第16話 ひとりぼっちの冒険

「おはようございます、マルス様ですね」


 受付嬢のアンへ、小鬼ゴブリンの依頼書と認識票を手渡した。彼女はじっくりと目を通してから認識票を返す。


「あの、不躾な質問で申し訳ございませんが、ゴブリンのトウバツの依頼をお受けになるのは初めてではありませんか?」

「受けるのは初めてです」

「では――」


 アンが心配そうな表情で、連名パーティーの必要性を説く。不慮の事故にあった際に一人では対処できない。生き残る可能性がぐっと低くなってしまう。


 ――そんなことは夜回り隊で知っている。


「今は一人の方が楽なんです」


 疑心暗鬼ぎしんあんきなのは理解している。誰も信用できないし、したくない。そんな顔を仲間だと思っている者たちに向けたくない。


「ゴブリン退治は初めてじゃないので」

「そうですか……認識票をお返しいたします」


 安心させるような口調で伝えてもアンの曇った表情が晴れることはなかった。


 前回と変わらず、閑古鳥が鳴くようなホールの端。

 積まれた書類の山の特等席に、彼女――ヴァーゼル卿が机に突っ伏して寝ているのが見えた。


   ◇ ◇ ◇


 もうすぐ初夏を迎える山。

 陽に炙られた葉が重なり合い、風が通るたびにざわりと音を立てる。土の匂いに、湿った苔と樹皮の甘さが混じって、息を吸うだけで喉の奥が少し冷える。


 マルスは張り詰めていた身体をほぐすように伸ばし、肺の空気を入れ替える。太陽の差し込む時間の山は、マルスにとって庭も同然だった。


(夜でもないのに、ゴブリンなんてでるのかな?)


 心配しているのは、これがただの散歩で終わってしまうことだった。捕食菌退治で通った道をあえて外し、戻れる程度にだけ踏み固めて進んだ。


 ただ、その心配は杞憂に終わる。

 小柄でやせ細った緑の体、大きな鼻、尖った耳――まごうことなき小鬼ゴブリン


 沸いて出たかのような小鬼との遭遇。こちらの気配はわずかに悟られた。だが、先制するには十分すぎるほどの間だった。

 マルスは駆け、短剣を引き抜いた。


「"GYUA?"」


 気づいたときにはもう刃が首筋を捉えていた。あとは突進の勢いを生かしたまま致命傷となるようになぞるだけ。――いつもならそれだけだった。


(通らない!?)


 布で包まれた刃を押し付けたような感触。当然ながら手ごたえはない。小鬼は反射的に首を押さえる仕草を見せると、次の瞬間にはマルスを見て涎を垂らす。


「"AHAAA!!"」


 飛び掛かってくる小鬼を寸前のところでかわす。マルスは、今度はさきほどよりも強く押し込むように胸を突いた。


 金属を擦るような音が響く。


 心臓に届くはずの刺突だった。なのに刃は皮膚の上をすべり、浅い線だけを残す。切っ先は鎖骨のあたりで、黒い爪に受け止められ、そこで動きを失った。

 

 ――小鬼との距離を取り切れなかった。


「〝う〟っ」


 目障りそうに振り回した小鬼の爪が、マルスの肩を掠める。咄嗟に蹴りを入れ込んで、これ以上の追撃を避けた。


 小鬼が運よく斜面へと転げ落ち、崖から落下したのが見えた。

 蹴った足裏には、ジンとした感触が残った。


 マルスは迂回しながら斜面を恐る恐る降りていく。肩口からはうっすらと血が滲み始めていた。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。


 小川のせせらぎが聞こえ始めたところで、小鬼が横たわっていた。


 転げた際にできたであろう傷が生々しい。血で斑に染まった丸石が転がり、鈍く陽を返していた。

 そして――まだ、胸はせわしなく上下している。


(なんで?)


 『短剣が錆びている』なんてことはない。オラルに貰った日から、マルスにとって相棒とも言えるだ。手入れを欠かしたことはなかった。


 それが今や、小鬼にかすり傷程度しか与えられない。

 今度は勢いよく柄を両手で握り、小鬼へと振り下ろす。


 横たわった状態でも、突き入れることはできなかった。打撃となった衝撃で――小鬼が目を覚ます。

 ゆっくりと立ち上がる小鬼に震え、短剣が手から滑り落ちた。


 マルスが感じたのは――恐れ。

 隠していたはずの日の恐怖に、ついに心が耐え切れなくなった。


「〝あ〟ああああー!」

 

 自信を取り戻すはずが、勇気を振り絞って受けたはずが、すべてが裏目。信じ難く、到底受け入れられるものではなかった。


 涙で滲んだ視界に映る小鬼に向かって、

 マルスは――ただ、がむしゃらに川辺の石を投げつけた。


 放物線を描いた石が、たまたま小鬼の頭を直撃する。


「"GAaaa……"」


 小鬼は数歩ほど前へ進むと、そのまま顔を砂利へと打ちつけた。


 短剣の代わりに掴んだ小石を握りしめ、近くで――それを転がす。石が小鬼の腕に当たっても、反応はない。


「ハハ……石って、なんだよ」


 落下した時点で、すでに瀕死だったのかもしれない。

 ただ、見開かれた目の奥はもう何も映していない。


 ――勝利とは程遠い幕切れだった。


 屍となった小鬼の胸へ短剣を当てると、刃はバターみたいにすんなりと沈んだ。包まれるような感触はもうない。理由はわからない。けれど、いつものように魔石だけは抉り出せた。


(イテテ……)


 思ったほど深手ではないことに胸をなでおろす。肩口にできた傷を流水で丁寧に洗っていく。対岸には小鹿がこちらの様子を窺いながら喉を潤している。血の臭いを漂わせたまま森に入りたくはなかった。


 小鹿が慌てたように後ろへ振り向くと、川下にむかって駆けた。

 

 木々の隙間から顔を覗かせたのは、獣でも小鬼でもなく――人。

 日差しを弾いた銀髪が、空の色を拾って淡い青銀に透けていた。そこだけを映せば、川遊びにきた少女だと思っただろう。


 革の鎧と長剣とわかる鞘。

 胸元の認識票が、夕日の欠片みたいに瞬いていた。

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