第17話 真実は暗闇の中
対岸の少女と視線が交わる。
遠くからでもわかる透き通った水色の瞳。
(きれいだ……)
物語の世界から飛び出てきたように神秘的に見える。
――まるで妖精みたいに。
そこでマルスはハッと息を飲み、大声で叫んだ。
「君は、君は
ほんの少し驚いた表情を見せた後、少女は何かを考え込むように俯いた。
声は確実に届いている。今すぐにでも向こう岸までいきたい。
川はさらさらと石を撫でて流れ、瀬だけがしゃらしゃらと光る音を立てていた。初夏の匂いを含んだ風が水面を走るたび、音がふっと明るくなる。
少女が、――顔を上げて頷いたように見えた。
「ちょっと待ってて!」
マルスは川へ踏み込むことも
膝ほどだが、数歩で腰まで落ちる。中心は色が一段暗い。踏み込むと体は一気に沈んだ。流れが足を絡め取り、身動きが取れなくなる。
スッと血の気が引き始める。
(違う……これはバクター!)
脛にまとわりつく
――そのとき、手首を掴まれた。
掴む位置が肩口へ移る。抜けないように、逃がさないような動き。視界に捉えて気づく。掴んでいたのは、人の手だ。
少女は無言で首を振る。『逆らわないで』という合図。
彼女が引く方向へ、マルスは身体を預ける。
すると圧がふっと抜け、足が底を探せるようになった。向こう岸へ渡るつもりだったのに、渡ってきたのは少女のほうだった。
「運が悪い。……それと、少し迂闊ね」
「助けてくれてありがとう。エトランジュ、さん?」
力の抜けたマルスはその場で腰を落とした。
「私たちにも名前はあるのよ」
滴る髪が陽を浴びて虹色に輝く。手足には陶器のような素肌を覗かせていた。その姿につい見惚れてしまう。少女が軽く咳払いをし、――銅級の認識票を見せながら「ノア」と名乗る。マルスも慌てて例に習った。
「ノアはチュートリアルを知っている?」
「ええ、ただチュートリアルなんて誰もが通る場所でしょう?」
マルスにとって、大切な故郷だ。
それを彼女は何でもない通過点みたいに言った。
「僕の生まれ故郷なんだ……そこに帰りたい」
一転して、彼女の表情が渋くなる。
「生まれ故郷、そう言えなくもない……かしら。でも、目的地とするのはどうなのでしょうね。いや、だからこそ価値がある?」
返ってきたのは、要領を得ない呟きと、断りだった。
「悪いけど、私たちは元の世界に帰っているだけ。そこは、チュートリアルではないのよ」
手掛かりは呆気なく失われた。
だが、失望するマルスとは対照的に、ノアの水色の瞳は輝きを増していた。
「はじまりに戻るための物語――面白いじゃない」
「全然、面白くなんてないよ!」
「そう……。それは残念だわ」
彼女は賛同されなかったことに、やれやれと小さく息を吐いた。伝わらないことを理解しているからこその諦め――そんなふうに肩をすくめる。
「この小鬼はあなたが仕留めたの?」
「最後だけ、ね」
投石の仕草をすると、ノアがクスッと笑う。
「あなたは原始人?」
「なにそれ?」
「大昔は石で戦う人々がいたのよ?」
(ば、馬鹿にされている)
意地悪な人だと感じた。
でも、実際にそう思うからマルスも言い返せない。
ノアの目尻が下がる。彼女は背負っていた革袋から一本の剣を取り出した。
「これを使ってみなさい」
渡されたのは手入れのされていない錆びた片手剣だった。オラルの短剣よりも切れ味が悪いようにしか見えない。つい、ノアが帯刀している綺麗な鞘と見比べてしまう。
「なに? 不満そうな顔ね。石よりいいでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
この剣もこの先も不安だ。外は暑くても濡れた体は冷たい。
「"
ノアが面倒くさそうな顔で、さらりと魔術を唱える。
温もりが体の外側だけでなく、心の内側にもじんわりと染みわたる。抱えていたはずの悩みが霧散していく。
(なんだか、すごく安心する)
「無いよりかマシな〝おまじない〟よ」
「おまじない?」
「説明しようとすると難しいわ……。まあ、風邪に引きにくくなると思って」
若干、投げやりな答えが返っていた。そんな単純なものには感じない。言葉一つの魔術で、心も体もとても楽になっている。
「みんな、どうしてそんな凄いの?」
「少なくとも積み上げてきた時間が違うわ」
今度はあまりにも明瞭だった。理屈を積み上げるまでもなく、胸の奥へすとんと落ちる。まだ大人として見られることがない――十二歳のマルスには重い言葉でもあった。
ノアの輪郭が、ゆっくりとほどけはじめた。
肩の線が曖昧になり、髪の一本一本が光を含んで透けていく。マルスは瞬きを忘れた。見失えばそこで終わる気がした。
「そろそろ時間ね……」
吐息に混じったその呟きは、別れを惜しむ声というより、定められた規則を静かに読み上げる声に近い。マルスは思わず手を伸ばしかけた。掴めば確かめられる。ここにいると証明できる。――そんな幼い衝動が、指先まで走る。
けれど、もう触れられない。彼女の体は川の背景が透けていた。
「あなたはこの世界の人間――制約はないはずよ」
その言葉を最後に、ノアは崩れた。砕けるのではない。形がほどけ、光の粒となって宙へ舞い上がり、陽だまりの空気に溶け込みながら、蒼い天へ吸い上げられていく。まるで光の粉が一度だけ人の形を借り、役目を終えて
さっきまで会話していた相手が、次の瞬間、いない。
残るのは、薄い光の余韻と、耳の奥に引っかかった声だけ。その奇妙さが、ノアが
◇ ◇ ◇
「小鬼の魔石5個ですね。200Gillになります」
木の器に乗せられた青銅貨二枚。
小鬼を多く討伐すれば、その分の上乗せはされるのだろう。だが、命を賭けた対価としては軽い。錆びた剣はいつ折れてもおかしくなかった。
マルスは硬貨袋に報酬を仕舞うと、ギルドを出た。
向かう先は決まっていた――宿屋『ラブランタン』だ。
夕暮れの雰囲気に包まれた表通り。ところどころで、〝一杯〟を始める冒険者の姿を目にした。
(アイカたちも戻ってくる頃かな?)
ララーナ冒険隊の輪の中に、マルスはもういない。一抹の寂しさを覚えながら、宿屋の扉を開けた。
「はいはーい、お客様は……一名様?」
「一人です。宿泊もお願いできる?」
「もちろん! ご新規一名様入りまーす!」
ミルキーが愛嬌たっぷりに席へと案内をしてくれる。その仕草が、接客によるものだとわかっていても、親密さを感じずにはいられない。
酒を呷る中年の男たちの声。ミルキーは今日も舞うように店内を駆け巡る。マルスは、塩と若干の酸味の効いた揚げ芋を摘まみながら注意深く、人の出入りを窺い、声に耳を澄ませていた。
「
「ああ、教会に運ばれたってな」
「でも、なににだ……?」
「自分たちの身くらい守れなきゃ、どの道長くは続かねーよ」
「嬢ちゃん、エール追加で一杯!」
胸にざわりとした感覚を覚えたが、マルスには気を逸らしている場合ではない。見知った人物がいないかを探りながら、今夜ここに泊まる顔ぶれを確かめていた。その間――二度目の揚げ芋を平らげた。
(なにもなしか……)
そう思ったとき、ギルドですれ違った背丈の似た二人組が来店した。
「「勝ち越し!」「持ち越し……」」
先頭を歩く方は、硬貨袋を掲げ、もう一人は背中を丸めている。マルスには、二人が何をしていたのかわからなかった。つい、訝しむように鋭い視線をぶつけてしまう。
「「見られた?」「見られた」」
慌てて視線を逸らす。ステラさんが二人を押すようにして店内へと通していた。
「あのぅ、お客さん? お皿が空ですよ。なにか追加はいかが?」
「いえ、もうそろそろ部屋に行きます」
さすがに居心地が悪かった。ただ、収穫はあったように思えた。
【
日付時計は最初にラブランタンへ来たときの翌日を表示していた。教会で眠った日を挟んでいるのだから当然だ。ただ、その当たり前がマルスを安心させた。
「他のお客さん気にしてたでしょー? お目当ての子でも探してたのかな?」
「そ、そんな人いないよ」
「ふーん、冒険者って血の気が多いから気をつけた方がいーよ!」
ミルキーから遠回しに釘を刺されながら、鈴の音が鳴る手桶を受け取った。
「はい、じゃあ『3』号室ね。これがお部屋セット!」
今日も『3』号室が空いていたようだ。マルスは変わらなかったことを心の中で喜ぶ。試したいことのためには余計な変化は避けたかった。
「マルスくんは、ここ泊まったことない……よね?」
帳簿に名前を書きながら首を傾げるミルキーに、マルスは「ないよ」とだけ伝えた。
魔石の灯具を付け、粛々と準備を整えていく。それは狩りや夜回り隊に出るときの心情に似ていた。
剣に付着した血糊を湿らせた布で落とす。なぜ、錆びついた刃で小鬼を斬ることができたのかはわからない。でも今は、これが最も信頼を寄せる武器だった。
マルスは夜を迎える。
日中の疲労は蓄積していたが、眠気は全く起きなかった。すべてはこの日を跨ぐため。静かに、注意深く、扉に目を向け続けた。木の板を差し込んで鍵はかけていた。だが、魔除けの鈴は手桶に置いたまま。できる限りの状況を再現した。
そして、時を待つ。
酒場の賑わいも、人の通りもまったく消えた頃。
――木の板はゆっくりと動き出した。
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