3話 軍議 才子の策は祁山の道を描き 猛将の牙は子午谷の闇を噛む
【才気溢れる戦略】
出師の儀を終えた後、場所を軍議室に移し、具体的な作戦会議が開かれた。 机上には涼州から関中に至る広大な地図が広げられている。
まず進み出たのは、参軍の馬謖と楊儀であった。 二人は呼吸を合わせるように、今回の北伐の主軸となる作戦を披露した。
「まず、趙雲将軍には副将鄧芝将軍と共に二万の兵を率い、陽動として箕谷道を北上、各地に宣撫しつつ、郿城を目指していただきます。我が蜀軍の本体であると誤認させ、迎撃に来るであろう魏本軍を引き付けていただきます。」
「我ら本隊八万は、全軍で西方へ大きく迂回。一気に祁山へと進出し、魏の防備が手薄な天水を急襲、これを平定いたします」
「我らの北攻に合わせ、呉は多方面から魏に侵攻、また上庸の孟達、北方では鮮卑族の大人、軻比能が時を同じくして并州にて兵を挙げる手筈となっております」
「我らが天水を陥落に契機とし、南安・安定の両郡では、亡き馬超将軍の遺臣や月氏族も我らに同調する約を結んでおります。」
馬謖が流暢に策を語り、楊儀が無駄のない手つきで地図上に駒を進めていく。 それは、あまりにも完成された、隙のない演舞のようであった。事前に丞相諸葛亮と入念な打ち合わせ済なのであろう。上座でその説明を聞く丞相・諸葛亮は、微かに、だが満足気に頷いている。
「その後、西方の隴西方面には、呉班将軍と、参軍の廖化殿に向かっていただきます。羌族との太いパイプを持つ廖化殿ならば、武力を用いずともかの地の鎮撫は可能でしょう。」
呉班と廖化が、短く拝命する。堅実な人選だ。
「北方の武威方面には、高翔将軍。長駆遠征となりますが、経験豊富な将軍の手勢であれば、遊撃的に魏の背後を脅かし、涼州を分断せしめることができるかと」
「承知!」高翔が力強く応える。
「そして」「長安方面から迎撃に向かってくるであろう魏援軍の迎撃、この街道が合わさる場所『街亭』には・・・」
【牙】
その整然とした空気を、一陣の爆風のような声が吹き飛ばした。
「ぬるい! 茶が冷めるほどに迂遠だ!」
地図の端を、分厚い掌が握り潰さんばかりに掴んだのは、魏延であった。 彼は地図の西側を一瞥もせず、険しい山脈が連なる東側――子午谷を、まるで獲物の喉笛を指すかのように短剣を投げ突き刺した。
「丞相。そんな散歩のように遠回りをしていては、長安の城門は固く閉ざされますぞ。儂に手勢五千……いや、死に損ないの決死隊を預けてくださればいい」
魏延は爛々と目を輝かせ、まるで極上の獲物を前に舌なめずりをする猛獣のように、口の端を吊り上げた。
「長安の守将・夏侯楙。やつは親の威光だけの腰抜けよ。儂が子午谷の崖を這い登り、泥まみれの顔で城壁に立てば、奴は戦う前に小便を漏らして逃げ出すわ!」
その言葉は冗談めいていたが、誰も笑えなかった。彼の十年以上に及ぶ魏への対抗、緻密な情報収集が、それが冗談ではなく「確信」であることを物語っていたからだ。彼は、死地へ飛び込むことを、至上の喜びとしている。
「二十日だ。二十日で長安を落とし、首級を並べて酒盛りの準備をしておく。そして陥とした長安を寝床に二月は耐えてやる。その間に全て平定して長安に酒を飲みに来るがよい。もし二ヶ月以上かかろうとも、儂の屍しかばねを魏軍への手土産にすればよかろう! はっはっは! なんと安い賭けではないか!」
豪胆、などという言葉では足りない。彼は自分の命すら、戦場の賭け銭として、惜しげもなく投げ出そうとしている。その狂気じみた明るさに、歴戦の武官たちでさえ、一瞬息を呑み、そして遅れてドッと沸いた。
「魏延将軍なら、長安の門だけでなく、地獄の釜の蓋も蹴破りそうだ!」 「違いねえ! 儂もその一番槍、付き合いたいものですな!」
その熱狂の中で、馬謖と楊儀だけは、汚らわしい物を見るように顔をしかめていた。 「野蛮な……。兵法を何と心得るか」 楊儀が吐き捨て、馬謖は軽蔑の色を隠そうともせず魏延を睨んでいる。
「魏延将軍」
その低く静かな声が、場の熱気を鎮める。
「貴殿の勇気、そして敵の喉元を食いちぎらんとする牙の鋭さ、しかと見た」
諸葛亮は、魏延の提案を否定せず、しかし肯定もしなかった。ただ、その眼差しは、暴れ馬の手綱を握る御者のように冷徹で、かつ深かった。
「だが、虎を兎狩りに使うわけにはいかぬ。魏将軍は、我が軍の『牙』そのもの。貴殿には、捨て石などではなく、その爪と牙で敵の肉を抉えぐり取る、最高の狩り場を用意しています」
「……ほう」
魏延は目を細めた。却下された不満よりも、「最高の狩り場」という言葉への血の騒ぎが勝ったのか、彼はニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「丞相がそこまで仰るなら、その獲物、楽しみに待つとしましょう」
彼は鼻を鳴らし、不満げながらも引き下がった。だが、その全身からは、「いつ解き放たれるか」という危険な期待感が立ち昇っていた。
【静かな不協和音ノイズ】
私は、安堵の息を吐くと同時に、背筋が凍りつくのを感じた。
馬謖が憤然として頭を下げるその横で、私はふと、楊儀の横顔に視線を走らせ。そして私は見てしまった。
彼は、地図上の駒を静かに整えていた。その所作は、礼節そのものであり、一分の隙もない。 だが、その整然とした動作の合間に、彼の薄い唇が、ほんのわずかに――糸のように細く――吊り上がっている。
それは、同僚への励ましでも、作戦の成功を喜ぶ笑みでもない。 馬謖の張り詰めた自尊心と、武官たちの粗野な嘲笑。その二つがぶつかり合い、軍議の場に生じた不協和音ノイズを、まるで極上の音楽のように楽しむ、冷酷な愉悦の笑みであった。
「……完璧な布陣でございますな、丞相」
楊儀は顔を上げると、その奇妙な笑みを瞬時に消し去り、いつもの能吏の鉄面皮へと戻っていた。 その声は平坦で、法と規律に則った忠実な部下のものに過ぎない。
誰も気が付かない。 熱狂する馬謖も、豪快に笑う魏延も、そして全てを見通しているはずの諸葛亮でさえ、まだ気づいていないようだった。張り詰める空気の中、諸葛亮は静かに羽扇を揺らした。
計算高い文官たちと、血に飢えた猛獣。そして、それを言葉一つで檻に留める諸葛亮。 この軍は、あまりにも危ういバランスの上に成り立っている。もし、その「檻」である諸葛亮がいなくなれば、この均衡は一瞬にして崩壊し、誰も彼を止められなくなるのではないか――。
地図の上に交差する視線は、来るべき悲劇の火種を、既に孕んでいるようであった。
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