第5話 湖畔の初夜
テーブルの上が綺麗に片付いた頃。
「さてと、俺は仕事に戻ろうかね。さすがにバートンに怒られちまう」
「やっぱり仕事中だったんじゃん! でも――ヘルナー、ありがとう。本当に助かったよ」
言い終えたところで、マリウスは自分の肩から余計な力が抜けているのに気づいた。
ヘルナーは年上だ。なのに、オラルのように「気にしなくていっか」と心を緩めさせる空気がある。軽いのに軽すぎない。油断させるのに、肝心なところは締めてくる。短い時間で、そういう人だとわかった。
「この後のことは酒場のおばちゃ……ステラさんに聞きな」
ヘルナーは飄々と立ち上がり、手の甲をひらりと向けて口笛を吹きながら立ち去る。
背後を振り返ると、先ほどの年配の店員が小鬼のような形相をしているのが見えた。額の血管まで浮きそうな顔だ。
(うん、僕も『ステラさん』と呼ぼう)
「あら、逃げるように去って行ったわね」
「いつもあんな感じなんですか?」
ステラさんは少し溜め息混じりに、「最近はそうだねぇ」とだけ呟いた。何か理由がありそうな口ぶりだったが、興味だけで踏み込むのは違う気がした。
「泊まるところはまだ決まってないのよね?」
ステラさんは「ついといで」と言って、どっしりとした足取りで店内へ入っていった。マリウスもその後に続く。
中は想像以上に賑やかだった。叫びにも近い話し声や笑い声が、天井にぶつかって跳ね返ってくる。酒と肉の匂い、熱気。人の多さが、肌にまとわりつく。
「はいはーい! 二番さん生エールおかわりと、ジャガイモ煮追加ねっ!」
その中で、ひと際よく通る声で注文を取っている女の子がいた。狭いテーブルの間を縫うようにすり抜け、次々と注文を厨房へ伝えていく。
(踊ってるみたいだ)
軽やかな足取りに合わせて柔らかな曲線が波打ち、給仕服の裾が小さく翻る。酔っぱらいたちは調子に乗って、またその
「うちの自慢の娘なんだ。ミルキー! 代わるからこの子の宿泊受付してあげて!」
「はーい! 君、そこの階段上がって待っててー!」
途端に囃し立てる声が、罵詈雑言へと変わる。
酒場のおばさんも負けじと「あんたら私じゃ満足できないってのかい!!」と声を張り上げれば、笑いが生まれて店内はまた回りだす。
マリウスは一階の様子に呆気に取られながらも、言われた通り階段を上った。二階まで来ると騒々しさは若干和らいだ。音が壁一枚向こうになる。
木製のカウンターの上には呼び鈴と日付木札が置かれていた。
【
廊下の先には番号が書かれた部屋が並んでいる。左右の部屋の最初が「1」と「5」だから、八部屋だろうか。
そんなことを考えていると、階段を駆け上がってくる足音が響いた。
「お待たせー! 私はラブランタンのミルキー。君は……ここ初めてだよね?」
ミルキーは息を整える間もなく笑顔を向けた。袖を直しながら軽く覗き込んでくるその視線に、マリウスは少しだけ肩をすくめる。近い。距離の近さが、この街の〝普通〟なのかもしれないが。
「は、初めてです」
「さっそく料金説明からするね。一人部屋、朝食付きで100Gill。安いほうの朝食なしは85Gillだけど、損だと思うな~。朝ご飯、美味しいよ?」
勢いに頷きそうになるのを抑え、マリウスは硬貨の入った布袋を差し出した。
「これで足りる?」
木の器に硬貨を出すように促されると、ミルキーは慣れた手つきで枚数を数えていく。指先が迷わない。
「青銅貨二枚と、銅貨十枚だから300Gillあるよ」
(それって、決して多くはないよね)
つまり、三日間何もしないでいると野宿生活が始まってしまう。
けれど――。
「……今回は朝食付きで」
夕食のおいしかった料理の数々を思い出したら、断る選択肢はない。『今回は仕方ない』と自分に言い聞かせ、言われた通り青銅貨を一枚支払った。
「了解! ありがと~」
彼女は小さな帳面にさらさらと何かを書き込むと、改めて「お名前は?」と訊ねた。
「マリウス、です」
再びペンが走る。だが彼女の手元の文字にちらりと目をやった限りでは、『マルス』と見えたような気もする。
(……まあいいか。呼ばれた時に違ったら言おう)
「はい、じゃあ『3』号室ね。これがお部屋セット!」
手渡された小さな桶の中には、タオル、鍵、そして〝赤い組紐の鈴〟が入っていた。
「この鈴、寝るときは扉の裏側に引っ掛けてね。魔除けなんだ」
「えっ、魔物が入ってくるとか!?」
マリウスの声に、彼女は吹き出しそうになって首を振る。
「それはないない。――けどね」
笑みを残したまま、ふと困ったように視線を落とした。
「泥棒とかが入りにくくなる魔道具なんだけど……他の宿屋にはなかったのかな?」
「僕が暮らしていたところにはなかった、と思う」
「とてもいいところにいたんだね~」
その目が、一瞬だけふわりと細められる。
マリウスは村での生活を思い出しながら、静かに頷いた。あの当たり前の夜が、今は遠い。
すると、「ミルキー!」と一階からステラさんの呼び出しが掛かる。
「鈴はカウンターに返しにきてね! もし無くすと、50Gill追加で掛かっちゃうから!」
ウィンク混じりにそう言って、ミルキーは軽やかに階段を駆け降りていった。
一階へ向かう階段からは愉快な歌声が聞こえてくるものの、客室側は音もなく静まり返っている。店の熱が嘘みたいだ。
(まだ、部屋を使っている人はいないのかな?)
3号室はすぐに見つかった。廊下の左側にある三番目の部屋だ。番号を確かめてから扉を開けた。当然ながら中は真っ暗だった。
ただ、中央の壁に薄ぼんやりと淡い光を帯びている何かがある。
恐る恐る近付いてみる。それはミリアにあげた風の魔石のように、光が渦巻いていた。
(なんでこんなところに魔石が……)
壁に埋め込まれたそれをつつくように触れてみた。
すると――マリウスの目に光が飛び込んでくる。
「眩しっ!!」
上体をのけ反らせ、思わず声が出てしまう。
白くなった視界が戻っても、魔石は安定して発光を続けていた。触れると点き、もう一度触れると消える。この魔石が蝋燭の代わりなのだと気づくのに、しばらくの時間を要した。
部屋にはベッドと小さな机、椅子が部屋の隅に置かれていた。そのため、前方にはガランとした空間だけが広がっている。
(魔石以外は、簡素な部屋だな)
何もない床へ申し訳程度に桶を置くと、「シャラン」と鈴の音が響く。
マリウスは魔除けの鈴を手に取って、まじまじと眺めた。
一本一本が丁寧に編み込まれた赤い組紐に、小粒の鈴がついている。指で振ると、先ほどと同じ澄んだ音を立てた。
(忘れないうちに、もう付けておこう)
入口の扉へ目を向けると、木の板を差し込む場所の横に、引っ掛けられる金具が出ているのが見えた。
安全を確認するかのように『ここだよな』と思いながら、鈴を引っ掛ける。
(なんとか、今日の居場所は……確保できた)
〝やるべきことがもうない〟と思った瞬間、疲れがどっと押し寄せてきた。
想像以上に硬いベッドに驚きつつも、横になる。背中は痛いのに、まぶたが重い。
(初めてのことばかりだ)
迷い子、神々の楽園、異邦人。それだけじゃない。普通に過ごすことさえままならない。わからないことだらけで、すべてが手探りのように感じた。
――村での日々が、とても恋しかった。
でも、親切な人もたくさんいた。そうじゃなかったら、この見知らぬ地で心はぽっきりと折れていたに違いない。
(僕は明日、冒険者ギルドに行く)
マリウスは自分で自分にそう言い聞かせた。そうでもしないと、二度と起き上がれないような気がした。
だから――今は僕一人しかいないこの場所で、泣いたっていいだろう?
また明日頑張るために。
微睡みの中で、「シャラン」と綺麗な音が響いた。
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