第8話 登録名
「ええと……」
受付の女性は言葉を詰まらせ、眉をひそめた。その視線は申請者本人を通り過ぎ、ヴァーゼルへと向かっていく。彼女は息を整えるかのように一瞬だけ瞼を伏せた。
そして――ヴァーゼルは「私が蒔いた種なんだ。この子をあまり責めないでやってほしい」と告げ、口元に微笑を浮かべる。
何事もなかったように、小さく首を傾けた。
それだけで場の空気は形を変えた。ここにはもう、誰かを罰するための理由が残らっていない。その振る舞いは、誰の血を流すこともなく、抜かれた剣を鞘に収めさせるかのようだった。
(すごい……)
それ以上の言葉が見つからない。
張り詰めた糸が緩み、周囲の表情が安堵へと変わっていく。受付側からは「さすがお姉様、素敵……」と、熱を帯びた黄色い歓声まで飛ぶ。
「そろそろ、私は帰らせてもらうよ」
ヴァーゼルはマリウスをチラリと見やると、ローブを翻して足早に去っていった。背中越しに、〝あとは君次第だよ〟と言われた気がした。
――もう一度、冒険者登録を申し出た。
胸元の名札には『アン』。
この栗色の髪の女性は、大男に何を言われても毅然としていた、あの受付だ。さっき黄色い歓声を上げていた一人でもある。
(絶対、怒ってるよね、これ……)
アンの張り付いたような笑顔。真っ暗な井戸を覗き込んでいるような瞳。
快く思われていない。そう悟るには十分だった。
「どうなさいました?」
「い、いえ、早く登録したいなーって」
「そうでしたか。では――」
口だけの笑みを浮かべ「お名前をどうぞ」と。恐怖を感じずにはいられない。
「ええと……」
存在しない村。
迷い子。
見知らぬ土地での暮らし。
安定しない感情。
この世界にきてから育った悩みの種は、すでにあちこちで芽吹いていた。根は複雑に絡み合い、どれも簡単にはほどけぬものばかり。思わず声を詰まらせた。
――マリウスのままでは心がもたない。
改めて名前を問われた瞬間、名乗ることすら戸惑いが生まれた。また、傷つくんじゃないかと、二の足を踏んだ。
「私が書きますので、伝えてもらうだけで結構ですよ」
言い淀んだだけ。
文字が書けないと思われただけの――ただの勘違い。
(そうだ!)
ただ、その〝勘違い〟がマリウスに閃きを与えた。
自分であって自分ではない名前。
「名前は――マルス、です」
宿屋の帳簿に記載されたとき、『まあ良いか』と思えたマルスという名。それはほんの偶然だった。でも今ならわかる。あれは、もう一人の自分が生まれた瞬間だった。
(この世界の僕はマルスだ)
マリウス、いや、マルスはそう心に決めた。
「マルス様ですね」
アンは少しの間だけ背中を向けると、大量の羊皮紙の束をマルスの前にどさりと置いた。鈍い音が机の上に響く。
(これは!?)
「冒険者組合には規約と呼ばれる多くの決め事がございます」
この物言いに、マルスは既視感を覚える。読み書きと計算を母に教わったときの記憶だ。勉強が嫌で嫌で仕方がなかった。魔術だって早々に諦めた。
(いったい何のためにこんなことやるんだって)
そう思っていた。
もし、何事もなくこの町を訪れていたら、そこで冒険者登録をしようとしていたら、つまらないものだと聞き流していただろう。
でも今なら少しわかる。
『わからない』が広がるほど、心細さは増える。放っておけば、軽い打撃みたいにじわじわと体力や気力を削っていくんだ。
(今度は嫌がらずに一から覚えよう)
マルスは身構え、一語一句逃すまいと耳を研ぎ澄ませた。
アンは手元の羊皮紙の端を揃え、指先でトン、と優しく叩いてから、ようやく口を開いた。
「と言っても、この量だと日が暮れてしまいますので、登録時は大事な要点の三点だけをお伝えしています」
「……」
「……ふふ」
(この人、絶対わざとだな!)
彼女は微笑をごまかすように羊皮紙をペラペラとめくり、何食わぬ顔で話し始めた。
「『依頼を選択し受付する』のが一点目です」
首を横に向けて掲示板を見る。内容は遠目では見えないが、ここには色褪せた羊皮紙が一枚だけしか貼られていない。
「これしかないの?」
「掲示板の机上にもございます。貼られるのはその依頼書限りの固有依頼、机上には常設の一般依頼が中心となっていますが……」
申し訳なさそうに「ご指摘の通り、依頼が多くはありません」と、言葉を繋げた。
「僕が受けられる依頼はあるの?」
「もちろんです。ツィロル付近は凶悪な魔物も少なく、安全に経験を積める場になるかと思います」
(それなら、もっと新人の冒険者が多くてもよさそうだけど……)
閑古鳥の鳴くようなホールで、人の賑わっている姿は想像できない。
アンはさらりと流すように説明を続けた。
「二つ目は等級です。主な等級は下から、
「銀級になるのは難しい?」
「はて……銀級ですか。冒険者の到達点とも言えます。目指し続けた一握りの人がなれますね」
(父さんと母さん、そんな凄かったんだ……)
両親が銀級だったことは知っている。それが自分のことみたいに誇らしい。
「昇級は依頼数と難度別達成率が重視されますので、無理なく依頼をこなすことをお勧めします」
アンが念を入れるように釘を刺した。
「失敗を繰り返すと、等級が下がったり?」
「一度昇級したら、依頼の失敗で下がることはございません。大抵は――その前に死亡認定となるでしょうね」
淡々とした物言いに、ぶるりと背筋が震えた。失敗したら死ぬぞと、暗に伝えているのだろう。マルスは身の丈にあった依頼を受けようと肝に銘じた。
「最後は注意事項ですが、冒険者同士の争いは
先ほどの出来事が強調されているように聞こえた。職員が止めに入ったのは例外だったのだろう。
(許されなかったらどうなった?)
何もわからないが、わからないことが今は怖い。
「もうしません……」
「出過ぎたことを言いますが、相手を選ぶ目を持つことです」
真剣な眼差しだった。マルスは受け止め、しっかりと頷いた。
「さて……、残りは適宜、必要なときに受付へお越しください」
彼女の表情が少しだけ柔らかくなったような気がした。
登録のための質問は、矢継ぎ早に繰り出される質問に答えるだけで、思ったよりもあっさりと終わった。
(年齢は十二歳、人族、職業は剣士にしたっけか)
アンは白い布の手袋に指を通すと、おもむろに灰色の板の端を持ち、机の上へと置いた。
「どこでも構いませんので認識票に触れたままにしてください」
認識票は手のひらほどの金属板だった。恐る恐る人差し指で触れた瞬間――体温をじわじわ吸われるみたいに、右手の先から力が抜けていく。
やがて、板の表面にぼんやりと淡い光が浮かび、そしてすっと消えた。
「もう離していただいて結構です」
マルスは手を引っ込め、指先の感覚を確かめた。何事もなかったように指は動かせる。冷えていた身体に熱が巡ってくるのがわかる。
「認識完了です。これがマルス様の錫級の認識票となります」
受け取った認識票は灰色にくすんでいた。その鈍い色味がマルスの想像する冒険者っぽくもあり、男心がくすぐられる。
うっすらと複数の文字が重なる中、『マルス』という文字の色だけは濃い。
自分の存在が刻み込まれた――そんな実感が、じわじわと湧いてくる。
ただ、見入っていたせいだろう。アンが「錫級の認識票は使い回しなので……」と付け加えたのは、ほんのちょっぴり残念だった。マルスはそそくさと認識票を革袋へしまった。
「登録作業は以上となります。お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
深く息を吐くと、肩の力が抜け、次いで疲労が押し寄せた。
(なんか夜回り隊よりも大変だ……)
時間にしてみれば大したことはないはずなのに、足腰も張って気持ちが悪い。どこかスッキリとしない疲れだった。早く身体を動かしたい衝動に駆られる。
それに、――登録だけで終わるわけにもいかない。
この後の昼食は? 夕食、宿代は? この先いくらかかるのかもわからない。底がつくのは目に見えていた。
「さっき見た
胸の中のもやもやを吹き飛ばすように、声を張り上げた。
冒険者マルスとしての初依頼が、幕を開けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます