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「例えばの話ー!これに一切の制約がなかったらどうしますか?」
紐でぐるぐる巻きにされたなにやら液体。これを示して言うのは彼女。僕の、なんだっけ……そう、確かブルーアーカイブとかいう名前のゲームの登場人物、キャラクター、だったと思う。確か。あまり詳しくない。
液体に紐を絶え間なく巻き続けている彼女。二巻き以上あることだけどうしても分かるのだけれど、何巻きなのかはどうしてもわかりそうにない。そういうキャラなんだろうか。どういうキャラなのだろう。
逆に言うと二巻き以上であることは、繰り返す、どうしてもわかってしまう。考えるよりも早く、理性が到達するより生理的反応として反射があるみたいなそういう感じで。今の僕にはそれが何よりも真理めいて感じられる。
「制約って何ですかね」
「制約ってのは、考えることです!」
タイムリーにも考えることらしい。考えることと言われたら常にタイムリーかもしれない。同じことで、この紐でぐるぐる巻きにされた何やら液体に考えがなかったらどうするのかと言うことで良いのだろうか。一般に同じことで、常に真であるような何かが実際に実現していることを示されたら僕はどうするのだろう。どうこうするとして、ちゃんと常にそうしているのだろうか。
「制約ってのは、考えること!二度考えること!」
二度三度と形を変えて、そういうやり方で僕たちは生起している。
例えば僕はある日のこと、国になってしまった。日出ずる処でもありながら日没する処でもあってしまった。まあ要するに当然、残念ながら?特定の国ですらない。
特定の国であればまだよかったと思う。それも相当ひどいものだけれど、いや、それも相当ひどいものに過ぎてちょっと制約が追い付かない。
「制約ってのは、二度考えること!三度考えること!」
僕たちの抽象能力の限界がマジカルナンバーに、せいぜい7±2程度のものに制約されていないことを切に願う。
束の間に彼女が国だったころの僕ごとぐるぐる巻きにして、それは必ず二巻き以上になる。巻き続けている以上二巻き以上だろうからその直感は普通のことだろうとかそういう話ではない。それなら一巻き以上でいい。
そもそも国に、それも抽象概念としての僕としての国に紐を巻き付けるなんてことがどうやったらできるのか。でも実際そうなっているのだから仕方ない。僕たちはこうして様々なことを考えては思っていて、そこにどの程度の自由度があるのかなんてことを一々把握してはいない。
把握することができる存在がいない概念を把握することに、どれほどの意味があるのか。
様々なことを思い出す。この子は様々な姿形を取って僕の目の前に現れている。それこそ国だったり、普通に人だったり、特定の手続きだったり、男性性だったり、ふりがなだったり、松本人志だったり、プラットフォームだったり、何らかのキャラクターだったり、こうしてブルーアーカイブのキャラクターだったりしながら。
言っての通り、共通点がなさ過ぎて何がこの子をこの子たらしめていると僕が思っているのか見当もつかない。僕は言っての通りそれらの現れを同じ本質を持つ違う具体として扱っているけれど、どうしてそう思うのだろう。何かがずっと付きまとってきている時には、どんな形であれ同じ誰かだと思うとしたら、それはちょっと論理的とは言えない。
「https://assets.st-note.com/img/1762778093-9CP4tds6MbwcHYeuhXW5K0Gi.png?width=1200」
そうだと思う。そういえば最近の研究では4になったんだっけか。
勿論こうしている間にも僕は紐でぐるぐる巻きにされていて、大きさとかスケール感とかそういったものが説明のつく形で錯綜していく。最初の方は視界も併せてぐるぐるしていたけれどそうではなくなった。と言うことは僕は不動で糸の方がぐるぐるしてるってことになったのだと思う。切り替わったのだと思う。安定な形はそちらの方だって世界の方が気付いたのかな。
この子が4番目だとしたら僕は順繰りに、先入れ先出しかなんかの方式で全てを忘れていくのだろうかとなんとなく思う。無意識に追いやっているものほど実はカオスになっておらず形式的な操作のみで成立しているらしいから。そうかな。
「例えばの話ー!これに一切の制約がなかったらどうしますか?」
まあそうなることもあるかと思う。液体の時に出来て、僕の時には出来ない質問なんてのは意外とないのだと思う。文面にすると奇妙だけれど、これは質問と言うのはほとんど例外なくできる、ということの一つの証左だろう。
でもそれって、とも思う。でもやっぱり意味としては僕に制約があるのかってことで、そりゃあ僕だって空を飛べなかったり、右側に鼻を開いて大きさを基礎づけたりすることはできないのだから、と思う。思うけれど、やっぱり僕たちの取れる行動の自由度を僕たちが把握できるわけもないってさっき考えた話がどうやらつながってくる。僕に出来ることをすべてやってみないといけないし、仮にやってみたとして、それ以外のことができないってどうしてわかるんだろう?
僕に両手は無いけれど、君を抱きしめることはちと簡単に過ぎやしないかい。
「呼ばれて飛び出て!参りました!みんなのスーパースター、宇沢レイサ、登場です!」
ああなんかそんなような名前だったかな。
「どうも」
「はい、こんにちは」
はい、こんにちはって言うかな。僕はこのキャラクターを良く知らないけれど、それはないんじゃないか。見た目とかこれまでの口調とか。でもこれまでの口調がこのキャラクターのものとも限らない。
それでもやっぱりそれはないだろうと思う。僕は身をよじらせて反駁する。それがこの少女、彼女に対するささやかな抵抗になるのかはともかく。
紐抜け、という技術をご存じだろうか。僕がアマゾンの手前側(常にうまく定義できるらしい)で沽券を売っていたころと、両肘から交互に涙を流す鳥だったころに教えてもらった。教えてもらった?
誰にだっただろうか。
抜けたはじめから僕は巻かれている。その形が安定だと思っている人がいて、そう思わされている。
「フフ、ボクお手製のミルフィーユ、味はどうだい?」
ふと声色が変わって容姿も変わって見える。これもきっと何かのキャラなのだろう。少なくともブルーアーカイブには見えない。あの作品はキャラデザインに統一性がないようであるから。
しかしミルフィーユか、と思う。味はどうだいって僕が僕を食らってその感想を述べるのかみたいな思考はもう何回も繰り返しているからどうでもいいとして、いうに事欠いてミルフィーユか、と思う。
普通にそれが比喩として適しているのかイマイチよくわからない。確かに僕をクリームかクレープに見立てて、紐の方をクリームかクレープの僕じゃない方に見立てればそう見れなくもないのかもしれないけれど、そんな無理を通していいなら大体のものは何にでも見える気がする。というか、そもそもなんなのだろうそのセリフ。キャラクターの見た目的にはそんなことを言いそうにない。きっといろいろ屈折した変なキャラなのだろうと勝手に邪推する。
僕も何かしらこのミルフィーユから着想を得たかのように屈折した制約を抱えている。そう、誰しもこんな事を考えたことがあると思うけれど、退屈かもしれないけれど、あえて言わせて欲しい。
例えば、これはとある哲学者の完全な受け売りにはなるけれど、今という地点だけが完全に20年後に移動することはあり得るだろうと思う。辻褄の合わせ方はさまざまだけど、例えば急に20年後になったとして、20年分の記憶もまるごと生成されていたら、僕は急に20年後になったと思うことはないだろう。20年分の記憶というだけでは不十分で、20年分の体験をしたという感覚まで必要かもしれないと思ったけれど、いやそもそもそれらの感覚があることと記憶があるといえることが不可分なような気もしてくる。まあでもこれは細かい話なのでよくて、要するに実際そういうことが起きたとして僕たちは気づけない。まったく気づけない事が起きている可能性ってのは常にあるという類型にしてしまうこともできて、その相のもとだと世界5分前仮説を一つ知っていればそれで良いという話になってしまう。1秒後に2秒後になって、2秒後に1秒後になっていても、それを無限に繰り返していてもなんであってもいい。その都度いい感じに世界が再構築されていれば僕たちはありがたいことに時間の連続性を感じられる。
でもやっぱり、この手の議論はよく分からないとも言える。そもそも時間というものの本質に実際に感じているということが含まれると考える他ないのではないか。感じられるものというステージに自ら参入したあとに感じられないものというのを想定したらそりゃあおかしくなるに決まっている。それに「本当の」という名前をつけてみせた所で、何の意味があるというのだろう。それでもやっぱり、そういったこと、時間が飛ばされているみたいなことが実際に起きているという事態も直感的にすぎる。考えても仕方ないことは考えても仕方がないけれど、それが、考えても仕方ないことが世界の全てを牛耳っていたらどうしようか。
きっとだとして、それは仕方のないことなのだろうと思う。
「隊長はテキサスにやってもらおう!」
「誰だよテキサスって」
そんなツッコミもただ空に向かっていくばかり。彼女はただ液体に紐を巻き続けている。初発から不可能事を繰り返している。液体であることの本質に何かを巻き付けることができない事が含まれると誓約するならこれは錯覚に過ぎないと考えるべきで、でも液体に見えていることの方が錯覚だとか、錯覚だとしてそう見えていることは確実で、やはり見えないものを仮定する必要があるのかみたいな話もまた立ち上ってきて、結局よく分からない。同じものなんて何一つないって言うことはできなくて、なぜならその言葉を理解するためには同じものって言葉が有意味でないといけないから。存在はしなくても意味として理解できるということは一般にあるだろう。だけどやっぱり同じさについては、それが存在していないと意味も理解できないように素朴に感じてならない気もする。同じことで、僕はあのわたあめみたいな女の子がこの狼みたいな女の子に変わって見えたと言ったけれど、全く違うキャラクターが全くの無関係に出現しただけだとなぜ考えないのだろう。同じことで、テキサスって誰だよ。
そうこうしているうちに僕は一次元になってしまって、されてしまって?二次元座標の上に置かれる。ちょうどX軸に平行なかたちで。僕の身体がある部分では時間が連続していて、紐になっている部分で今である地点が何処かに飛ばされる。そういうイメージをする。そういうイメージをしたところで変わらず紐である部分は増えていくし、なぜ普段からそういうイメージで物事を進めていないのだろう。分かりやすいし、もうイメージすることとそうであることの境目はとっくに曖昧なのに。僕が考えているのか世界が考えているのかを区別する意味ってのが薄いように感じる。こんな調子だから、かつては自己が流動的だったり本質を持たないみたいな思想が仏教やらなんやらの文脈に乗っかって重宝されていたらしいけれど、いまいちイメージができない。今や自己が連続するものであるということが風変わりな思想として扱われていて、その辺りの関係が丸々反転していると言える。でも何だかそれは気持ちが悪い。だってそう考えると風変わりであるってことは確かなこととして現状からの逸脱を意味するものでしかないってことになる。僕は現状当然受け入れていることこそが変であると時には思いたいと思っている。
「例えばの話ー!これに一切の制約がなかったらどうしますか?」
そう、例えばこういったこと。
僕は今一次元になっていて、当然の帰結と言わんばかりに視界がないから彼女の姿かたちはわからないけれど、きっとまたあの子になっているのだと思う。見えないけれど。でもこの場合は見えてないのに本当はどうかについて考えることに意味があって、なぜなら他の人も彼女を見ることができるはずだから。これも素朴でつまらない話のようだけど、でもやっぱり結構基礎的に過ぎて言うべきことのようにも思える。他の人もいるってこと、それこそが最も素朴で確実な実在性導入のモチベーションになるということには留意していていいと思う。
僕はぐるぐる巻きにされて、その程度が強まっていく。どういう定義か僕の端っこから巻かれ始めたそれが、もう片方の端っこにたどり着いたようで折り返し巻きが始まって、当然ミルフィーユの比喩が通用しなくなり始める。元々糸がかかっていた場所にさらに糸が巻かれていって、クリーム一辺倒かクレープ一辺倒かになっていく。言うまでもないことだけど時間の比喩だって。紐の箇所が連続に続いている方なら普通の時間の話になるし、はたまた今をどこかに飛ばす地点と考えるならいかなる場所でも飛んでいていつ経過するって言うんだい。さっきから当然のことばかり繰り返している気がする。
「それは自明じゃないです!」
自明じゃないらしい。そのキャラクター、自明とか言うのかな。
少し考えたけれど、多分僕は片側から見て考えているからこういう発想になる。紐をクレープないしクリームと考えるとして、ちゃんと両側から見るなら端っこに到達した時点で折り返すまでもなく大体がクレープないしクリームになっているといえるから。はっきりとは考えていないけど多分この辺の事情と、片側から見るというモデルの採用の恣意性とかが関わってきて自明ではないと言っているのだと思う。
というか、僕の端っこってそもそも2つなのかな。
「例えばの話ー!これに一切の制約がなかったらどうしますか?」
何故何度も繰り返すのだろうと思うけれど、言われてみれば何故僕はこの質問に返答していないのだろうともいえる。ただこういう時に質問をただ繰り返すのは多少意地が悪いような気もする。
これってのは今糸を巻き付けられている僕と考えるべきだと素朴に思うしさっきもそう思ったけれど、それすらも怪しいと思う。当初は何らかの液体に糸を巻き付けていたわけだけど、それでいて質問の内容が変わっていない。目的語が変わったら何らかのフォローが入ると考えるのは自然ではないだろうか。例えばの話って留保もよく分からない。制約なんて大体のものにあるだろうし、制約を考えることだと考えるなら糸は考えないし、僕は考えるから例えばもクソもない。よくよく考えたら全てがずれているし、よくよく考えなくてもそれは直感的にそうだろう。
「例えばの話ー!これに一切の制約がなかったらどうしますか?」
どうするのだろう。何であれ制約が一切ないのならば同じことなのかもしれない。制約がないって特徴は結構すごくて、その他の差を塗りつぶすほどのものなのかもしれない。制約がないリンゴも、制約がない僕も、恐らく制約がないという性質が強すぎて同じものになってしまうのだろう。適当だけれど、これは目的語が変わっても何もフォローが入らないことに対して納得のいく説明が与えられる一つのモデルではある。
でも制約を考えることだと言い換えていて、言い換えにある程度の合目的性があると解釈してやると、このモデルはちょっとおかしい。考えがないリンゴと、考えがない僕。これらは同じものではないと思う。
そうこうしているうちに僕はドミニオンの「15金」になった。なってしまったものは仕方ない。この状態を説明するとしたらまずはドミニオンの基本ルールから説明するべきなのだろうか。そこから始めるしかないのにそんなわけがない。僕はドミニオンのルールを知っていて、それでいて何も説明できない。
僕は未だ1次元になっていて、そのまま15金になった。二次元座標に僕の姿を見ることはできないから多分これは射影ではなくスライスなのだろうと思う。これをもとの世界に戻したらどうなるのか想像もつかない。15金性が三次元の延長を以ってしてどこかに現れるとでもいうのだろうか。
「それは自明じゃないです!」
自明じゃないらしい。そのキャラクター、自明とか言うかな。
あと僕も自明だなんて思っていない。確かに射影であっても何も映らないという可能性はあるから。だけどその場合僕は何になっているというのかという問題がある。あるようでないかもしれない。概念に対応する物理量があるべきと考える道理を僕は知らなくて、でも僕ってのは一般に物理量を持っていてほしい、こう、質量とか体積だとかを。でも僕は15金であって、15金は質量を持たないと思う。だから問題はもっと奥の方にあって、即ち僕は15金ではないと思う。
僕は”呼ばれて飛び出て!参りました!みんなのスーパースター、宇沢レイサ、自明に登場です!”と自己紹介する彼女の姿を思い浮かべる。彼女にだって質量が無かったら嫌だと思う。でも彼女は物体でも宇沢レイサは概念だから、その辺りの折り合いをつけるのがとても難しい。目の前で質量然としていることであって、それ以上でもそれ以下でもないそういう類の自明さがやっぱりあって、そういう類のもの以外はまったく自明じゃないとやっぱり思えてしまってならない。平行線は交わらないだなんて言われてもイマイチそれこそ平行線のようにピンと張ることができない。
「それは自明じゃないです!」
自明じゃないらしい。そのキャラクター、自明とか言うかな。
こうやって似通ったことを君と何度も何度も繰り返している。彼女は液体に紐を巻きつけ続ける。できないことを続ける。続けられているならば出来ていることなんじゃないのかな。そんな素朴に過ぎる思考をする。差異と反復って本があって、なんでそれらを並置するんだろうと昔は思ったものだけれど、今となっては存在と時間なんかよりもずっと直感的な並置といえるなと思う。彼女の姿形は絶え間なく変わり続ける。変わり続けると僕は思い続ける。これは、自明じゃないです。同じ性の本質としての繰り返しにはなるけれど、背後に同じ本質があると考える必要はなくて、同じ彼女の表れだって感じる必要はどこにもなくって、手を変え品を変え、そんな思考をこれからも繰り返し続けるのだと思う。恐らくあんまり絶え間なく。点滅が限りなく速い時、それは単なる持続に見えうる。あるいはそれこそが、それのみが。
彼女は液体に紐を巻き続けている。円環だとか周期だとかが同一性のメタファーとして僕に入ってくる。液体に紐を巻き続けるという言葉があって、言語化できる状態は常に実在するってのが様相実在論ってやつだったと思う。いや、液体に紐を巻き付けるってことはそもそも不可能事だから違うかな。
でも不可能事が現に行われていると勘違いするってことはできて、今起きているのはそういうことなのだと思える。でもやっぱり繰り返しそれは素朴な自明性を有していなくて、僕は僕の認識を超える何かを導入する必要に繰り返し駆られる。別に、それでいいのだけれど。様相が実在するなんてのはその最たるものだと思う。言葉に出来れば実在するってのは流石にやりすぎだ。例えばラノベに対応する世界などもあるってことだけど、挿絵とかはどう解釈するのだろう。挿絵は挿絵だから無視するとして、挿絵がある本と無い本を区別できなくなるのは何か潰れている気がする。別に潰れていてもいいんだけど、言葉に出来るものはすべて実在する方面のモチベーションからするとこれはあまりにいただけないだろう。多分。というか文字だって絵のような物だと言えるし、最終的には視界だって絵のようなものと言い立てて、絵でないものを探す方が難しくなる。15金は絵ではないっぽいけど。
三次元の中で絵でないものを探しに行ったって仕方がない、そもそも空間から抜け出さないと。当然のことだけれど、こういったミスを僕たちは時々してしまう。僕が僕の彼女を探しに行くとして、どこに行けばいいのだろう。
どこを探って、どこに居なくて、居て、そんな判断をどうやって?
「例えばの話ー!これに一切の制約がなかったらどうしますか?」
その場合、
その場合、どう見出だせばいい?
彼女は液体に紐を巻き続けている。
エントロピー増大則に抗う術は、ない。これはこの宇宙がこの宇宙である限りそうで、ここまでに壊れ切った世界であっても依然そうらしい。壊れ切った世界ならより当然にそうというのは直感的ではあるけれど。でもこの宇宙がこの宇宙だって、どういうことだ、じゃあ、この宇宙がこの宇宙であり続けることってのはどうして崩壊しないんだ。最終的にはそうなるのかな。そうなったとしてまたこの世界を探しに行くとしたら、どこを探しに行けばいい?ここにあるものを仮に探す場合、より広い領域に行く必要が生まれたりするのかな。よく分からない。
あるいは本来、どうでもいいんだ。本当はどうだっていい。最終的にそうであろうと何だろうと、この話は如何せん広すぎる。局所的であれ何であれ、半永久的に僕は繰り返す。当面の間はそれでよくて、その間以外の存在は自明じゃない。そういう類の自明さがあって、それだけが自明であるように感じられて、そうじゃない類の自明さとして、僕はこの絵の背後に同じものを見続ける。
彼女は液体に紐を巻き続けている。
お前、お前も
抗っているのか
だとすると、やることは一つだろう。
これはちと簡単にすぎて、ここまでもつれ込んだ思考の出口としてはいささか陳腐にすぎるかもしれない。でもそんなことはどうでもいい、だとすると、だなんて言ったけれど、だとしなくても変わらずそうする。そもそも簡単でなくとも変わらない。これが難しいことで、全てを犠牲にする必要があっても簡単なことであって、僕はあらゆる無さを全駆動させて、
繰り返す彼女に繰り返し向き合って、
円環を結ぶ。
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