第20話
「そろそろいらっしゃる頃だと思ってましたよ」
安川室長は立ち上がって挨拶する。「さあ、どうぞ。ここは普段そんなに来客はありませんから」
そう言うと自分で何かの準備を始める。
「あ、どうぞお構いなく」
「お待ち下さいね。すぐに珈琲を淹れますから」
勧められるままに私はソファー席に座る。そこからは市内のメイン通りが一望できる。見慣れた街でも見え方によってはまるで知らない場所のようだ。
「今日はどのようなご用件で?」
「先日のお詫びと、改めて詳しい経緯をお伺いしたいと思いまして」
「そうですか。ご本人のご容態はいかがですか?」
そう尋ねる安川の方からは芳しい香りが流れてくる。天然モノか。
「ええ、お陰様でもう家に戻っています。特に変わったところはないんですが、口数が減ってしまって私たち親族は困惑しています」
「そうでしょうね。さあ、どうぞ」
安川は白磁器のカップになみなみと注いだ珈琲を私の前に置く。「自分で言うのもなんですが美味(うま)いですよ」
「恐縮です」
「私も直接お話ししていませんので詳細は報告を受けた限りなんですが」
安川は自分のカップを持って私のはす向かいに座る。「サガラさんはうつせみ神社の土地収用の件で来所されたと云うことです。そこで何か誤解があったのかも知れませんね」
「土地収用?」
聞いてない。太一郎も何も言っていなかった。
「ええ、先ごろ発表した再開発計画の中で確かにそう申しております。ですが、まだ市の方としてもようやく交渉を開始した段階ですので確定的なものは何もない状態なのです」
「そうですか」再開発計画とうつせみ神社との関わり。「計画の中ではうつせみ神社も移転の対象なんですね」
「それもまだ検討中です。全体なのか、部分的なもので済ますのか。なにせ歴史も長く市民の愛着も深いお社ですからね。市の一方的な意向だけでは決められません」
安川はそう応えつつも、意識は珈琲の仕上がりの方にあるようだ。「対応した職員の話では、サガラさんはその辺のところを誤解されてるようだったと」
「それであのような騒動を…」
「すでに息子さんに跡を譲られて今は悠々自適のお暮らしとか。先日娘さんからはそう伺いました」
「そうですね。ですから私たちも驚いてしまって。本当に申し訳ございませんでした」
「お気にされることはありませんよ。私的な御事情はともかく何か暴力をふるわれたわけではありませんし、或る意味市役所ではもっと過激な事案も起こりますから」
私は以前あった市役所内建物爆破予告事件を思い出す。犯人は捕まって公営住宅に住む長期債務滞納者だったが、結局爆弾設置そのものがデマと云う事案だった。確かに大小を問わず市役所ではそう云ったケースに対応するのも仕事の内なのだろう。
「むしろ私が個人的に気になるのはサガラさんの体調です。この際きちんと病院で精密検査を受けられた方が安心だと思いますよ」
「有難うございます」
私は礼を言う。「ところで一つ質問をいいですか?」
「はい、何でしょう」
「今度の再開発の目的は何でしょうか?」
すると安川は初めて私を真っ直ぐに見る。
「良い質問です。私はこの任に就いてからずっとその事を考えています」
「…」
「一言で云えば未来の再構築と云うことでしょうか。この爛熟した社会状況で市民は閉そく感を抱え未来が描けなくなっています。これは豊かさを追い求めてきた時代における最大のパラドックス、挫折と云ってもいいでしょう」
「挫折」
「そう。地方行政としてはそのことを捨てておくわけにはいきませんからね」
「具体的には?」
「私たち行政もハードだけを変えるつもりはありません。むしろ市民生活の在り方から問い直すべきだと考えています」
「どう云うことですか?」
「少なくとも従来の経済発展にだけウェイトを置いたものではない、と云うことです」
そう言うと相手は自分の淹れた珈琲を慈しむかのように口元へと運ぶ。私はしばしその様子に見入る。
「安川さんは今宮前で囁かれている噂をご存知ですか?」
「ああ、失踪事案のことですね」
安川はさらりと応える。「それについてはコメントする立場に在りません。何しろ本来プライベートな事情に因るものでしょうから」
「ええ、分かってます。ただ何となくお話を聞いていて思い出したものですから」
「さすが森川家の方ですね。常に宮前の行く末を案じておられる」
そう言われると私は思わず黙ってしまう。
「まだお代わりありますよ」
「あ、いえ。結構です」
「温かいものは精神を勇気づけます。遠慮は無用ですよ」
安川は至って真面目な表情で言う。
「そうですか。じゃあ」
仕方なく今一度ご相伴に与る。
「いやあ、森川さんは本当に美味しそうに飲んで下さる。私も淹れ甲斐があると云うものです」
安川は相好を崩す。
何なんだ、この人は…。何か気の遠くなるような感覚を覚える。不思議とうつせみ山での昏睡時に聞いた声のように、どこか懐かしささえ感じられる。
もしかして…。私は云い知れぬ予感に襲われる。そしてそれはすぐに恐怖感へと変わる。やはり一連の出来事はこの男と繋がっているのか?
「御馳走様でした。とても美味しかったです」
「それはどうも。光栄です」
安川はやはりにこやかに言う。「また是非いらっしゃって下さい。珈琲は自前ですのでその点はご心配なく」
私はその笑顔に押されるようにして部屋を出る。結局何も聞き出せなかった不甲斐なさが自分を襲う。外は依然日差しがきつい。
通りではマスク姿の人が多くなってきた。国内でも新型ウィルスの感染が広がりつつあるからだろう。それに対して政府の対応は日和見的で、一方マスコミはここぞとばかりに国民の不安を呷りゼニ儲けに励んでいる。暢気なものだと思う。しかし今は他人(ひと)のことなどいい。これから自分はどうするか。それこそが問題だ。
その時私の中で不穏なアイデアが思い浮かぶ。そして私は密かにほくそ笑む。出来もしないくせに妙な考えを起こす自分が可笑しい。その状況を嗤う。
「叔父さんにも困ったなあ。これじゃ、その四十年前と同じじゃないか」
兄はぼやく。夜の自宅。
「兄さんのところにも何かあった?」
「親戚どうしだから仕方ないけど。問い合わせが事務所に数件な」
「そっか」
私たち兄妹はめずらしく一緒に遅い夕食を摂っている。今日は昼間に早苗が来たらしく、鍋にビーフシチューが用意されていた。「今日市役所に行って、例の安川って人に会ってきた」
「おう、そうか。どうだった?お前から見て」
「普通って云えば普通。変と云えば変」
「なんだ、それ。俺が言ったまんまじゃないか」
「だって少し話をして、淹れてもらった珈琲を飲んできただけだもん」
私はありのままを報告する。
「お前の取材能力も大したことないってことか」
「なんとでも言ってなさい。だいいちこっちは親族代表で謝罪しに行ったんだから」
「気合いの問題だよ」
「時代錯誤。兄さんこそ気をつけた方がいいわよ。そんな事を言ってると挙げ足取りの格好のエサになっちゃうから」
兄妹は軽口を叩きながらポークシチューの風味に舌鼓を打つ。
「しかし、市役所の一公務員が世間を騒がすような事を画策しているとは考えにくいんだよな~」
「分かるもんですか。私がここに来て思い至ってるのは、そもそもこの事案に世間の常識は通用しないってこと」
「お前矛盾してるぞ」
「何が?」
「だったらコンプライアンス無視の状況でお前はどう闘う?」
「ん~」
私は一応考えるフリをする。早苗のシチューはすこぶる美味い。今ならなんでもできそうな気がする。「やっぱ、気合いでしょう」
「聞いた俺がバカだった」
何だか昔からこんな事ばかりやってたような気がする。親が家を空けることが多かった分、兄とは生活共同体的な関係だったと云える。
「ねえ、兄さん」
「何だ?」
「結婚して何か変わった?」
「そうだな。家の中が賑やかになった」
「あ、それはそうかも」私も同意する。
「それに家に帰ってくるのが楽しみになった」
「なるほどね。じゃ、今は?」
「今は子どもの事が楽しみだ」
「そっか。兄さんもそう云うところは人の子ね」
「人を化け物みたいに言うな」
兄はスプーンを持つ手を動かし続ける。「お前さ」
「何?」
「もう人を好きになったりしないのか」
「いきなり、それ?」
「セクハラとか云うな。ただの好奇心だ」
「思春期女子か」
私は笑って済まそうとする。兄もそれ以上は突っ込んでこない。
「…さてと」
兄はスプーンを置く。「コロナの飛び火が止まらない。これから俺も対応に借り出されるだろう」
「そうなの?」
「年寄り連中はしがらみだらけで身動きが取れないからな。いつもは鼻クソ扱いの俺たちが重宝がられるってわけだ」
「でも本当に大丈夫なの?」
「何が?」
「現場に出たりするんでしょ。感染のリスクとかは?」
「目下情報を集めて準備しているよ」
そう言うと兄はさっさと自分の分の後片付けを始める。おそらくまだ仕事が残っているのだろう。「まさかこんな事になるなんてな」
「え?」
「多くの人が苦しんで死ぬことになる。この日本でもだ。それを皆分かっていない」
「そうなの?」
「友人からの情報だ。とにかく想像を上回る感染力だ。それに重症化のリスクも高い」
「でも政府はまだ暢気に構えてる」
「想像力の無さだよ。それにこれを政治的に利用しようとしている者さえいる。俺はむしろそっちの方にそら怖ろしさを感じる」
「それって…」
「鎖国は今や国の体制にあるんじゃない。人の心に巣食っていると云うことさ」
兄は私の方に向き直る。「それを解き放つことは今お前が立ち向かっているものと同じくらい難しい。いつの時代だってそうだろうがな」
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