梅香の茶

錦戸琴音

第1話

 吉野はまだ気怠さに重く感じる体を起こした。まだ二十四だというのに、月のものが終わっても、すっきりと気分が晴れず、やたら疲れやすい。この年に入ってからは、血の下りだす忌み日が来ると、座敷を休むことが増えた。


 吉野は傾城の一人。その身を置く見世は、尾道にある遊興の町の中でも三指に入る大見世で、二階建ての見世構えを持つ。

 部屋の障子を開けると、重箱に小さな箱を押し詰めたような町の姿が見える。格子の先で大小の見世や茶屋、貸座敷を持つ旅籠の屋根が朝の陽を受けていた。跳ね返された光が吉野の目に届いて、その眩しさに目を細めた。

 

 見世や旅籠が軒を連ねる通りには、不揃な建屋の合間を這うように巡らされた小路が複雑に絡み合う。それでも霜月の冷たい風が、すぐ先の尾の浦から潮の香を連れて吉野の頬を撫ぜた。町の者が新町と呼ぶこの一帯は、まだ目を覚ます前のまどろみの中にあった。


 吉野はそのまま腰を下ろして、下屋の瓦に目を落とす。陽に溶けた霜が瓦の継ぎ目を僅かに湿らせていた。

 年季が明けるまで、あと三年――

 胸の内で呟いた吉野は顔を見上げた。屋根に遮られた空は酷く狭苦しかった。



 吉野は貧しい村に生まれた。山に囲まれ、田には藺草を植え、渋柿が実れば干し柿を吊るす。山で採れたものと合わせて町に売り、細々と年貢を賄っていた。

 その頃、遠く奥州一円に甚大な飢饉が襲った。それは諸国にも重い影を落とし、後に天明の大飢饉と呼ばれることになる。


 安芸の国外れにある尾道の町でも、廻米ばかりが湊を出入りして、町や周辺の村に口米は回らず、その値が吊り上がった。麦や稗、粟まで高値がつくようになっては、村にとって大きな打撃になった。

 僅かな金で穀物を手にいれようとすれば、すぐに金の底も尽きた。雑穀さえ手に入らないのであれば、吉野の身内も村の衆も痩せさらばえた。かろうじて田畑を持つ農民は土地を手放し、小作人に身を落として凌ぐも、その財さえ持たぬ者達は飢えに耐え、食うものを探して回った。


 不作の年が度々と村を見舞い、放棄された藺草田や遅れて伸びる藺草の穂が目につくようになる。

 爪に火を灯す暮らしをしても難渋する者が増え、耕作を手放し離散する者がいた。村を裏切るとしても、飢え死にするよりましというわけである。

 

 村に残る者も同様で、返す当てもなく庄屋や金貸から金を借りるしかなかった。やがて積み上がった借財を返す為に、娘は町に、末子の息子さえ旅芸人やらに売られてしまう。

 それが、吉野の育った村の風景だった。幼かった吉野もいずれはと受け止めて、そのとおりに町へ連れてこられたのだった。


 こうしてこの町に辿り着いたのが、十数年前。吉野はその頃を思い出す――


 潮の香立つこの町は、多くの船を迎える。湊で商う者達は方々から集まる船衆らを遊興の町で歓待する。

 新町は歓楽を求める男衆を迎え入れるために、多くの傾城や芸者を集めた。

 そして見世の衆らは寄り集まり、新町一の華と称えるに相応しい者を選び出し、これを太夫と呼んだ。


 吉野にとって幸運だったのは、引き受けられた見世に東雲がいたということだ。

 折しも、東雲は新町の衆によって太夫へと推挙されたばかりの頃であった。


――太夫と呼ばれるなら、わいに禿をおいとくれ。


 東雲は大事な客の世話をさせるのだからと、恥をかかぬよう自分で見定めると言った。東雲の言い分には筋があるとして、見世のお内儀は禿になりそうな年頃の娘を数人呼び集めた。

 この中に来たばかりだった吉野も呼ばれた。


 娘達を前にして東雲は「梅と聞いたら、何を思うか」と問うた。

集まった娘達は問われた意も不確かなまま、花の色、香り、梅の実といった答えを連ねた。最後に吉野の番が回ってきた。


 思っていた答えは出尽くして、吉野はしばし迷う。村に咲く梅を思い出した時、咄嗟に呟いた。

「――雪解け」

 この問答一つで、東雲は吉野を自身の禿に選んだ。

 吉野の答えに東雲が満足したのか、求めたものだったのか。吉野には分からなかった。


 東雲は容姿端麗であるだけではなく、高い教養を備えていた。胸の膨らみが出始める頃では遅い見世入りだったが、既に東雲は和歌を詠み、琴を覚えていたという。

 東雲は決して自分の出自を語らず、誰が尋ねても微笑んで躱してしまう。その立ち振舞いに品の良さを滲ませて、元は武家筋か大商家の娘かとも噂されていた。


 吉野は東雲から禿として多くのことを学んだ。

 貧しかった吉野は余り字を知らず、ましてや楽器にさえ触れた事がない。事あるごとに吉野は頭を悩ませた。

 東雲は寺子屋で使うような教本さえ取り寄せて、吉野に読み書きを初めから覚え直させた。それから、和歌に習字。東雲が見世に入ってから身に着けたという三味線に至るまで。まるで妹のように可愛がる東雲に、吉野は懸命に応えようと必死で覚えた。


 東雲が機嫌のいい時には、吉野を囲碁に誘った。東雲の相手になるはずもなかったが、おかげで吉野も多少の心得を覚えた。客相手にも囲碁を指す東雲に、誰から教わったのかと尋ねると、ほろりと返事を漏らした。


――兄上様じゃ、一度も敵わなかった。

 その言い方が気になって、吉野はつい生まれを問うた。

――野暮なことを聞きなんな。

 はたと一呼吸押し黙った東雲は、そう言った。

 そして、いつものように笑っていなされた。それからは深入りして聞いたりもしなくなった。


 禿になり損ねた娘達は、お内儀や芸達者な部屋持ちのあね様方から手ほどきを受ける。手の空く間をみつけては、昼も夕もなく躾けられていた。反して、東雲に預けられた吉野は、三味線や舞は毎日欠かさず続けろというほかは、余り小うるさい事は言われなかった。


 かわりに所作や立ち振舞いには厳しかった。

――芸事は続けていくうちに達者になる。けれど、振舞いに気を抜いてしまえば、折角の佇まいもすぐに消えてしまう。

 吉野はこの小言を東雲に何度も言わせた。


 東雲は客を出迎えるための準備を怠らず、当然、吉野にも同じように事を当たらせた。

 客毎に座敷に飾る花も香も異なる。さらにはその座敷で点てるかどうかも分からない茶の椀にまで気を配った。茶を点てずとも風炉に火を入れ、湯を調えておく。

 吉野が茶を得意とするようになったのも、必然だったやもしれない。


 こうして、吉野は東雲の下で所作や芸事を磨き、水揚げされる歳にも近づいた頃。

 ある時、座敷に飾る花を何度直しても、東雲は気に入らなかった。

 最後には「そんなんじゃ、御前は用無しじゃ」となじられて、吉野は部屋の隅で小さくなった。

 東雲は何度も直されて痛んだ花を諦めて、自ら水仙の花を添えて飾った。


 その夜の客が八利の旦那だとは吉野も知っていた。何故か若い手代まで客だと言われて戸惑った。すぐに東雲は吉野に碁盤を用意させ、手代と碁を指し始めた。その局面を旦那は興味深く眺めながら、酒を楽しんでいた。


 打たれる碁石の音が、座敷に澄んで響く。吉野は対局に見入る客の盃が空にならぬよう注意を払い続けた。

 不意に石を置く音が止まった。

「御前様の手は、わいの顔でお決めなさるのか」

 何度も東雲の顔を隙見ては石を置く。ずっと繰り返していた手代は額を拭った。


 手代は膝に手を揃えて体を竦める。この町で唯一の太夫を目の前に、ついぞ見惚れて伺い見てしまったと詫びた。

「こうしているのが、夢のようで」

「夢と思えば、お楽しみなされ。白も黒もどうせ覚めたら、朝霧に消えてしまう。わいの顔とて、減りもいたしませぬゆえ」

 手代は東雲の置いた黒石をしばし見つめた。


 一度、手代は八利の旦那の顔を仰いだ。無情にも旦那は小首を傾げたまま笑むだけであった。手代は仕方なしに茶を一口含むと、大きく息を吐いて呼吸を整えた。手代の白石が、ぱちんと一際高い音を立てた。


 この後、手代はまっすぐに盤上を見つめ、東雲の顔を伺い見ることもなく、石を置く。盤面は一気に手代の優勢となり始めた。

 東雲が手を止めて悩み始めだすと、手代は顔を上げて目を合わせた。


 手代は促すように東雲に一笑みかけると、静かに盤の一点に視線を落とす。

東雲がその視線を追い、ほんの少し手を躊躇わせる。もう一度、確かめるように手代へ目を戻した。

 手代は東雲の黒石が置かれるべき交点を清々と見つめ続けていた。


 東雲は手代の誘いに乗じて、やおら黒石を視線の先へと置く。数手ほど進めた先に東雲が幾つかの地を取り返した。

 ここで手筋の理が腑に落ちたのだろう、東雲の吐息が漏れた。

 東雲の顔を見て、手代は幾度か頷く。

意を通い合わす愉楽が、そのまま手代の顔に表れていた。


 吉野は微かな笑い声に気付いて、旦那を見上げた。旦那が嬉しそうに目を細めて、手代の様子を眺めている。

 局面は手代が優勢と示しているが、東雲に譲るような形で地目を取られたばかり。それに手代が顔を向けた折にも、旦那は一声もかけてやらなかった。

 東雲を贔屓しているとしても、勝機があるとは思えない流れに、旦那は何を見て喜んだのだろう。吉野は首を傾げた。


「旦那様は何故か嬉しそうにしなさって」

「御前さんは、あの二人が何を話しているか。分かるかね」

 碁石を指し合う二人が特段に声を交わしているわけでもないのに、珍妙な問いだった。


 話をしているというよりも、手代が視線を使って、手を教えているようにしか見えなかった。それを受けて、東雲は指し合う手を噛み含もうと盤に目を落としている。

「手代様がご指南にきんさったの」

 そう問い返す吉野に八利の旦那は、逆だよと言って笑った。


 手代は商家衆の内でも噂になるほど、囲碁の才を持つ。取引相手との用事ついでに、その相手先から手合わせをよく頼まれた。手代は商売相手に気を遣うあまり、勝てる相手にも顔色を窺う。手代が自身の手を見失わぬうちに、東雲に相手を頼んでいたのだと旦那は話した。


「負けを手放した代わりに、妙手を与えるとは。あいつらしいことよ」

 それも東雲のおかげだと言って旦那は満足な顔をする。

「それはようございました」と吉野は笑って見せた。


 しかしながら吉野は内心に驚いていた。つまり、今夜の客に手代が訪れることを東雲は知っていたのだ。

 対局中、吉野が点てた茶で、手代は喉を潤していた。手代の邪魔をしないよう静かに差し出した素朴な茶碗。それを吉野はぼんやりと眺める。

 どこかでお内儀かみが東雲に伝えたのであろうか。東雲がいつの間にか茶碗を忍ばせたのだと気付いて、吉野は己を恥じた。


 局は東雲の番。手を止めた東雲に石を置く先を、手代がまたもや目で伝えようとした。

 東雲はこれを遮って、盤上に目を落とすと、しばし黙考に沈む。その真剣な姿勢を貴び、静かに待つ手代は、それこそ東雲に見惚れていた。


「今宵の東雲は良い顔をしている」

「太夫は、碁に夢中になってしもうて」

「よいよい。それとて眼福というもんじゃ。今宵の事、御前さんには、ちいと早かったかものう」

 旦那の指先が吉野の鼻先を弾いた拍子に、ぱちりと音が重なる。東雲が黒石を置いた音であった。


 手代が望んでいた場所に東雲の石が乗ったようで、称えて笑む手代の口から白い歯が見える。口元を隠して目を細めた東雲は微かに紅潮していた。

 東雲にとっては渾身の一手。手代の地目を減らしはしたものの、局の流れを変えるには至らなかった。

 当然というべきか。手代が正直に勝ちを収め、碁笥の蓋を閉じた。


 手代は碁の相手をした東雲と、その場を許した主人へ慇懃に礼を述べた。

「最善の手を求める東雲太夫のひたむきなお姿を前に、無闇な手心は浅はかであったと教わりました」

「また打ちにきやれ」

 恥じ入る手代に東雲はたおやかな微笑みで応じた。


 本来、手代身分では座敷にも上がれぬ。東雲の最後の心遣いと、手代は受け止めて深く頭を垂れた。尚も切なく愛想笑いをした手代の肩に、旦那が手を置いた。

「久しぶりに良い囲碁を見たよ。その心持ちでいいんだ。そうだ、次に来る北前の船一艘、御前がきっちり荷をおさめさせたら、また連れてきてやってもいいぞ」

 荷の重い旦那の言に、手代は目を小さくして鬢を掻くだけだった。


 座敷は白檀を基調とした香を漂わせている。その柔らかい薫りの奥深くに、つんと刺す辛みがある。八利の旦那が好む香りが満ちた頃合は、座敷の終いを告げていた。


 客を見送ると、東雲は以前、八利の旦那から聞いた話を語り始めた。

旦那は商いの手隙に、手代を呼んで囲碁の相手をさせる。そのついでに漢詩や論語の話なども聞かせていた。


――宋の詩にある。天上に住む天女は地に降りず、水辺にある水仙にその姿を映す。

 その詩のくだりを話していると、手代は遠目に見た東雲の姿を思い浮かべたという。


 手代が座敷に上がれる機会など滅多とあるものではない。座敷を支度している時にでも、この話を聞いていれば、吉野は水仙を添えたはずだった。


「花の誂えで叱った理由わけに、気付いたか。」

 東雲に問われて、吉野は頭を垂れた。

 吉野は今夜の客がどういう趣で訪れるのかを尋ねなかった。叱られるのも道理。

慣れにまかせて座敷を調えようとしたと素直に認めて、吉野は詫びた。


「そうじゃ。御前は何も尋ねなかったから、何も教えなんだ」

 太夫としての面目を汚さぬよう、東雲は座敷の調えに一切の妥協をしない。それでも敢えて黙っていたのだ。


 吉野は唇を噛んで、手代の姿を思い出す。人の顔色を窺うばかりに碁の才を持て余した手代と同じ。

 勝敗の矛先を迷った手代が主人に顔を向けた時、八利の旦那は何も言わなかった。

 今夜の座敷もいつもどおりと決めつけた吉野に、東雲は支度の手を止めさせた。

 どちらも言を吞み、自ら気付くのを待った。――それは慢心。


「わいの恥は御前の恥じゃ」

 吉野には水揚げの相手探しが始まっていると明かされた。まず打診したのは八利の旦那。

 その八利の旦那とて、とうに吉野の手抜かりを見抜いていた。それでも酌をさせたのは、場を崩さずに、黙って座を楽しむ洒脱さゆえ。

 そのような人物だから、吉野の相手として当たりをつけていたと東雲が語る。


 吉野は、はたと旦那の言を思い出した。

――御前さんには、ちいと早かったかものう。

 水揚げの事も含んでいたと気付いて、吉野は青くなった。

 その顔を見て、東雲は静かに頷いた。


――禿の茶を飲み損ねたから、また改めて顔を出す。

 帰り際、八利の旦那は東雲の耳許に寄せた言。吉野の手を取り、東雲は旦那が土産にくれた小さな包みを持たせた。

「精進おし」

 水揚げの縁は流れ、代わりに渡された包みを吉野は見つめた。


「御前の恥は、わいの恥じゃ」

 この言を聞いた吉野が顔を上げると、東雲は小さく鼻を鳴らして目を細めた。

「いずれ、そそいでやろうじゃないか」

 そう言って東雲は障子窓を開けた。障子の隙間を抜けて、座敷に留まる香が流れ出て行く。


 顔を戻した東雲が、吉野に渡した土産の中身を一粒よこせと笑う。包みを開くと幾粒かの金平糖が、きらりと部屋の灯を受けて跳ね返した。

 二人で金平糖を口に含んだ時、――もう、気は抜かぬと、吉野は誓った。



 吉野が東雲の禿として過ごした数年間。中でもこの夜のことは、はっきりと覚えている。

 きっとこの先も、忘れられそうもないと、吉野は振り返っていた。

 裏手口の方から魚屋の声がする。気付くと、小女が中庭を掃いていた。新町は、ゆっくりと目を覚まし始めていた。

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