2話 出師表 若き帝の涙は白袖を濡らし 出師の決意は静寂を切り裂く
【出師表】
その日、成都の宮城を支配していたのは、呼吸すら憚られるほどの静寂であった。
私は出征軍の長史(参謀長)として、丞相・諸葛亮のわずか一歩後方に控え、その背中を見つめていた。
彼の細身の背は、以前よりもさらに一回り小さくなったように見える。かつては瑞々しい光沢を放っていた黒髪には、白いものが無数に混じり、冠の下から覗く首筋は、皮と骨だけになったかのように痛々しく痩せ細っていた。
私は彼より一回りも年長である。だが、今、目の前に立つ友の姿は、私よりも遥かに長い時を生き、老いさらばえたかのように映る。
それは、先帝亡き後の数年、この国のすべてをたった一人で背負い、一分一秒たりとも心を休めることなく、その命を削り続けてきた代償であった。
その姿を見るたび、私の胸は締め付けられるような悲痛な情に襲われる。友よ、なぜそこまで己を犠牲にするのか。
だが、その枯れ木のような身体から発せられる気迫は、まるで冷たい刃やいばのように張り詰め、廷内の空気を切り裂いていた。
彼の手には、一巻の書簡。後に『出師表』として歴史に刻まれることになる、若き皇帝・劉禅へ奉る上奏文である。
「先帝、業を創めて未だ半ばならずして、中道に倒れました。今、天下は三分し、益州疲弊しています。此れ誠に危急存亡の秋ときなのです……」
孔明の声は、決して高ぶることはなかった。静謐で、低く、しかし一言一句が鉄の重みを持って、玉座の若き皇帝へ、そして並み居る百官の肺腑へと染み渡っていく。
それは単なる決意表明ではない。亡き先帝・劉備との血の契約であり、この小国・蜀漢が生き残るために、自らの情をすべて凍てつかせ、法という名の規律に命を捧げたという、凄絶な宣言でもあった。
「後事は、郭攸之、蔣琬、費禕、董允らに任せてくださいますよう。彼らは先帝が選ばれた、誠実で思慮深き優秀な臣下です。 軍事については、向寵に相談してください。彼は経験豊富で、先帝が有能だと称された将です。」
皇帝劉禅の元に残される官吏・将軍らも、彼諸葛亮によって選ばれた。しかし、残された者は僅かばかり。篤実な彼らならば、此度の遠征が、万が一最悪な事態となったとしても……適切に判断できるであろう。
他にはこの場にはいない、諸葛亮とともに先帝劉備様の遺命を受けた西の抑えとして李厳将軍が残るくらいか。
「賢臣に親しみ、悪人を遠ざけたことが、前漢が栄えた理由です。逆に、小人に親しみ賢臣を遠ざけたことが、後漢が衰退した理由です。どうかこの歴史の教訓を忘れないでください。陛下におかれましては、良き政治については残る臣下の者に相談なされ、先帝の御志を引き継がれてくださいませ。私はこれまで受けてきた御恩に対して感激が絶えません。 ここに私からの言葉を残し、これから国を遠く離れて出陣いたします」
朗読が終わると、孔明はゆっくりと深く、床に額を擦り付けるように平伏した。
私は息を詰めた。
彼のその姿は、臣下としての礼を超え、未だ独り立ちできぬ我が子を案じつつ旅立つ、老いた父のようでもあった。
【師父】
長い沈黙が流れた。
玉座の上で、若き皇帝・劉禅が動いた。
「相父よ」
劉禅は玉座から立ち上がり、階段を一段、また一段と降りてきた。侍従たちが慌てて止めようとするのを手で制し、平伏する孔明のすぐ目の前まで歩み寄った。
「その……面を上げてくれ、相父」
その声は震えていた。威厳よりも先に、隠しようのない思慕が溢れ出していた。孔明がゆっくりと顔を上げると、劉禅はその細い両手を、自らの温かい手で包み込んだ。
「父上が逝かれてより、朕にとって相父だけが頼りであった。……その、その相父が、老骨に鞭打ち、険しき北伐の途へ就こうとしている……」
劉禅の瞳に、涙が滲んでいた。それは皇帝としての涙ではない。父の背中を追う息子の涙だ。
「朕は、兵法のことはわからぬ。……天下の趨勢も、相父ほどにはわからぬ。……だが……だが、相父の心にある義だけは、痛いほどにわかるのだ」
劉禅は、孔明の手を強く握り締めた。
「行かれよ。軍事いくさごとも、政事まつりごとも、賞も罰も、すべて相父の意のままになせ。朕は成都にて、ただひたすらに相父の帰りを待つ。……だが、一つだけ。たった、一つだけ。」
劉禅は声を詰まらせ、幼子のように懇願した。
「必ず、生きて戻ると約してほしい。……その、相父を失っては、朕は……この国は、立ち行かぬ」
「生きて戻れ」悲願を果たすべく出征する将にかける言葉ではないかもしれない。だが、優しき皇帝は、そう願わずにいられない。
孔明の冷徹な瞳が、一瞬だけ揺らぎ、潤んだように見えた。彼は再び深く頭を垂れた。
「陛下……この孔明、身命を賭して、必ずやご期待に沿い奉ります」
その光景は、君臣の契りを超越していた。そこには、理屈や法では説明できない、魂の結びつきがあった。劉禅の全幅の信頼という「情」が、孔明の背負う「法」の重さを、極限まで高めていたのだ。
その光景は、君臣の契りを超越していた。そこには、理屈や法では説明できない、魂の結びつきがあった。
私は、胸の前で捧げ持った笏しゃくの裏で、震える指先を強く押し付けた。陛下の言葉がもたらした熱情が、老いた私の胸郭を内側から軋ませる。大きく一つ、音にならぬ喉の奥の熱い息を吐きだす。
【それぞれの想い】
廷内が静まり返る中、その静寂を破ったのは、低く、押し殺した嗚咽であった。
私は驚いて音の出所を探った。 そこには、蜀漢の武の象徴たる猛将、魏延がいた。
魏延、字は文長という。この度の戦での役職は「司馬」。魏討伐の副官に就任している。
漢中太守として長年北の守りを担い、その顔には無数の刀傷が刻まれ、肌は漢中の風雪に晒されて岩石のように硬化した巨漢である。普段は雷のような大声で部下を叱咤し、敵を威圧するその男が、今は巨大な肩を小刻みに震わせ、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「……先帝、、、、劉備様……」
彼が涙で濡れた髭を拭うこともせず、噛み締めるように呟いたのは、亡き主君・劉備の名であった。
諸葛亮の読み上げた「先帝、業を創めて未だ半ばならずして、中道に崩殂す」という一節が、彼の武骨な胸の奥にある古傷を、鋭く抉ったのであろう。
魏延にとって、漢室再興とは、単なる国家目標ではない。 それは、身分の低かった自分を一軍の将に取り立て、漢中という要衝を任せてくれた先帝への恩義そのものであった。
「ううっ……、うぐっ……あ、あ」
彼は、周囲の視線を気にすることなく、子供のように泣いた。 その姿は、岩塊に亀裂が走り、そこから熱い地下水が噴き出しているかのような、見る者の胸を打つ、あまりにも純粋な悲しみであった。
魏延に続き、宿老の呉懿、趙雲、高翔、呉班ら歴戦の将らが、皇帝劉禅と諸葛亮の熱情に感極まっていた。彼らは亡き先帝劉備との遺命を果たすべく今か今かと戦場への決意で滾っていた。
武官のさらに後方には、王平が控えていた。
岩のように無口で、感情を表に出さない男。異民族の出で位は低い。しかし、彼は魏延のような華々しさはないが、与られた任務と法を絶対とし、決して揺るがない堅実さで名を知られる将である。
そして私が並ぶ左側の文官の列には、武官らと同じく溢れる涙を拭っている後列いる私の部下、姚伷、楊顒。
私の横に参軍の馬謖。そのさらに横には楊儀がいる。
楊儀は、そのむせび泣く声を「計算外の雑音」とでも言いたげに、無表情に一瞥したのを私は見た。 法と規律を重んじる彼のような能吏にとって、公の場での感情の爆発は、理解不能な非効率にしか映らないのだろう。すぐに手元の笏に視線を落としていた。
楊儀。白皙の肌に、感情を隠し薄い唇を堅く引き結ぶ。神経質なまでに整えられた官服は、戦場の塵一つ付着することを許さぬ彼の潔癖さを物語り、糸のように細められた双眸は、カミソリのような危うい鋭さを放っている。
夷陵の敗戦で疲弊した国力を驚異的な速度で回復させ、北伐を可能にしたのは、諸葛亮の「法」を一切の情を排して運用する、彼の精密機械のごとき実務能力ゆえである。
常日頃から楊儀は計算と規律、そして武官達は秩序を乱す野蛮な存在として嫌悪を隠そうとしない。
魏延の武勇と、楊儀の能吏。水と油のごとき二人が、孔明という巨大な蓋によって、辛うじて一つの器に収まっている。
そして私のすぐ隣で、ひときわ異質な熱を放つ若き男。
馬謖、字は幼常。
先の夷陵の敗戦により散っていった白眉馬良の弟である。
彼は、皇帝劉禅と丞相諸葛亮二人のやり取りを見つめながら、瞳を爛々と輝かせていた。その顔には、悲壮な覚悟ではなく、待ちきれないと言わんばかりの高揚が張り付いている。稀代の才子と謳われる彼は、この『出師表』の行間に、国家の危機ではなく、己が才を天下に知らしめる舞台の幕開けを見ているかのようだ。
かつて劉備様が私に語った「言葉は巧みだが危うい」と危惧したその影が、私の脳裏をよぎる。
私は、長史(副官)として、この危うい均衡の上に立つ大軍の、兵站と規律を預かることになる。胃の腑が鉛のように重くなるのを感じた。
丞相が元の位置に戻り、再び鉛のような沈黙が訪れたその時、馬謖は私の方へわずかに身体を傾け、熱っぽい息遣いで耳打ちした。
「向長史。聞かれましたか、丞相のこの文、そして陛下のあのご信頼を!これぞ国士の魂。我々が魏を討つべき義はここにあります。この大義を前にして、我々の才能を存分に発揮せぬ手はありません!」
(幼常……)
私は彼を諫めようと口を開きかけたが、言葉は喉の奥で乾いた音になって消えた。この崇高な「義」と「法」、そして皇帝の「情」が交錯する誓いの場で、彼の慢心を指摘するような個人的な懸念を差し挟むことは、あまりに場違いに思えたからだ。
ふと、私は顔を上げた。
儀式を終え、振り返った丞相諸葛亮と目が合う。
その瞳を見た瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
そこには、劉禅陛下の温かい涙の余韻も、高揚する馬謖への期待も、私への親愛もなかった。ただ、氷の底のような冷たさと、微かな諦念めいた光が宿っていただけだ。
彼は既に決めているのだ。陛下から託されたこの絶対の信頼、この大義を成すためならば、誰か、あるいは何かを切り捨てることさえも。
その冷徹な覚悟が、友である私の「情」とも、いつか激しく衝突し、取り返しのつかない悲劇を生むのではないか――。その拭い難い予感が、私の胸に深く、鋭い楔となって打ち込まれた。
【才気】
上奏の後。宮城から去り際、隣りにいる馬謖に私は声をかけた。
「幼常よ、少し待て」
彼は足を止め、高揚した熱気をそのままに、私を振り返った。
「向兄。いかがされましたか」
私は彼に近づき、声を潜めた。「お前の才は、丞相も先帝も認めておられる。それ自体は疑うべくもない」
私は一度言葉を区切り、彼の理知的な瞳をまっすぐ見つめた。
「だが、幼常。今、丞相が何よりも重んじているのは、規律と法だ。お前の才への信頼が厚いからこそ、その法は、お前に対して最も厳しくなるだろう。愛弟子だからこそ、過ちがあれば斬らねばならぬのだ。決して、決して慢心してはならないぞ」
私の言葉は、友人として、そして亡き兄・馬良に代わって弟のように思ってきた彼への、切実な忠告だった。しかし、私の温かい「情」は、彼の冷たい「才気」の前に完全に跳ね返された。
幼常は鼻で笑い、私の忠告を軽やかに受け流した。
「向兄。丞相に鍛えられた、この才がある限り、私は敗北しません。私は山脈の上に堅牢な陣を築き、地の利を活かし、魏の蛮勇など我が知略をもって度肝を抜いて見せましょう。私の凱旋を蜀の民は待ちわびているのです」
彼はそう言い放つと、私の顔に浮かんだ不安を一顧だにせず、踵を返して去って行った。冬の冷たい風が吹き抜ける回廊を歩く彼の背中は、雪の降る北の空へ、まるで飛んでいくかのように軽やかで、そして堂々としていた。
私は、あまりにも自信に満ちた後ろ姿を、ただ見送るしかなかった。 彼の才が蜀漢を救うのか、それとも彼の驕りが滅ぼすのか。この出征は、法と情、二つの義の狭間で揺れる私にとって、避けられない悲劇の序章のように感じられた。
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