5話 酒宴 荊州の風を杯に満たし飲み 泥臭き友は未来の影を憂う

【思慕の涙】




軍議が散会となり、私が地図を巻き終えて立ち上がろうとした時だ。 岩のような手が、私の肩を掴んだ。




「巨達。付き合え」




私の字を呼ぶ大男。魏延であった。


拒否する隙も与えぬ力強さで、私はそのまま彼の私邸――といっても、戦場に持ち込む天幕をそのまま広げたような、武骨な一室へと連れ込まれた。




出されたのは、飾り気のない陶器に並々と注がれた強い酒と、炙った干し肉のみ。 魏延は、私の杯に有無を言わさず酒を注ぎ、自らも一気に呷った。




「……うめえな。久々の酒だ」




口元の酒を乱暴に拭い、彼は吐息と共に呟いた。 軍議での殺気立った様子とは違う。その瞳は、酒気によって僅かに潤み、どこか遠くを見ていた。




「巨達。儂はな、毎晩夢を見るのだ」


「夢、でございますか?」


「ああ。……夷陵の夢だ」




その言葉に、私は息を呑んだ。夷陵の戦い。先帝・劉備様が、義弟・関羽の仇を討つべく呉を攻め、陸遜の火計によって壊滅的な敗北を喫した、あの悲劇だ。


魏延は、杯を握り潰さんばかりに力を込めた。




「あの時、先帝は儂を漢中の守りに残された。『お前しか北の蓋は任せられん』と仰ってな。……光栄だったさ。だがな!」


ドン! と机が悲鳴を上げる。


「儂が! もし儂が先鋒として夷陵にいたら! 陸遜の小童ごときに、先帝の御陣を焼かせはしなかった! 儂が火の中を突き進み、陸遜の首をねじ切ってやったものを!」


彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは悔恨の涙であり、亡き主君への断ち切れぬ思慕のしずくであった。


「先帝は、この無骨な儂を拾い上げ、将として重用してくださった。この命、この武勇、すべては先帝にお返しするためにあるのだ」




魏延は涙を拭おうともせず、私を見据えた。


「だからこそだ、巨達。今回の北伐、儂は孔明殿に従う。あの方のやり方は、儂に言わせりゃ慎重すぎて欠伸が出る。だがな、あの方もまた、先帝の夢を背負って生きていることだけは、痛いほど分かるのだ」


「文長……」


「丞相が法で道を作るなら、儂はその道を切り開く剣になろう。どんな汚れ役でも、捨て石でも構わん。漢室再興の旗が長安に翻るなら、この魏延、笑って死んでやるさ」




その熱情に、私は胸を打たれた。 彼はただの粗暴な男ではない。その胸中には、誰よりも純粋で、誰よりも熱い「漢の情」がたぎっている。




【追憶と共鳴】




文長の流す熱い涙を前に、私の胸の奥底に沈殿していた澱のような感情もまた、静かに揺り動かされていた。




「文長……。その飢えにも似た無念、痛いほどに響く」


私は自身の杯を見つめながら、ぽつりと漏らした。




「私もまた、先帝・劉備様の後ろ姿を追い続けた一人だ。文長のように剣を振るうことはできぬが、先帝が平定された荊州、益州の各地を巡り、不安に怯える領民を慰撫し、法と情をもって民心を繋ぎ止めることに、この半生を捧げてきた」


文長が濡れた瞳を上げ、じっと私を見つめている。




「夷陵の戦い……あの時、私は成都にあって、前線へ送る兵糧と矢をかき集めていた。来る日も来る日も、桟道を往く荷駄の列を見送りながら、必勝を信じていたのだ」


私の手の中で、杯が微かに震えた。


「だが、届いたのは敗戦の報せと、焼け焦げた軍旗のみ。……あの時、成都に残った私に、他にできることはなかったのか。もっと早く、もっと多くの物資を、あるいは別の何かを……。その問いは、今も私の夜を蝕むことがある」




私は顔を上げ、文長の目を真っ直ぐに見返した。そこには、同じ傷を持つ者だけが共有できる、痛切な共鳴があった。


「先帝亡き後、南蛮への遠征、そして此度の北伐。私が老骨に鞭打ち、友である丞相をひたすらに支え続けてきたのは、それが生き残った者の責務だからだ。あの敗戦で失われた多くの命と、先帝の無念に報いる道は、もはやこれしかないのだ」


「巨達……」




文長が低く唸るように私の名を呼んだ。 武人と文官。生きる世界も、戦う術も違う。だが、根底に流れる「先帝への忠義」と「過去の悔恨」という熱い血潮は、私たちを固く結びつけていた。


「違いない。……我らは、同じ夢の燃え滓を抱いて生きているのだな」


文長は力強く頷くと、再び自身の杯に酒を満たした。その仕草は、戦場での荒々しさとは無縁の、まるで古い傷跡を労わるような静けさを帯びていた。




【遠き追憶】




一口、酒を含むと、魏延の顔から険しさが消え、夕暮れのような懐かしむ色が広がった。




「……ふと、思い出した。巨達と初めて顔を合わせたのも、荊州の赤土の上だったな」


「ああ。先帝がまだ、新野の小城から曹操の大軍から逃げおおせていた頃だ」


私もまた、酒の香りと共に記憶の蓋をそっと開けた。




「あの頃の我々は、何も持っていなかった。土地も、兵も、金も。あるのは先帝という一人の御旗と、その徳を慕って集まった、熱病に浮かされたような志だけだった」


魏延が膝を叩いて笑った。その笑い声は、腹の底から響くような温かさを持っていた。


「全くだ。儂もあの頃は、ただの部曲(私兵)の隊長に過ぎなかった。食うものにも事欠く有様だったが、不思議と腹が減った記憶がない。毎日が、新しい国を作るという熱気に満ちていて、それだけで腹が膨れていたのかもしれん」


「文長殿は、当時から猪突猛進でしたな。逃げ惑う民を守るために、退路も考えず曹操の大軍の只中へ突っ込んでいった姿、今でも鮮明に覚えておりますぞ」


「はっはっは! あの時は若かった。……だがな、巨達。儂はあの時、あんたの背中を見ていたんだ」




魏延は目を細め、遠い日を見る目をした。


「混乱の極みの中で、剣も持たず、一粒の米もこぼさぬよう民に配り歩くあんたの姿だ。『ああ、この人は我らとは違う戦い方で、先帝の義を守っているのだ』と、妙に腑に落ちたのを覚えておる」


文長殿の言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。武官と文官、交わることの少なかった二つの道が、あの泥だらけの戦場で、互いの「義」を認め合い、確かに交差していたのだ。


「あの頃の空気は、今の成都の宮中とは違う。もっと泥臭く、粗野で……だが、どうしようもなく温かかった」


魏延の声が、ふと寂しげに沈んだ。彼は杯を見つめたまま、独り言のように呟いた。


「孔明の築かれたこの国は、美しい。氷のように澄んで、塵一つ落ちておらん。……だがな、巨達よ。 ふと、夜風に吹かれると思うのだ。 泥にまみれて、大笑いしていたあの頃の、先帝の……あの熱い手の温もりが、どうしようもなく恋しくてたまらんと。 ……俺たちは、随分と遠く、綺麗な場所まで来てしまったな」


「ええ。……本当に、遠くまで」




私たちは顔を見合わせ、苦笑した。 それは、失われた「熱」を知る者同士だけが共有できる、甘美で切ない痛みだった。法と規律に縛られ、冷たく磨き上げられた今の蜀漢で、この夜の酒宴だけが、かつての荊州の風が吹き抜ける、唯一の場所のように思えた。




【懸念】




だが、魏延はふと酒を注ぐ手を止め、眉間に深い皺を刻んだ。 先ほどまでの激情とは違う、得体の知れない何かに怯えるような、困惑の色が浮かんでいた。




「しかしな、巨達。……妙な胸騒ぎがするのだ」


「胸騒ぎ、ですか?」


「ああ。……楊儀だ」




彼はその名を口にするだけで、口の中に苦いものが広がったかのような顔をした。


「あやつらが何か悪さを企んでいるとか、そういう単純な話ではない。ただ……」


魏延は言葉を探すように、虚空を睨んだ。




「あいつの纏う空気が、どうにも肌に合わん。戦場の匂いがせんのだ。かといって、ただの文官の墨の匂いとも違う。もっと冷たくて、乾いた……そう、生き血の通っていない人形のような、不気味な気配だ」


彼は自分の首筋をさすった。


「長年、死地を潜り抜けてきた儂の勘が告げている。『近づくな』とな。あいつが側にいると、背後から冷たい風が吹き抜けていくような……そんな気色の悪さを感じる」


具体的な根拠など何もない。だが、猛獣が天変地異を前に毛を逆立てるように、魏延の本能が、冷たい能吏の奥底に潜む「何か」を察知し、警戒しているのだ。


「うまく言えんがな。……その『つかみ所のない冷たさ』が、いつか取り返しのつかない亀裂を生む気がしてならんのだ」


魏延は私に顔を近づけた。酒の匂いと共に、切実な危機感が漂ってくる。




「巨達、あんたは分かってくれるな? あんたの兵站には、兵への情がある。だから儂はあんたを信じる。……頼むぞ。もしその『亀裂』が現実になった時は、丞相を、この軍を支えてやってくれ」




魏延はそう言って、不安を振り払うように豪快に笑おうとしたが、その笑顔はどこか強張っていた。


私は、この猛将ですら言葉にできない不安の正体を、まだ知る由もなかった。だが、彼の直感が外れたことなど、これまでの戦場で一度としてなかったことだけは、知っていた。


(この男を、死なせてはならぬ)


私は、文長と杯を合わせながら、強くそう思った。だが同時に、彼が感じ取った「見えない影」が、音もなく我々の足元に忍び寄っているような予感に、微かに震えた。

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次の更新予定

2025年12月28日 06:00
2025年12月28日 18:00
2025年12月29日 06:00

丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。 こくせんや @kokusenyateiseikou

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