第19話

「え?叔父さんが帰ってこない?」

 私は今や妊婦となった従妹、早苗から連絡を受ける。

「うん。あの人普段から行き先を言わないから気に留めてなかったんだけど、正装束が無くなってるの」

「山に行った?」

「分からない。チーちゃんなら何か知ってるかと思って」

 もちろん私も聞いていない。私は手短に電話を切ってその後の対応を思案する。何故叔父は一人で出掛けたのか。いや、そもそも本当に山へ向かったのかさえ定かではない。もしそうなら一体何処へ。

 私は叔父の思考を探ろうとする。その時私の脳裏に入り込むものがある。

 連れ去られた?

 私は突然突き付けられたイメージに戦慄する。遂に連中が動いたのか?

 とにかく山へ向かおう。私は慌てて用意をする。


 天気が悪い。まだ雨は降っていないが今にも崩れそうな雲行きだ。一人で行けるのか?不安がすきま風のように過る。

「お客さん、何か特別な用事ですか?」

 タクシーのドライバーが訊いてくる。

「ええ、そうです」

「天気がねえ、あんまりよろしくないなあ」

「運転手さん」

「はい?」

「うつせみ山辺りで変な人を見かけたことありませんか?」

「変な人?」

 ドライバーはミラー越しに一瞥する。「おたく、警察か何か?」

「いえ、そうじゃないんですけど」

 私は言葉を濁す。

「そうだねえ、長く流してるとたまに変な奴を見かけることはあるけど、そんな時は素通りすることにしてるし、この先は公園しかないから平日は市の管理人ぐらいしか見ないなあ」

「管理人、ですか」

 私は何かに引っ掛かる。何だ…。「その人は何してるんですか?」

「そりゃ公園の見回りなんじゃないの。あ、でもなあ」

「どうかしましたか?」

 私はドライバーを見る。男の割に痩せた背中が窺われる。

「複数人の時もあるなあ。自分、時々うつせみ公園の駐車場で休憩するんだけど、何か新しい施設でも作るのかなって」

「施設、ですか」

「だったらこっちは助かるんだけど。客が増えるから」

「…」

 再開発の一環か?しかし兄からもそんな話は聞いていない。「話をされたこととかないんですか、その人たちと」

「ああ、それはないなあ。なんか黙々とやってるからねえ、その人たち」

「そうですか」

 するとしばしドライバーは前を見たまま黙る。私もその様子を待つしかない。

「…何か別の事、調べてんのかなあ」

 やがてドライバーがそう呟くとタクシーはうつせみ山の駐車場に到着する。

「有難うございました」

「もうじき降り出すかも知れないから気をつけてね。なんならまた呼び出してもらってもいいから」

 ドライバーは自分の名刺を差し出す。

「はい」

 正直人間の所業なんて外目から分かることはごく限られてるのではないか。私は歩きながら考える。それより今は叔父の所在だ。見たところ駐車場に車はない。ここではなかったか。それでも私は登山道の入口までやってくる。

「さて、どうする?」

 私は自分に問いかける。山は鬱蒼としている。このまま一人で登ったら遭難の可能性さえある。だが行かねばなるまい。

「止めた方が良い」

 不意にすぐ近くで声がする。私は辺りを見回すが声の主の姿はない。

「大丈夫。神官は無事だ」

「誰?」

 私はその姿なき声に尋ねる。

 私が登山道の方を向くとそこに小学校高学年くらいの男の子が立っている。

「君は?」

 私はもう一度尋ねる。天気のせいか相手の姿は薄くくすんでいるようにも見える。

「お前はまだ此処に来るべき人間ではない。探している者も此処にはいない。早く帰った方が良い。すぐ雨は本降りになる」

「あなたこそ一人でこんなところにいちゃダメじゃない。ご家族とかは?」

 私がそう言い終わる間もなく、目の前の少年は瞬間的に消える。

「え?」

 私はまたもや周囲を見回す。何だ…これは。

 あの少年は叔父が言っていた例の「妙な子ども」なのか。最初声だけがして、そしてぼんやりと姿が見えたかと思うと一瞬で消えた。

 どうやら私も含めて世界はタガが外れてしまったようだ。

 その時私の顔に小雨が降りかかる。とほぼ同時に携帯の着信音が鳴る。私は茫然とした頭でそれに出る。「はい、森川です」

「チーちゃん、お父さん見つかった」早苗だ。

「え、どこで?」

「今警察から連絡があって、病院みたい」

「病院?何で?」

「チーちゃんこそ今どこにいるの?」

「うつせみ山。今から戻ってくる」

 私は電話を切り、先程のタクシードライバーの名刺を取り出す。電話するとすぐに相手が出た。

「ああ、お客さん。さっき思い出したんだけどね、そう云えば妙な事があったよ」

「妙な事?」

「興味、あるかい?」

 どちらにしても急いでよ。私は雨脚の増す中、身勝手にもそう思う。


「時たま帰りの客で変な事を言う人がいてね。声がするって云うんだ」

「声?」

 私はドライバーが貸してくれたタオルで自分の顔を拭う。タオルにはタクシー会社の社名が織り込まれている。

「うん、不意に誰かに話しかけられたような。それでも何か変なものを見たりするわけじゃないんだけど」

「それは一体…」

「だから本人も結局自分のせいって思うしかないって云うか」

 なるほど。それは理解できる。私も一度声を聞いたが相手は誰なのか、そもそも自分の本当の知覚に因るものなのかどうかさえ判然としない。

「それで見つかったのかい?」ドライバー。

「え?」

「いや、変な人探してたんだろ。うつせみ山で」

「ええ、まあ」

「と云うより自分からするとお客さんも十分変な人に見えるけどね」

 ドライバーはクスクス笑う。嫌な感じはしない。

「○△病院に行って下さい」

「おや、やっぱり緊急なんだね」

「いえ、無事ではあるみたいです」

「どなた?」

「私の叔父です」

「ああ、そうなんだ」

 まあ、いろいろあるからね。ドライバーはそう言ってからしばし沈黙する。雨脚は思ったよりひどくならないでいる。今はそのリズミカルな雨音が心地良くさえ感じられる。

「なあ、お姐さん」

「はい」

「ちょっと聞いていいかい?」

「何でしょう?」

「こうやって長年流してると世の中を斜に眺めるのがクセみたいになっちまう。少し前に女房とも別離れちまったし、家に帰ってもテレビ見て、ビール片手にコンビニ弁当食って寝るだけの生活だ。時には客にしつこく絡まれるし、そんな時に限って夜眠れない。つくづく人生が薄っぺらく思えてくる。こんな俺でも生きてる意味があるのかってね。で、どうなんだい。今世間は真っ当なのかい?」

「真っ当、ですか?」突然の問いかけに私は面食らう。

「あんたの感じ方でいいんだ」

「そう仰られても」

 私は応えに窮する。そもそも真っ当って何だ?世間が真っ当であることがいまだかつてあったのか。

「多分今宮前は大きな転換期を迎えていると思われます。いえ、日本全体かも知れませんが」

「転換期?そりゃ再開発絡みってことかい?」

「そうかも知れませんし、もっと大きな意味かも知れません」

「知れませんって、それあんたが感じてることなんだろ?」

「感じてるだけで全部を理解しているわけではありませんから」

「そりゃそうだ。みんなそうだよ」

「ですから…」

 私は言葉を探す。「こうやって彷徨ってます」

「彷徨ってるだけまだマシだ」ドライバーは応える。

「どうして?」

「彷徨ってると云うことはまだ何かを探してるってことだ。生きようとしている証拠。違うかい?」

「まあ、そうともいえますかね」

 私は話を合わせる。「でも正直疲れます。無駄足も多くて」

「そうだろうね。ひょっとして姐さん、新聞社の人とか?」

「え、まあ。似て非なる者です」

「ははは」

 ドライバーは朗らかに笑う。

 そろそろ街が見えてくる。叔父の状態はどうなのだろう?連絡がないと云うことは命どうこうの話ではないのだろう。そう私は想像する。

「ところで運転手さん。その変な声ってどんな内容なんでしょう?」

「う~ん、詳しくは訊かなかったけど、何か不意に一言二言話しかけられた感じだったみたいね。だから本人もよく覚えていない」

「でも気のせいには思えなかった」

「そうなんだよ。そこが不思議っちゃ不思議なんだけどね」

 多分これは発掘現場での証言と同じだ。そして私自身が体験したこととも繋がる。

「子どもがさ、一人でお喋りしてるってのもあるんだ。誰もいないのにさも誰かと会話してるみたいなさ。でも子どもってよくそう云うことあるだろ。だから普段は気にならないんだけど」

「運転手さんはどう思います?」

「そうだねえ、幽霊にしちゃ真昼間の事だから。それでも最近ちょいちょい聞くんだよね」

 そこで車は病院前に到着する。

「有難うございました。助かりました」

「悪かったね、変な話聞かせちゃって」

「いえ、参考になると思います」

 私はタオルを借りたまま車を降りる。まだ雨は続いている。

 ○△病院は総合病院だ。連絡のあったフロアに上がると遠くに早苗の姿が見えた。病室には他に誰かいるらしい。

「あ、チーちゃん」

「叔父さんは?」

「大丈夫。まだ眠ってるけど」

「誰?」私は奥を覗く。医者の他に二名の姿がある。

「市役所の人」

「何で?」

「お父さん、市役所で暴れたんだって」

「叔父さんが?どうして」

「分かんない。本人はずっと気絶してるんだもん」

 早苗の話だと突然市役所を訪れた叔父は「再開発プロジェクトの責任者を出せ」と所内を駆け回ったと云う。幸い周囲に危害を加える様子はなかったが、駆けつけた警察との話し合いにも応じず結果確保(?)までに手間取ったとのこと。

「最後は逮捕されたってこと?」

「その前に失神しちゃったみたい」

 早苗は暢気に応える。「市役所にはお父さんの知り合いも多いからね。なんとか説得しようとした途中だったみたい」

「まあ、何事もなくて良かったですよ」

 その時男の内の一人が振り返る。「再開発企画室の安川と云います。では、私たちはこれで」

 そう言って別の男二人(一人は医者)と病室を出ていく。

「有難うございました」

 その背中に早苗は礼を言う。

「警察は?」

「あの人たちが証言してくれて事件性は無し、と云うことになったの」

「なるほどね」

 私は叔父の様子を見にベッドサイドへ行く。そしてハッとする。

 叔父は文字通り死んだように眠っている。しかしその両目は薄く開かれ、何かをぼんやりと捉えているようだ。

「起きてるみたいでしょ。でも昏睡だって」早苗も横に来る。

「障害とか残らないの?」

「それは大丈夫みたい。外傷もないし」

 早苗は自分の父親を見ながら言う。「ねえ」

「うん?」

「チーちゃんたち、何やってるの?」

「…」

「二人の事だからそれなりの思いと考えがあってのことだとは思うけど、私心配だよ」

「ごめん」

「何か危険な事になってない?」

 私はその早苗の眼差しを受け止めかねる。

「正直よく分からないの。この事だって予想もしてなかったわ」

「次はチーちゃんの可能性だってあるんだよ」

 叔父の口元からは静かな呼吸音が響く。そうだ。叔父は再び得体の知れない存在に操られたのかも知れない。それでも…。

「分かってる。でもね…」

「私も森川の嫁よ。チーちゃんが言いたいことは分かる。でも妊娠してから思うの。自分も人の子なんだなって。今は実家にいるから余計にそう思うのかも知れないけど」

 確かに早苗のお腹はもう随分大きくなっている。

「自分を大事にすることを学んで欲しいの。それが人を大事にすることにも繋がる」

 その言葉に私は黙って頷くしかない。叔父と早苗と私。長い時間を経て成長していないのは自分だけのような気持ちになる。何故だろう?

「今、この宮前をはじめとして失踪する人が急増しているの。私はそれを何とか食い止めたい。できることなら」

「チーちゃん」

「多分これは巡り合わせなんだと思う。私にはそれを見届ける義務があると思うの」

「今起きている異変はなんとなく私にも分かるわ。噂もちらほら聞くしね」

 噂。私は平凡な一主婦にこの件がどのように伝わっているのか気になる。

「叔父さんは今度の再開発との関連を考えてるんだと思う。その秘密がうつせみ山にあると思って」

「でも今日の騒動はやっぱり異常よ。お父さんの意思でやったとは思えない」

「叔父さんには四十年以上前にも一度同じようなことがあったの。その時は警察沙汰にもなってね」

「知らなかった」

「それから叔父さんは人知れずうつせみ山の異変を追っていたんだと思う」

「一人で?」

「それが叔父さんの巡り合わせ」

「…」

 早苗は身体がきつくなったのかベッド脇のパイプ椅子に腰掛ける。「あなたたち二人ならもう最強よね。私が何言っても詮方ないわ」

「正直今は状況に振り回される感じよ。知れば知るほど霧が深くなっていくようだわ」

 私は言う。「でも前に進むしかない。私が私自身であるために」

「そして父は足元の岩に脛をぶつけたってことか…」

 早苗はそう言うと小さく笑う。「本当に困った人たちね」

 私たちは黙って叔父の寝顔を眺める。

 私はふと気がつく。安川。自分が初めてその人を直接目にしたと云うことに。印象は特に変わったところのない、ごく普通の地方公務員。強いて云えば何気にオシャレさんと云った感じか。

「サッちゃんはさっきの人知ってた?」

「市役所の人?ううん、初めて」

「私もよ」

 私はこれ以上言うのを止める。早苗にまで混迷の重しを抱えさせるわけにはいかない。「早く叔父さんも気がついたら良いけど」

「何だかこうしているのが不思議。最近お互い忙しくてゆっくり話もできてなかったもんね」

「そうね。この前兄から言われたわ。『子どもが生まれたらお前ももう叔母さんだぞ』って」

「そうよ。しっかり頼みますよ、『叔母様』」

 そして二人、静かに笑顔を交わす。

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