第13話 その余韻を忘れない

 仲間と橙色に染まる湖畔を眺めながら街に着いた。

 そのままの足で冒険者ギルドへと向かおうとすると、シシドが冗談めかしてマルスを止める。


「〝クリーン〟しないで許されるのは裏通りまでだぜ?」


 彼の鼻を摘まむような仕草から、服や体の汚れのことだとわかった。慌てて服の袖口を嗅いでみる。

 山歩きの際の泥や汗が染みついていて少し酸っぱい。


「知らねーのか」


 シシドは平べったい青色の魔石を取りだし、マルスに向けて軽く掲げると「"clean"クリーン」と呟いた。


(え、魔術?)


 魔石が淡く発光した――それだけに見えた。けれど、爽快感がまるで違う。お日様に当たった洗濯物を取り込んだときの、あの優しい香りだ。


「なにこれ?!」

「なっ! すげーだろ?」


 横で見ていたダイが肩をすくめ、呆れた顔を作る。


「なんでお前が自信満々なんだよ……」


(本当に、知らないことだらけ)


 マルスは自分の境遇を仲間たちに伝えたいと思った。そして、この世界のことをもっと教えてほしい。


「まあ安物の方だから身体は拭いとけよ」

「ありがとう、シシド」


 いまはまだ、感謝することしかできない。

 歯がゆさを誤魔化すように、舌でそっと頬の内側を撫でた。


   ◇ ◇ ◇


「はいはーい! どうぞ~」


 夜の酒場は盛況だった。今日もミルキーは髪を揺らし、踊るように注文や配膳をこなしている。喧騒の中、マルスはさっそくあの・・話を切り出した。


「――僕は迷い子なんだ」


「マ、マルスが迷い子!?」

「まあ抜けてるところはあったしな~」


 すると、アイカが驚きのあまり早口になり、ダイが水の入ったグラスを傾けながら、茶化すように言った。


 一呼吸おいて落ち着きを取り戻したアイカは、眉をひそめて疑問を浮かべる。


「それにしては自然ね。いつからいたの?」

「それが、実は昨日なんだ」

「「ええー!」」


 二人の声が重なり、ロロは水を噴き出す。幸いなことに彼女の正面には誰もいなかった。一瞬だけ周囲の視線がこちらの卓に注がれた。


 シシドが台拭きでテーブルの後始末をしながら、初めて聞く言葉を口にする。


「――ってことはあれか? 恩寵ギフト持ちなのか?」

「恩寵? ……なにそれ?」

「……忘れていないものが恩寵」


 マルスは革袋へちらりと目をやる。


(『回帰』はきっと魔石の力だ)


 だが、特別なことなら他にもある。

 マルスは村での出来事を何も忘れていないし、忘れられるはずがなかった。『不思議な迷い子』と呼ばれたように。


「それなら僕は、『記憶』が恩寵なのかも」

「記憶?」


 珍しくダイが怪訝な顔をした。


「小さな村で育ってから今までのことを全部覚えてる。僕は何も忘れてない」

「なんだか普通だな!」

「地味ね」

「っ……」


 どうやら皆にピンとくるものではなかったようだ。ただ、ロロが何かを言いたそうに何度か目線が合った。


「お待たせ! ツィロル名物、マスの焼き魚だよ!」


 大皿から湯気がのぼる。遅れてやってくる芳ばしい香りが鼻孔をくすぐる。ミルキーがマルスに軽く目配せをし、給仕服を翻して次の卓へと移動した。


 昨日も食べたからわかる。絶品の料理。

 この香りの前で、辛気臭い話は似合わない。


「熱々のうちに食べよう!」


 ホクホクの白身に頬をとろけさせ、自然と笑顔が広がる。捕食菌の話に相槌を打ちながら、白身をもうひと口運んだ。——いまは、それでよかった。


 (いくらでも機会はあるさ)


 恩寵の話題に、もう一度触れることはしなかった。


 楽しい時間はあっという間だ。

 ダイ、シシド、それからアイカとロロ。それぞれが宿の受付を済ませると、アイカだけがその場に残っていた。彼女の手桶に入った鈴が小さく揺れる。


「ね、ねぇ!」


 少し緊張したような声だった。何かはわからなかったが、マルスはダイのように軽い調子で返す。


「どうしたのー?」

「……また明日も、一緒にやらない?」


 その言葉に、その響きに心が高鳴った。そして、マルスは安堵する。


(よかった、楽しかったのは僕だけじゃなかった)


 正直、泣きそうだった。だから精いっぱいの笑顔と、ほんの少しの強がりを混ぜて答える。


「もちろん! 誘われなかったら僕が声を掛けてたよ」

「次からそうしてよね!」


 しおらしさは影を潜め、アイカの向日葵のような笑顔が弾けた。その表情は、心が奪われそうになるくらい魅力的だった。なにより――こんな会話ができるようになった日のことを、僕は忘れないだろう。


 ――ひとりの夜。


 マルスはミルキーが運んできてくれたお湯で身体を拭き、ベッドの上へ寝ころんだ。心地よい疲れがじわじわと足腰に染みている。けれど、まだ眠るつもりはなかった。


 冒険者ギルドで受け取った大銅貨一枚と銅貨五枚。今日の努力が報われた瞬間ではあった。でも、手にしたお金は軽く、現実は重たい。


(これじゃ生きていくので精いっぱいだ)


 宿屋と食事。合わせてみたら150Gillは一瞬で消えた。もし、働けない日があったら、依頼を達成できなかったらどうする。そんな想像が恐怖となって、重く圧し掛かってくる。


(仲間……か)


 彼らはギルドで『ララーナ冒険隊』と名乗っていた。

 アイカが冒険者の間ではそれを同札リンクスと言うのだと教えてくれた。


 同じ仲間の証明になるらしい。


 マルスは自分の認識票を革袋から取り出して掲げた。中央に名前があるだけで、彼らのように左隅には何も書かれていない。


(一人が辛い)


 村では、そんな気持ち感じたこともなかった。自分を知る人がいて当たり前だった。この町にきて、ずっと独りぼっちなら……まだよかったのかもしれない。でも仲間の温かさを知ってしまった。


 だから、――今がとても寒い。


 毛布に包まっていると、意識は次第に遠のいていく。

 鈴の音が鳴らない夜を迎えた。


 微睡みの中、何かが自分の側へとやってくる気配がした。それはそっと近くまできては、遠く離れていった。


   ◇ ◇ ◇


「マリウス?!」


 聞き慣れた――そして、まだ聞きたくなかった声がマリウスを揺り起こす。目を開けると松明の光が飛び込み、思わずまぶたをすぼめた。

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