1話 夷陵からの復活 清貧の衣は静かに国を支え 危うき熱病を孕んで巨星は動く
【消えかけた蜀の火】
時は建興五年。 大陸は魏、呉、蜀の三つに裂かれ、互いに覇を競う「三国鼎立」の世にあった。
だが、その均衡は、薄氷の上に立つがごとき危うさを孕んでいた。 わずか数年前、我が蜀漢は国家存亡の淵に立たされていたのだ。先帝・劉備様が、義兄弟の仇を討つべく全軍を挙げて挑んだ夷陵の戦い。その結末は、単なる敗北ではない。数万の精鋭、将来を嘱望された若き将たち、そして国家の威信そのものが、陸遜の放った業火によって灰燼に帰したのである。
白帝城にて先帝が崩御された時、誰もが天を仰ぎ、絶望した。「蜀の火は消えた」と。 益州一州のみを領土とし、国力も人材も魏の十分の一にも満たないこの小国が、乱世を生き残る術など、どこにもないように見えたからだ。
だが、その絶望の淵から、瀕死の国を蘇らせた一人の男がいた。 丞相、諸葛亮孔明である。
【感情を捨てた再生】
彼は、感情に流された先帝の敗戦を血の教訓とし、この国を再建するために、徹底した「法」による支配を敷いた。
そもそも、後漢王朝の末期、その統治機構は極端なまでの「金権政治」によって腐敗の極みに達していた。 官僚が出世するには才覚よりも賄賂が必要であり、地方の太守の座さえ金で売買されていた。法制度においても「銭」が全てを支配し、庶民は労役の免除や罪の減免でさえ、銭で購うことが常態化していた。社会のあらゆるシステムを動かすために、本来必要な経費の何倍もの膨大な銭が、腐敗の潤滑油として消えていく構造――それがかつての政治であった。
彼が先帝劉備から遺命を受け、まず断行したのは、この長年染みついた「銭による解決」という慣習の徹底的な破壊であった。
その改革は、冷徹なまでに合理的であった。 彼が掲げたのは、信賞必罰の徹底である。功ある者は身分に関わらず賞され、罪ある者は皇族に連なる者であっても容赦なく罰せられた。かつて宮中に蔓延っていた賄賂や縁故による淀みは、厳格な監察によって一掃され、一銭の不正も許されぬ清浄な空気が醸成された。
経済においても、彼の手腕は遺憾なく発揮された。 塩や鉄の専売制を強化し、特産品である蜀錦の生産を奨励して外貨を稼ぎ、無駄な支出を極限まで削ぎ落とした。本来、腐敗した官僚の懐や無駄な儀礼に消えていた莫大な国富は、一滴も漏らさず全て国庫へと集められた。
そして、人材登用。 「漢中の野に遺賢なし」。 彼は、中央の貴族だけでなく、地方の豪族や、かつて魏に仕えていた降将であっても、才ある者は積極的に登用した。ただし、それら全ての人事権と指揮系統は、ただ一点、丞相府へと集約された。
【巨大な心臓、丞相府】
丞相府。それはもはや単なる役所ではなく、蜀漢という国家を動かす巨大な心の臓であり、頭脳であった。
軍事、行政、司法、財政。国のあらゆる機能がこの府に吸い上げられ、彼という不世出の天才によって処理され、再び国中へと循環していく。 この「丞相府主導」の徹底した中央集権体制こそが、バラバラになりかけた国を強引に一つに繋ぎ止める、堅牢な鎹かすがいとなった。
夷陵の悪夢からわずか五年。 焦土と化した蜀漢は、驚くべき速度で国力を回復させていた。 倉庫には兵糧が満ち、練兵場には新兵の掛け声が響き、失われたはずの牙は、再び鋭く研ぎ澄まされた。
【奇跡の代償、乾いた平等】
それは奇跡であった。 だが、その代償として、蜀漢の国内は一種異様な空気に包まれることとなった。
官吏も、兵も、庶民に至るまで、徹底した法治主義が貫かれた。そこには不正も搾取もない「完全な平等」が存在したが、同時に、日々の暮らしから一切の「遊び」や「余剰」が削ぎ落された、極限まで乾いた空気感が漂っていたのだ。 贅沢は敵とされ、余裕は直ちに国力へと変換される。それは、国全体が一つの巨大な兵器と化したような緊張感であった。
それでもなお、人々がこの厳しさに耐え、反乱はおろか不満を口にする者すら少なかったのはなぜか。
それは、法の頂点に立つ丞相・諸葛亮自身が、誰よりも清貧を貫いていたからである。 絶大な権力を持ちながら私財を蓄えず、粗衣粗食に甘んじ、身を粉にして国に尽くすその姿。民や官吏は、彼の背中に、厳格な法の裏にある「自分たちを決して見捨てない」という静かな温もりと、「この身が朽ちるまで国を支え抜く」という、悲しいほどの献身を感じ取り、この苦しい大義を共に背負う覚悟を決めていたのである。
【白き衣の丞相】
彼の極限までの清貧さを、文字の読めぬ庶民にも一目で理解させたのが、彼が常に纏まとっていた「白い漢服」であった。
当時の高官といえば、鮮やかな染色を施し、金糸銀糸の刺繍を散りばめた煌びやかな衣装でその権威を誇示するのが常であった。 だが、一国の丞相であり、事実上の最高権力者である諸葛亮の衣には、色彩も飾りも一切なかった。それは、漂白されただけの、生成りの白絹や麻で作られた、極めて質素なものであった。
市場を行く彼の姿は、遠目には一介の学者のようにしか見えない。 しかし、その装飾を削ぎ落とした純白の姿こそが、彼が私利私欲に染まっていないことの何よりの証明と庶民には映映った。
民衆にとって、その白き衣は、自分たちから搾り取った税が決して無駄に使われていないという安堵であり、同時に、法の下では誰もが平等であるという、厳格かつ公正な「純粋」そのものであった。 彼の袖が風に翻るたび、人々はそこに、冷たい法の厳しさだけでなく、国を憂う一人の人間の、飾り気のない温かな情熱を見ていたのである。
【極限の献身と二つの感情】
彼の「清貧」は、単なる私生活の質素さに留まらなかった。それは、職務における自己犠牲という名の狂気であった。
一国の丞相でありながら、彼は権限を下へ委譲することを極端に恐れたかのように、本来ならば下級官吏が処理すべき些細な案件――例えば、兵士の懲罰における「杖打ち二十」程度の裁決や、地方の帳簿のわずかな数字の照合に至るまで――を、全て自らの目を通し、自らの筆で決済した。 丞相府の灯火は、夜明けまで消えることがなかった。
その姿を目撃する官吏、兵、そして噂を聞く民衆に至るまで、蜀漢の人々の心には、相反する二つの感情が渦巻いていた。
一つは、痛々しいほどの「絶対的な信頼」である。 「丞相があそこまで身を削っておられるのだ。我々が怠けるわけにはいかない」 彼の献身は、言葉による命令以上に強く人々を律し、国全体を一つの巨大な「奉仕の塊」へと練り上げていった。誰もが、自分の苦労など丞相に比べれば些末なものだと信じることができた。
だが、もう一つは、口に出すことも憚られる「底知れぬ空虚」であった。 「なぜ、そこまでなさるのか。我々はそれほどまでに信に足らぬのか」 「丞相一人に全てを負わせるこの国は一体どうなってしまうのか」
彼が細部にまで目を光らせれば光らせるほど、それは逆説的に「彼以外にこの国を動かせる者がいない」という組織としての脆弱さを白日の下に晒すことになった。 あまりに巨大すぎる大樹は、その枝葉で地面を覆い尽くし、新たな芽が育つための陽光さえも遮ってしまう。彼の完璧すぎる仕事ぶりは、周囲をただの歯車に、無機質な機械に変えてしまっているのではないか――そんな音のない危惧。
熱狂的な崇拝と、未来への冷たい虚無感。 この二つが入り混じった、張り詰めた糸のような危うさ。それこそが、北伐前夜の蜀漢を覆っていた、逃れようのない空気であった。
【そして、時は満ちた】
その丞相・諸葛亮が、長年にわたる血の滲むような準備を経て、ついに万全の態勢で魏討伐の大号令――北伐を行うことが決定されたのである。
その報せが駆け巡った瞬間、蜀漢全土は、地鳴りのような歓声に包まれた。 「いよいよだ! 丞相が立たれるぞ!」 「漢室再興の日は近い!」
人々は、英雄の帰還を迎えるかのように熱狂的な興奮に酔いしれた。積年の屈辱を晴らし、大義を成す時が来たのだという高揚感が、国中を駆け巡った。
だが、その熱狂の光が強ければ強いほど、足元に落ちる影もまた、濃く、深くならざるを得ない。
宴の盃を交わす人々のふとした沈黙の瞬間に、あるいは出征する夫を見送る妻の瞳の奥に、拭い難い不安がよぎる。
「あの方が……丞相が都を空けられたら、この国は誰が守るの?」
「もし、あの方の身に万が一のことがあれば……」
すべてを一人で背負ってきた巨星が、手の届かぬ彼方へ行ってしまうことへの根源的な恐怖。 北伐前夜の蜀漢は、明日をも知れぬ希望への「熱病」のような興奮と、支柱を失うことへの「悪寒」がない交ぜになった、異様な高ぶりの只中にあったのである。
民と官吏の「情」を犠牲にし、「法」という冷たい規律によって絞り出された、ギリギリの成果。
そして今。再建された国力を全て賭して、亡き先帝との約束を果たすための大事業――北伐の時が、静かに迫っていたのである。
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夷陵の戦いの後、どうやって復活したのか。あれこれ想像してみました。
南蛮の戦いでの物語も構想しているのですが、主題から離れてしまうのでカット。また別の機会があれば。
夷陵の戦いの絶望的な敗戦、その後の劉備の死亡により、魏では蜀は滅亡寸前・自壊寸前と思われていました。劉表亡き後、その子劉琮と重臣蔡瑁らが降伏し、高位高官に就いていたように、魏からは、ここらで降伏したらどうかと、あの手この手で膨大な降伏勧告文書が届いたのだとか。諸葛亮は、降伏文書へ返答せず「正議 」という文書を発表します。
この「正議」という諸葛亮の反論がおもしろいのですが、それは随分先の話に登場します。
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