第15話

 本当に遅々たる歩みだが、どうやら私は少しずつ核心に近づきつつあるらしい。

 家に帰って一眠りすると背中の痛みに気がついた。シャワーを浴びながら自分の身体をチェックする。背中だけでなく身体全体が筋肉の痛みを訴えている。叔父の言ったことは正しい。次に山へ向かう前に鍛え直す必要がある。

 それにしても私の身体はいつの間にか大人のそれへと変化している。ついこの前までは痩せっぽち体型だったのが、今ではそれなりに肉が付き、むしろ部分的には弛みさえ窺われる。ふと自分の今後を考える。兄に言われるまでもなく、私も自分がこの家に生まれなかった場合のことを考えていた時期がある。そして実際私は一度この家と決別した。その判断が正解だったかどうかは分からない。だが逆に私はその事でこの家を捉え直す機会を得たのだと今では思う。


「何、四十年前の騒動の記録?」

 鷺谷刑事は素っ頓狂な表情を浮かべる。宮前警察署のロビー。

「ダメですか?」

「ちょっと待て。うつせみ山の騒動って云えば、確か学生連中が複数人捕まったってやつか」

「多分、そうです」

「聞いたことはあるが私も詳しいことは知らん。その事件がどうかしたのか?」

「ええ、今私が調べていることに関連があることが分かりまして」

「関連?しかし誰からその事件のことを聞いたんだ?」

「当事者本人です」

「?」

 私は鷺谷刑事に事情を説明する。

「なるほど、それは知らなかったな。あの神主さんが…。人は見かけによらないものだ」

「同感です。それに自分が追っていたものが、実は身内とも繋がっていたことが」

「いや、それは不思議ないだろう。あんたんところは宮前と細く長く組してきた家系だ。今回の失踪事件に歴史的側面があるんなら、あんたの家とうつせみ神社に必ず繋がると私は踏んでいたよ」

 言われてみればそうだ。それに気づかなかったのは私の迂闊さでもあるのだろう。しかし一方で「そこにどんな事情があるのか」はまだ分かっていない。

「だったら本人に聞いた方が確実だろう。なんせ当事者なんだから」

「それはそうなんですが、第三者的な資料を見ておきたいと思いまして」

「ジャーナリストの習性ってやつかい?」

「まあ、そう云うことにしておいて下さい」

 鷺谷刑事は私を待たせて一人資料室に向かう。四十年前の資料で未だにデジタル化もされてないのだろう。私は仕方なくロビーで待機する。そう云えば前回ここに来た帰りに同級生の富田に会った。思いがけなく彼もまた失踪事案を追っていて、私は当事案がすでに多くの人の関心事になっていることに思い至った。そして今、その核心が自分の身内と関係していることにも。

 私のこの遍歴も元はと云えば一人の同級生から始まった。そしてその同級生は私に深淵な問いかけを残し、自分は見知らぬ土地ですっかり独り立ちしていた。その潔さは私に容赦ない衝撃を与え、私の中のガラス玉は呆気なく砕けた。見事なまでに。そうだ。自分は嘉子と何ら変わらない、無力で垢抜けない只の女の子だったのだ。それに今の今まで気づかぬほど、私は孤独だったのかも知れない。

「ん?」

 私はふと思い当たる。声。私を〝キート〟と呼んだ声。あれは一体何だったんだ?

「お待たせ」

 見ると鷺谷刑事が資料を持ってこちらに歩いてくる。「多分これだろう」

 渡された資料は想像以上に少ない。

「有難うございます。これ…」

「私の職権だから閲覧は1時間だ」

 鷺谷はそう言うと私に指で合図する。「取調室を使えるようにしておいた」


「テレビドラマのとそっくりなんですね」

 私は用意された部屋に入って思わずそう感想を漏らす。空っぽな空間と擦りガラスに囲まれた絶妙な閉塞性。

 鷺谷は私に手前の席を勧めると自分は隅の席に座る。

「私はちょっと昼寝させてもらうよ。何かあったら声をかけてくれ」

「分かりました」

 私は早速スティール机に資料を広げて読み始める。最初は事件の概要がまとめてある。

 昭和54年(1979年)6月9日午前11時15分、入電通報。向陽山(通称:うつせみ山)の麓にて大学生らしき男たち数名が暴れている、との内容。

 同日 午後 当該学生三名を確保するも警察官らにケガの被害。生命の危険なし。

 同日 夕刻 取調べ開始。学生一名に心神喪失の疑いあり。

 心身喪失?私はページをめくり写真資料に目をやる。そして思わずギョッとする。そこには生気を全くと云っていいほど削がれてしまった若者の顔が映っている。写真自体が四十年以上前のものであるせいもあるが、逆にそれからはぞっとするような即物感すら感じられる。

 他二名の学生についての取調べにおいても不明瞭な点多し。何より「山を徘徊する者たち」についての目撃証言は他からは今のところ得られず。

 第一通報者の証言との食い違いは決定的だが、学生たちは「内ゲバなどしていない」と関与・責任性を否認。警察庁への情報照会。

 学生らを公務執行妨害で書類送検。内一名は鑑定入院を検討中。

 結果的に叔父たちは不起訴となり釈放、それぞれの実家に送り返されたらしい。捜査自体もそれ以上継続されることなく簡便かつ穏便に処理された様子(叔父の出自の影響も否定できまい)。もしかしたらそこに別の意図が隠されていた可能性もありはするが…。

 私はそこで怪訝に思う。何故自分はそう思うのだろう。この事件の概要だけでは特に政治や行政が裏で動く必要性は感じられない。よく分からないのはやはり学生たちの供述だ。これまでの叔父から聞いた話と照合すれば革命運動とも関連はない。気になるのはやはり例の男たちの存在だ。少なくともこの資料ではほとんどそれに触れられていない。だが叔父の話に因る限り彼らが全くの幻想、つまり存在しなかったと云うのも考えにくい。鷺谷がこの事件を耳にしていると云うことは、当時それなりに話題にもなったのだろう。(確かに地方としてのニュースバリューはある)。だが現状から推測すると、世間的には「実際蓋を開けてみれば」と云った雑な扱いだったのか…。

「どうだい。何か引っ掛かるものはあったかい?」

 鷺谷が半分寝呆け顔でこちらに笑いかけてくる。

「そうですね。でも今のところよく分かりません」

「ん?妙な言い方をするな」

「ええ。やはり私が聞いた話とは違うところがあって」

「どこが?」

 私は改めて例の男たちの話をする。

「ああ。じゃあやっぱり革命運動/過激派と云う流れでもなかったんだな」

「そうです。資料ではどうやら内輪揉めで片づけられたようですが、本人たちの言い分は違いました。現に一人は心神喪失になってたんです」

「時代が時代だったからな。結局警察も世間もすぐに話題としては飽きてしまったわけだ」

 鷺谷は上体を前に起こす。「少しウトウトしただけだが随分すっきりした」

「寝てないんですか?」

「まあね。最近雑務が多くて夜通し駆り出されることもある」

 そうして初老の刑事は大きく一つ伸びをする。「さて、もういいか?あんまりお役に立ったとも思えないが」

「いえ、十分です。ちなみに当時の担当者の方をご存知ですか?」

「調べればすぐに分かるけど、それが?」

「一応担当者の感じ方も伺ってみたくて」

「あんたもしつこいね。分かった。後で知らせるよ」

 私は礼を言って取調室を出る。そして歩きながら先ほど見た写真のいくつかを思い出す。やはり印象的だったのは心神喪失とされた学生の表情だ。

「ん?」

 またもや迂闊にも私はその時はじめて気がつく。あれが若い頃の叔父の写真だったのだと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る