丞相を継ぐ者 諸葛亮の法に抗い、諸葛亮の情を支えた一人の友の物語。
こくせんや
序 街亭の敗戦 向朗の情は無情な掟に砕かれ 孔明は涙の法で別れを告げる
【泣いて馬謖を斬る】
「お待ちくだされ。丞相!幼常の才は、一度の失敗で捨て去るには、あまりに惜しすぎます!彼には、必ずやこの罪を償い、国家に尽くす道があろう!この蜀漢には、彼の才が必要なのです!」
漢中へ撤退した本陣の空気は、既に死をまとっていた。敗戦の報告が行き交う喧騒は過ぎ去り、今はただ、重く冷たい沈黙だけが幕舎を支配している。
街亭での敗戦、そして敗残兵の救出と撤退戦の指揮に追われた丞相諸葛亮は、疲労で肉が削げ落ち、骨格だけになったかのように執務の椅子に座していた。その目の下には濃い影が落ちていたが、その瞳は法そのもののような、静かで冷たい光を放ち、一点を見つめていた。
そして、馬謖が連れてこられたのだ。
彼は逃亡の末、既に捕縛されていた。かつて白扇を揺らせて才を語ったその手首には荒縄が食い込み、着衣は泥と汗にまみれていた。しかし、その顔にはかつての驕りも、激しい抵抗もなかった。あるのは、すべてを悟り、ただ自らの招いた運命を受け入れる虚無だけであった。
私が口を開くより早く、丞相諸葛亮の声が響いた。それは、感情を一切含まない、乾いた音であった。
「ならぬ。馬謖。汝は軍律を破り、街亭を失い、全軍を危機に陥れた。その罪、死罪を免れぬ」
「・・・孔明!」
私は彼を字で叫んだ。その声は、漢中の重く張り詰めた空気の中で、悲痛な響きとなって全軍に響く。
彼を取り囲む将兵たちの視線は、熱くも冷たくもなく、ただ無情であった。そこには、憎悪というよりも、深い失望と侮蔑が滲み出ていた。彼らは、法に従い命を懸けたにもかかわらず、馬謖の私情によって命を無駄にした。その怒りは、丞相の「法」が下す裁きを、当然の報いとして求めていた。
「あの男の才など、紙切れに書かれた文字に過ぎなかった」 「多くの友が、あの男の愚かさで死んだ」
将兵たちの無言の圧力、そして押し殺された呻きこそが、この場における真の法廷であった。
「向朗。そなたの情は理解する。しかし、軍律は、誰もが法の前に平等でなければならぬ。もし今、ここで馬謖を許せば、他の将兵はどうなる。散っていった彼らの命の重さを、そなたは私情で軽んじたのか」
「しかし・・・!!」
私は床に頭を擦り付けた。それは、長史としてではなく、かつての友、そして馬謖の亡き兄たちを知る者としての情を、すべてその声に込めた。諸葛亮と馬良、そして私、かつてこの戦乱に夢を語り合ったではないか。私の頬を、熱い涙が伝い、土を濡らした。それは、情が法という巨大な壁に打ち砕かれる瞬間の、痛恨の涙であった。
しかし、丞相諸葛亮は微動だにしない。
その冷徹な視線は、私と馬謖の間に引かれた法の境界線を、一切侵すことを許さなかった。
丞相諸葛亮は、私が掲げる情を、国家を支える法によって、徹底的に切り捨てた。だが、その時、私は見た。彼の目にもまた、一筋の涙が静かに流れているのを。
それは、自らの法を守るために、愛弟子の命を代償として差し出す、孤高の執行者の断腸の涙であった。
その間、馬謖は一言も発さなかった。彼は私と丞相の激しいやり取りを、まるで遠い別世界の出来事のように静かに見つめていた。
その中で、馬謖はただ静かに、その視線を将兵たちの憎悪の視線へと向けた。彼は悟っていた。自分の罪は、丞相の法を破ったことだけでなく、彼らに与えるべき情を、己の驕りによって全て奪い去ったことだと。
静寂が戻った広場に、丞相じょうしょうの声が、最後の楔くさびとなって打ち込まれた。
「向朗よ。……今一度、言う」
その声は、私情を削ぎ落とした刃のように鋭く、けれど悲しいほどに澄んでいた。
「馬謖は、死をもってその罪を償わねばならぬ。……それが、法だ」
「……ッ!!!!」
私は喉の奥で悲鳴を上げたが、それは声にならなかった。 反論の言葉など、もうこの世のどこを探しても見つからない。 あまりに正しく、あまりに冷酷な「法」の前に、私の「情」は無力な屍しかばねとなって横たわるしかなかった。
ただ、熱い塊が目頭を焼き、止めどなく溢れ落ちるのみ。
私の視界が涙で滲む中、荊州の青い空の下、若き日の私たちが未来を語り合ったあの光景が、走馬灯のように揺らめいては消えていく。
師と仰いだ友。 弟と慈しんだ才子。 そして、その二人を見守り続けた私。
かつて一つであったはずの魂は、今、振り下ろされる斧の音と共に、永遠に引き裂かれた。
こうして、荊州から紡がれ続けた諸葛亮、馬謖、そして向朗の絆は、蜀漢の冷たい土の上で、無情にも潰えたのである。
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千八百年の時を超え、鮮血に染まった大地に刻まれた物語。 黄巾の乱に端を発した大動乱は、四百年続いた漢王朝を崩壊させ、あまたの群雄を飲み込みながら、ついに三つの強大な勢力へと収束した。
中原を制する巨大な「魏」、長江の天険を擁する「呉」。 その狭間で、険しい山々に囲まれた益州の地にしがみつく、最も小さく脆弱な国――「蜀漢」。
国力差は十倍以上。この絶望的な彼我の差を覆すため、丞相・諸葛亮は国を「法」という名の鋼で締め上げ、極限まで無駄を削ぎ落とすことで、乾坤一擲の北伐へと突き進もうとしていた。
冷徹なまでの規律。その孤独な諸葛亮の傍らに、一人の友がいた。 名を、向朗。
これは、諸葛亮が敷いた「法」に抗いながら、彼が押し殺した「情」を密かに支え続けた、知られざる友の物語である。
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皆様はじめまして。こくせんやと申します。
この物語は蜀漢の中でも、おそらく多くの人が名前だけ知っている程度、逸話といえば馬謖の街亭敗戦に連座して官職を失った人物として知られている「向朗」を主人公とした物語です。
劉備が世を去り、小さな蜀漢の国を支えていた丞相諸葛亮。
そんな蜀漢には諸葛亮の後継者と成り得た人物がいます。
諸葛亮に才を愛され、南蛮遠征、第一次北伐に諸葛亮の愛弟子として支えた馬謖。
劉備から諸葛亮とともに蜀の後事を託され、陸遜に比すると言われた李厳。
漢中太守に抜擢され、約二十年もの魏への抑えとして活躍した魏延。
丞相府の実務を一手に引き受け、諸葛亮没後の五丈原から無傷で撤退を果たした楊儀。
そして、史上後継者となった、蔣琬、費禕の両名。
そんな中、ほとんど知られていない後継者がもう一人。
南蛮遠征では諸葛亮から後事を託され、第一次北伐では長史(参謀長)を務め、そして諸葛亮の死後、「行丞相事(丞相代理)」となった人物。向朗。
彼は史書にこう書かれています。「不干時事 」天下の世情に興味がなかった。と
なぜ彼は諸葛亮の後継者と言われないのか?そんな向朗目線で蜀漢の世界を語っていきます。
第一部は諸葛亮の第一次北伐の戦い。30話余。有名な街亭の戦い。この馬謖の失態断罪シーンが最後でもう一度印象を変えて登場します。お付き合いいただければ幸いです。
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