第3話

 水揚げの前夜、吉野は上手く寝付けないでいた。周りには客を見送った姉さんや、部屋の片づけや荷物運びに一日中働いた小女が枕を並べていた。

 明日は初見世の宴が催され、水揚げの夜を迎える。吉野に届けられた支度品は、東雲の部屋に預けられており、明日の出番を待つように着物や帯が掛けられていた。


 吉兆花に手毬を散らした薄紅の着物、錦織の袋帯は金や銀糸が淡く光る。鼈甲の櫛には羽を広げる瑞鳥が刻まれ、金粉が埋め込まれている。同じく鼈甲で揃えた笄は梅や桜の彫りが誂えてあった。漆塗の笄にさえ瑠璃の螺鈿が一筋の光を跳ね返した。


 どれも華美に傾きすぎず、近づけば贅を凝らしたものと分かる上等品ばかり。支度品を覗きに来た格子前の姉さんは溜息をつき、格子奥や部屋持ちの姉様からは禿姿も見納めと揶揄われた。


 初花を割る。その所作は東雲からも聞かされていたが、部屋持ちの姉様は揶揄いついでに、吉野へ振舞いの心得を語った。

 その半分はやっかみ混じりの脅かしに過ぎなかった。


 それでも事を目前にした吉野の内には不安が忍び寄る。

 八利の旦那が好人物であることは、吉野にもよく分かっている。

 しかし、吉野の記憶にある父よりも遥かに年嵩であった。男に身を任せるのが生業だと心得ていても、吉野の体は勝手に震えていた。


 吉野が布団の中で鼻を啜ると、隣で寝ていた格子奥の姉様が、吉野の頭に手を伸ばしてきた。

「大丈夫。あの旦那様は、女のあしらいには手慣れとるいうて、姉様達が喜ぶお方じゃけぇ。きっと、怖いことはなさらんよ」

 後は目を瞑って任せておけばいいと、隣の姉さんはしばらくの間、吉野の頭を撫でた。


 昨年、倹約を奨励していた老中が退いたものの、倹約令の名残りがまだ色濃く漂っていた。その中で吉野の水揚げは、初見世の祝いを兼ねて宴席が催された。


 その祝いの宴席には東雲の贔屓客である山成屋の旦那を始め、八利の旦那と縁の深い商家達が招かれていた。その旦那衆の接遇には、これまで吉野を導いてきた東雲は勿論の事、その夜の座を外した上格の姉様から下格の姉さんまで宴に華を添えた。


 吉野が出席した客に茶を点てている間、抱主は客に向かって口上を述べた。吉野の水揚げが無事に調った礼と、今後の引き立てを請う。そして、吉野の源氏名が披露された。

 この時、吉野は吉野になった。


 かつて、京の島原に吉野いう太夫がいた。版本や浄瑠璃話にも登場するほどの名にあやかったというのは、表向きの話である。八利の旦那は吉三郎という名であった。

 自分の名の一部を与えたのだろう……と、旦那衆はすぐに察しがついて片笑みを浮かべあった。


 続け様に八利の旦那が、吉野の立ち振舞いでの秀麗と茶の点前の雅さを褒め連ねて今後の後ろ盾を明言した。わざわざ明らかにするようなことでもないが、皆が察していれば、隠す方がかえって無粋だと座を笑わせた。

 最後に色街で育ちながらも、不思議とその色に染まらず可憐さを保ってきた吉野への便宜を願うと、一同は一斉に会釈を送った。

 

 座敷見習いの新造が静々と吉野の茶を客に配ると、皆で吉野の一人立ちを祝って茶を喫した。

 それからは酒や肴が運び込まれ、その場に控えていた女達の三味線や唄が繰り広げられた。

 吉野はその音に合わせて、舞を披露する。果てには東雲と並んで踊ってみせた。

 これまで倹約に務めて鬱積していた者達から明るい笑声が座敷に溢れ、賑やかな祝いの夜は更けていった。


 宴はお開きとなり、吉野は一度支度部屋に戻った。取持の姐さんが吉野の帯を直すと、手を差し伸べた。

「行こうか。吉野」

 これまで御前と呼びつけられていた相手から、初めて名を呼ばれた。

 その意味が示すのは……

 全て、受け入れなければならない――吉野は頷いて手を置いた。


 寝所の前ではお内儀が待っていた。取持が引き渡すと、「よお、ここまで来たね」と吉野を労う。

「可愛がってもらいんさい」

 お内儀がそういうと寝所の襖を開けた。


 寝所に設けた小座に八利の旦那が待っていた。屏風の奥には重ね布団が敷いてある。お内儀は丁寧に吉野を引き渡して退いた。

 手酌をしていた旦那はいつもと変わりがない。


 吉野が注いだ酒を一口で傾けると、盃を吉野に差し出した。

「一口、口先を濡らすだけでいいんじゃ。酒はゆっくり慣れればいい」

 両手に受けた盃へ旦那が酒を注ぐ。恐る恐る嘗めた酒の味は、すぐに馴染めそうもなかった。


 その様子を見た旦那は笑って、盃を手に戻すと残りの酒を口に含んだ。

 そして、吉野に三味線を頼むと、しっとりとした長唄を唄い始めた。先程まで宴席で三味線を流し続けて、一緒に唄っていたにも関わらず、そのまま数曲ほどが小座に流れた。


 いつ旦那が羽織紐を解くのか。吉野の胸の音が早まって、気になるばかりだった。それを察した旦那が穏やかに笑んだ。

「禿の頃から見とるが、こうして衣装を改めたら、やはり見違えるのう。夜は長い。月を楽しもうじゃないか」

 開けた障子から望む月は屋根の影に隠れようとしていた。旦那は吉野に和歌の上句を詠ませた。それは歌かるたにある歌、旦那は応じて下の句を諳んじる。東雲に早いうちから覚えさせられた歌かるたは、吉野のお得意の遊び芸だった。


――天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ

――をとめの姿しばしとどめむ

そのまま旦那は羽織紐を解くこともなく、いつまでも歌遊びに興じた。


 吉野が目を覚ましたのは明け方近くだった。いつのまにか八利の旦那の膝に頭を落として眠りこけてしまっていた。

 脇息に凭れて、うたた寝をしていた旦那も、吉野の気配に気づいて目を覚ました。


 見世の者達もまだ寝入っている時分、吉野は足音を立てぬよう飯場に入った。姉様達が教えてくれた場所に飯櫃があった。残されていた冷や飯を椀に盛り、湯を立てた。

 小腹が空いた旦那に、湯漬けを用意する。漬物を菜にして、二人で朝餉を終わらせた頃、外は白み始めていた。


「こんなに楽しい気分になったのは、久しぶりじゃった。ありがとうよ」

 そう言って見世を出た旦那を吉野は見送る。旦那が通り角を曲がってしまうと、石畳の通りに人の気配は消えた。

 ただ、鶺鴒が走りまわって、ちちと鳴いていた。

 部屋に戻った吉野は、結局、使う事のなかった重ね布団で、また一人眠った。


 見世は昼から開くが、陽が高いうちに客が寄ってくるのは稀。格子奥の間で女達は、客待ちの恰好だけをして、吉野を囲んでいた。

 吉野から昨夜の話を根掘り葉掘りと聞きだしては、腹を抱えて笑いだす。


「ほおじゃろうねぇ。とどのつまりは、紐をお解きになさらんかったと、あん人らしいわ」

 普段は持ち部屋にいる姉様達まで寄ってきて、こう言うのである。前夜に吉野の頭を撫でてくれた姉様までもが、肩を震わせている。


 吉野は散々と話の肴にされて、どうしようもなく眉を寄せた。要するところ、八利の旦那が手を出しはせぬと見越して、あれやこれやと吉野を脅かしていただけだった。

「これで、よう肝が据わったじゃろ」

 吉野の様子が気になって話を聞いていた東雲も気楽そうして笑った。


 陰で吉野の話を聞いていた取持が、一段落ついた頃に姿を現わした。

 与太話はいい加減にして、手が空いているなら小女の躾でもやれと女達を急き立てて、ようやく吉野は解放された。


 遡る事、この十年余り、世情は不安定であった。周辺の村から離散した農民や職を失った難渋者が尾道に流れ込んでいた。隣接する福山藩、また安芸領内においても大一揆がおきたという不穏な噂が届いた。


 如何に監視を強めても町の風紀は乱れ、安芸の城下町に続いて、この尾道でも打ちこわしが起きた。風聞には大阪、江戸のそれは頓に酷い有様だったという。

 その間、藩からの倹約令は度々と通達され、厳しさを増した。


 傷ついた土蔵、土塀も修復されれば、一見には平穏とした様相を取り戻したように見える。質素倹約が美徳という風潮にもなりつつあるが、その制約の堅苦しさに鬱屈とした空気も流れていた。

 このような町の状況であったから、八利の旦那が吉野の初見世を盛大に祝ったことは、町の明るい噂話になっていた。


 或る日、勤番所にて町年寄らの寄合が開かれた。八利の旦那も町年寄同格として出仕する。尾道にある三町、各町より選ばれる町年寄を正とする。八利は同等の格を与えられ、専らに同町の町年寄を補佐する役にあった。


 寄合の終わり目、町奉行所詰の役人である某が八利の前で足を止めた。某は町の噂を聞きつけたようすで、ちくりと苦言を吐いた。

 これに八利の旦那は恭しく膝を揃えて弁を返す。


――東雲は新町において、遠方より来し船の衆にも、その名を知られたる遊興の華にて。此度このたびは、その禿がめでたくも出初めと相成りました祝いにございます。

 町の華も若芽を吹き出でしと申しますべきか。かかる吉事は、商家衆にとりましても話の物種となり、繁昌の潮先と見立て仕ります。

 これに力添えいたしましたことは、交歓の座を支えし町の気を奮い立たせ、ひいては共に町の利を栄えしむるものと心得た次第。


 かくも、抜け抜けしゃあしゃあと、私欲に贅を凝らした遊興にあらずと八利は言い躱す。 これを間近で耳にすれば、町年寄達もついぞ失笑を漏らした。

 苦言を翻された某は、誠実の根が深く、実直というには堅物過ぎる人物であったから、苦虫を潰した面持ちで八利の弁を聞いていた。


 町年寄達も八利の申し条には一理あると擁護に回る。

――なるほど、船旅を労う夜の歓待は、こと更に湊の石高を積み上ぐる契機となり得ておりますのは確かに。


――歓楽の灯りとは申せども、これを細めてさもしい様子ともなれば、町の景気も怪しまれ、商いの機を失するやも。それでは町の利を損じ、藩へお納め申す御用金にも影を落としかねませぬ。


――左様に。それ故、我らは木綿の袖を振れども、他に穏便なお取り計らいをと、昨年より奏上申し仕りてございますれば。

 と、三町の町年寄達もこれ見よがしに言い連ねた。


 尾道は町政による自治の色が濃い町であった。有力商家より選ばれる町役人は、柔和な物腰によらず矜持は硬い。そして商人である故に、したたかさを持つ。

 些か詭弁であると見透かす顔をした某であったが、以後の遊興は慎んであるべしと言うに留まった。


 この話を肴にして、上機嫌な山成屋の旦那が吉野に酒を注がせていた。

「いやはや、あれは本当におかしかったもんだよ。八利さんらしい言い様でね。胸がすっとしたね」

 山成屋の旦那が一度は顔を見せるという約束を果たす為の座敷であった。



 こうして始まった吉野の年季も約束の十年が過ぎた。本当であれば、年季明けを迎えるはずであった。

 後、三年。訳あって、吉野は年季を延ばさざるを得なかった。


 初見世以降、八利の旦那は歓待の座に吉野は欠かせぬと、客座のもてなしを吉野に預けた。その一方で、部屋持ちの姉様にもふらりと渡る悠遊とした人で、全く掴み所がなかった。


 旦那が渡る先はいつも大座敷に華を添えた姉様達。上がりを減らし、新しい客を掴み損ねている所であれば、姉様達は旦那の心遣いを歓迎していた。色も義理が混じれば、吉野も憎みきれない。

 どこに目を向けているか、分からない人だと吉野は思うが、人を安心させる眼差しを持つ。吉野の後ろ盾に東雲が八利の旦那を見立てたのも、そんな人なりにあったのかもしれない。


 小女が湯盥の支度が出来たと告げに来た。今宵の座敷の成り行きは、全て八利の旦那の胸一つ。先ずは身を浄め、座敷を調えねばならない。吉野は月の穢れを落としに湯部屋へ下がった。

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