしれない。
吉野の勘がよぎる。
水揚げ相手は抱主やお内儀が定める事、東雲でさえ打診をする客の間に入っているに過ぎない。ましてや、吉野は前に水揚げを流して、恥をかかせてしまっているからには、余計なことを口に出来なかった。
それから数日が経った昼前、取持の姐さんが吉野を呼んだ。吉野は緊張に身を縮めて立ち止まった。
いつもなら不機嫌な顔を見せて、小女や格子前の姉さんを怯えさせるような人だった。
それがこの所、吉野に向かって妙に機嫌がいい。その様子に周りもどことなく騒めいていた。
取持の姐さんに連れられて入った部屋には、抱主とお内儀が揃っていた。脇には東雲もいる。取持が端に腰を下ろし、抱主の正面に吉野を座らせた。
吉野がおどおどと正座すると、抱主から水揚げ相手が定まったと告げられた。
相手はやはり八利の旦那だった。
八利の旦那との取り決めも終わり、日取りは定められていた。
座敷での折、旦那が冗談めかして吉野を月見に誘った、その神無月。座敷に出る先に、多くの縁が満ちるようにと、十三夜を旦那から示されたという。
「八利の旦那様は洒落たお方じゃわ。御前さんが出世するようにとな、験を担いでくださってのう。恥をかかせんよう、この先もしっかりと励むんで」
抱主は甚くご機嫌で、水揚げの支度品も後に届けられると話した。
吉野に禿の内から初花を割らせずにいたことで、旦那の信頼を得られたと胸を撫でおろしていた。東雲の見立てにも、ようやく筋目がついたのである。
水揚げを迎えれば、一人前の傾城として見世に座る。とうとう年季奉公が始まるのである。約束は十年。
先に水揚げを済ませた若手達にも追いついた――吉野は安堵しながらも心中は複雑。手を突いて礼を述べるも、その手が微かに震えた。
栗名月の夜が訪れ、山成屋の旦那が座敷に顔を出すと、先ずは禿の茶を望んだ。八利の旦那から吉野の話を聞いたようであった。
搗ち栗を摘まみながら山成屋の旦那は、東雲との閑話を楽しむ。その合間で吉野の点前を眺めていた。一服の茶を喫すると、もっと早くに知っておればと、これまでを振り返って惜しんだ。
そして、山成屋の旦那は、「一度くらいは吉野の座敷に上がろう」と一言、吉野を祝した。
この頃には、呉服屋や小間物屋が出入りして、仕立て上がった吉野の支度品が次々と届けられるようになった。それらの筋や商家の集まりで噂され、すっかりと吉野の水揚げ話は広まっていた。
茶を好む八利の旦那が、禿の茶を気に入って水揚げに応じたと、商家衆らも吉野に興味を覚え、東雲の座敷はいつもより盛況を見せた。
「半分は御前が呼び寄せた景気じゃ」
忙しい合間に東雲はそう言って笑った。
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