第6話 英雄の一歩

 マリウスの朝は早い。

 昨日はそのまま泥のように眠ってしまったとはいえ、起きる時間はいつも日の出より少し前だ。父と狩りに出ていた習慣は、記憶だけではなく身体にも染みついていた。


(イタタ)


 ガチガチに固まった背中をほぐしていると、部屋の片隅から四角い輪郭を描く淡い光が漏れはじめたことに気づいた。


 きっと窓だろう。……いや、窓だとしても、いまさら驚かない。そう思いながら、ただの木の板をめくり上げる。ついでに立て掛けてあった木の棒を挟むと、開いた状態が固定された。


 薄暗さの残る中、窓から身を乗り出す。水気を含んだ風が頬を撫でた後――マリウスはハッと息を呑んだ。


 黒い湖面のさざ波が、迫り来る魔物の群勢のように見えて背筋が震える。


 だが、端から顔を出しはじめた太陽が、街へ向かって光の剣を伸ばしていた。徐々に輝きを増していくそれは、あらゆる闇を討ち払い、世界を煌びやかな水色へ塗り替えていく。透き通った水が喜びを示すように光を反射し、湖畔の建物の壁に揺らめく波紋を描く。


 ――まるで、人々が英雄を喝采するかのようだった。


 マリウスは、これが自分の目指したい姿なのだと直感し、拳を作って握りしめた。


 熱に当てられたみたいにしばらく見惚れていると、光の剣は、人々のよく知るただの太陽へと戻っていった。


「あら早いのね」


 カウンターで帳簿を眺めていたステラさんが手を止め、こちらを向いた。マリウスが桶を持っているのを見て、「昨日ミルキーが来なかったのかい」と眉間に皺を寄せる。


「いや、横になったらすぐ寝ちゃって」

「本当なら夜だけなんだけどねぇ。一階の厨房にうちの旦那がいるから、お湯もらっといで」


 ミルキーのせいにならなくてよかった、と内心で安堵しながら、促されるままに階段を下りた。


(あれ、意外と人がいる?)


 早朝の酒場は、しんと静まり返っているものだと思っていた。だが、すでに何席かテーブルが埋まっていた。


 とりわけマリウスと同い年くらいの男女四人組が、広げた羊皮紙を覗き込みながら、固そうなパンをかじっている。


「ん〜、今年はバクター多いな」

「早く起きる必要、なかったんじゃないの」

「善は急げ。依頼は早い者勝ち、だろ?」

「ポーション、たくさん作れる……」


 各々ぼやいているのに、どこか息が合っている。

 つい見過ぎたからか、その中の活発そうな女の子がマリウスに気づいた。マリウスは慌てて視線を戻し、彼らのテーブルの横を足早に通り過ぎた。


(ここだよな)


 いい匂いに誘われるように、蝶番の扉を押し開ける。

 すると白くて長い帽子を被った男性が、小麦粉を捏ねていた。


「ステラさんの旦那さん?」

「おう、坊主。ここは厨房だぞ?」


 寝惚けて間違えたと思われたのだろう。マリウスはすかさず桶を前へ差し出した。


「お湯をもらえるって聞いて」

「ああ、ちょいと待ってな」


 ひょいと桶を取られ、火の焚かれた大鍋から〝タプン〟とお玉で掬って注がれていく。

 ただのお湯なはずなのに、なぜか美味しそうに見えるから不思議だ。


「……熱いから気をつけろ」


 そう言って、おじさんはマリウスの胸元を一度だけじっと見てから、湯気の立つ桶をそっと手渡してきた。――何を見た? 問う暇もなく、マリウスは桶に両手を回して受け取った。


   ◇ ◇ ◇


 身支度を済ませて酒場へ戻ると、先ほどの四人組はいなくなっていた。


「はいっ! ラブランタン自慢の朝食だよ!」


 テーブルに残っていたパン屑は拭き取られ、いまマリウスの目の前には、柔らかそうなパンと黄金色の玉葱のスープ、焦げ目のついたベーコンを乗せた目玉焼きが運ばれてきた。


「うわぁ、めっちゃ旨そう!!」


 思わず、息で涎を吸い上げる。

 マリウスの反応に、ミルキーは上機嫌そうに腰へ手を当てて胸を張った――そこへ、ステラさんがお盆でミルキーの頭を叩く。


「あんたは今起きてきたばっかでしょ。胸張るならウォルトを手伝ってきな」

「はーい!」


 頭を押さえながら逃げるように厨房へ向かうミルキーを見送り、マリウスはさっそくご馳走にかぶりつく。

 ……うん。これがラブランタンの朝ってやつか。


 ステラさんが水を注ぎに来てくれたとき、挨拶のように「これからどうするんだい?」と問いかけてきた。先の見通しなんて、なかった。けれど、向かわなければならない場所だけはある。


「冒険者ギルドに行きます」


 そう言うと、彼女は疑うように目をじっと向けてくる。冒険者ギルドへ行く、その真意を確かめるような眼差しだった。

 マリウスは簡単に、村で起きた異変のことを伝えた。


 すると彼女はふっと力を抜き、心配そうに眉を下げた。


「大変だったねぇ……でも本当にこの辺なのかい?」


 その問いに、マリウスは答えられなかった。


 道は行きがけにステラさんが教えてくれた。湖畔通りを背に、小道をひとつ折れると、ほんの数歩で空気が変わった。表通りだ。人と声と匂いが、一斉に押し寄せてくる。


「熊肉の串焼き! 今朝のひと狩りの一品をどうだい!」

「大根、人参、玉ねぎの野菜! ヤオサの野菜は今が安いぜー!」


 脂が弾ける音。銅貨が箱へ落ちる音。その合間に、子どもの笑い声がどこか遠くから届いた。少し埃っぽいのに、誰もそれを気にしていない。むしろ、その埃さえ街の呼吸みたいだった。


(……これが、『街』なんだな)


 木造の簡素な建物が並ぶ中、明らかに景観として浮いている場所を見つける。

 表通りの中央に陣取る、真新しい石壁の建物。


 ――冒険者ギルド。


 ステラさんの若干、呆れを含んだ「見ればすぐわかるよ」という言葉の意味がわかった。あまりに立派で、近づくだけで気圧される。マリウスは扉へ手を伸ばすのをためらう。


「邪魔だ、どけ」

「イタッ」


 後方からの衝撃でマリウスは横へ押しやられた。肩がぶつかったのだと、遅れて気づく。


「ふんっ」


 等身大の剣を背にした大男は、こちらを見向きもしないまま扉を開けた。大男に続いて、口元まで布で隠した女と、背丈の似た二人組が中へ入っていく。


(くそっ……僕はなにしてんだ)


 扉を眺めていても、何も始まらない。

 一瞬の怒りが、さっきまでの戸惑いを上書きして、踏み込む推進力をくれた。


 そして今度は――マリウス自身の手で、重たい扉を押し開けた。

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